待ち合わせ

アゲ美と分身とお弁当

 

 

 

 

 

 現在の時刻は12:45
 昼休みが開始してから、十五分が経過した。
 オレが今いるのはオカルト部の部室、昨日斉木さんとここで一緒に昼を食べようと約束したので、来るのを待っている最中だ。
 けど…オレはある方にちらりと目をやった。
 これのせいで、斉木さん来てくれないかもしれないな。
 オレは、わき目もふらず食事に没頭するそいつを眺め、はぁと息を吐いた。
 こいつがいたんじゃ、絶対来てくれないよなぁ。
 無理っスよねえ、斉木さん。
 今朝の出来事を思い返す。

 いつも通りの登校時刻に、んじゃ行ってきまーすと下宿先の寺を出発した。
 順調に進めれば、いつもの場所で斉木さんにおはよう出来る、上手くすればおうちまで迎えに行けると、喜び勇んだ足は、寺から少し行ったとあるお宅の前で止まった。
 正確に言うと幽霊が引き止めたのだ。
 そのお宅、朝も早くから、庭木の剪定に勤しんでいた。
 取り組んでいたのはレモンの樹だった。
 オレも毎度通る度、よく茂ったなあと目に留めるほど立派に育っていて、たまに見惚れたりしていた。
 さすがに伸びすぎだと思ったのだろう、洒落た帽子をかぶった小柄な奥様が、剪定鋏を手にせっせと枝を切り落としていた。
 通学路という事もあり、時々挨拶する間柄なので、挨拶ついでに大変っスねとひと言加えてみた。
 本格的に暑くなる前にスッキリさせてしまいたくて、と奥様は切り出した。
 で、やるなら日が照る前にと思って、発作的に始めたの、と朗らかに笑った。
 頑張って下さい、ありがと、いってらっしゃい、
 いつものように挨拶を交わして歩き出した時、この辺りで見かける幽霊の一人が、待って待ってと引き止めた。
 ――足元気を付けて、零太くん!
 足元には、切り落とされた枝がいくつか散らばっていた。レモンには鋭い棘があるから、オレが踏んで怪我をしないようにと忠告してくれたのだろう。
 優しい幽霊の気遣いに感謝し、オレは大きく避けて行こうとした。
 ――ねえ、待ってよ!
 幽霊が踏むなといったのは、トゲもそうだが、切り落とされたそれにくっついている小さな命を指していた。
 ――この子、どうにかしてあげて!
 幽霊の指差す先には、緑色のとあるものがくっついていた。
 アゲハの幼虫だと嬉しそうに教えてくる幽霊に、オレはいくらか顔をひきつらせた。
 オレは、誰かさんほどじゃないが、虫が苦手だ。
 ガキの頃は全然まったく平気だったけど、大きくなると段々苦手になっていくあれの通りに、普通にダメ。
 毛嫌いするほどではないのであそこまで生きづらくはないが、率先して触れるものでもない。
 しかし、幽霊にお願いされちゃむげには出来ない。
 オレはビクビクしつつ枝を摘まみ上げた。
 幼虫は、枝にきちっと掴まりじっとしていた。
 あんまり動かないので、死んじゃってないよなと、恐る恐る指を近付ける。見るからに柔らかそうで、ちょっと力加減を誤ったら潰してしまいそうだった。そっとそっと、尻の方につんと触れる。触った感触はあるが、幼虫はピクリともしない。生きてるのか死んでるのかわかんねーな。今度は、もう少し大胆になって、背中の方を触ってみる事にした。幽霊が、傍でハラハラしながら見守っている。オレは静かに指を接近させ、うわ、とばかりにつついた。
 突然、幼虫の頭から二本の黄色い角が伸びた。
「!…」
 小さな存在の、小さな抵抗だが、オレは大げさに仰け反った。
 幼虫は飛び出させた角を振ってしばらくオレを威嚇した。それから角を引っ込め、また元通りじっと静の姿勢を取った。
 ほっ…生きてた。ああびっくりした。びっくりしたけどよかった。
 しかし。
 どうにかって、どうすりゃいいんだ、思案していたら、奥様が話しかけてきた。
 どうしたのと言うので、これが、と恐る恐る差し出した。
 もし、害虫として踏み潰してしまうなら、自分が引き取ろうと思っていた。
 幸い奥様はそこまで敵視はせず、しかしながらうちで飼うのも、と困り顔になった。だよなあと、オレも口を引き結ぶ。
 奥様はしばし思案したあと、そうだと何かを思い出し、家に引っ込んで少々、小さなカゴを手に戻ってきた。
 昔、子供が蝉取りに使っていた虫取りカゴだという。
 階段下の物置から、わざわざ取ってきてくれたのだ。
 埃を叩き落しながら、これどうかしらと差し出された。
 これで学校に持っていくのは。と少々の葛藤が起きたが、後日お返ししますと約束して、オレは有難くお借りする事にした。
 奥様はあと、手ごろな大きさの買い物袋も持たせてくれた。これで包めば、鞄が汚れないからという事だ。
 オレは丁重に礼を言い、その通りカゴを入れて鞄に収め、学校に急いだ。
 回想終わり!

 そして現在。
 オレらが昼飯時なように、幼虫もご飯の時間だとばかりに、旺盛な食欲をみせた。
 硬い葉もものともせず、幼虫はバリバリと音を立ててもりもり元気に食べていた。
 斉木さんを待ちながら、オレは何気なくカゴを覗いた。
 意外と、面白い模様してるな。
 これなんて、まるっきり目玉じゃん、なんかかわいい。
 あと、目玉模様の間にある模様もかわいいな。
 表面はすべすべでちょっとシワシワっとしてて、見てると背筋が少しぞくぞくするけどそこまで嫌じゃないな。
 ああ…斉木さん来ないな。
 こりゃひょっとすると今日は来ないかもしれないな。
 時計を見る。一時まで、あと五分。
 昼休み終了まで、あと三十分。
 しょうがない、斉木さんは諦めて、弁当食べちまいますか。
「オレもお昼にするっスよー」
 小さくても命なので、オレはそう声に出して、カゴの中に話しかけた。
 すると声、音に反応したのか、芋虫は長い身体をびくっと収縮させ、食べるのを中断した。
 捕食者に狙われやすいから、ちょっとの刺激でもしっかり反応するのだろう。
 オレは慌てて片手で謝り、食べて食べてと囁いた。
 それからは、なるべく大きな音を立てないよう気を付け、オレは弁当包みを解いた。
 その時だ。
『おい、待て』
「!…」
 あ、斉木さん!
 待ち人の呼びかけに、オレはぱっと顔を輝かせた。

『今日は一緒に食べる約束だろ』
(そうっス! お待ちしてますよ、今どこです?)
 返答がない。
(もしもし、斉木さん?)
『……そこからすぐの、トイレの中だ』
(トイレ…またどうしてそんなとこに)
『気を落ち着けているんだ』
 ああ。
 オレは、チラっとカゴに目を向けた。
(これ、ほんとすんません)
 オレは心から謝った。斉木さんの事だから、オレから説明するまでもなく読み取って、事情はもう理解しているだろう。
(あの…怒ってます?)
『別に』
 うわ。
 見えないけど見えたよ斉木さん。アンタのとんでもなくどす黒くなった怖い顔が見えたよ。見えた気がした。
『怒ってはいない。とにかく、もう少し落ち着いたらそっちに行くから、それまで待て』
(はいはい、お待ちしてます)
 オレは弁当包みから手を離した。
『もう少しで、お前への殺意が薄れるから』
(やっぱ怒ってんじゃん!)
 思わず腰を浮かせる。
 ガタっと響いた椅子に芋虫がまたもビクっと反応する。
 ごめんね、オレもかなりビクっときたんだ。

 それから一分ほどで、斉木さんはやってきた。
『お待たせ』
 背後に瞬間移動でやってきた気配がした。歩いてこないとは珍しいなと思ったが、歩いてジワジワ距離を縮めるのが嫌で、思い切って一瞬で行ける瞬間移動にしたのかな、とオレは推測した。
 どんなおっかない顔で現れるかとビクビクしていたので、オレはすぐには振り向けなかった。
 深呼吸のあと、出来るだけ神妙な顔で、すみませんと振り返る。
 その顔が、一瞬にして驚愕に染まる。
「――!」
 人間本当に驚くと声なんて出ねえのな。
 椅子をガタつかせて立ち上がり、ただ目をひん剥くだけ。
「なにこれー!」
 喉がかれるほど叫ぶ。
 今、オレの目の前にいるのは、どこの地球外生命体だよっていう軟体生物で、それが床にへばりついていた。
 斉木さん、斉木さーん、どこにいんの、何なのコレ!
「た……助けて」
 物体はよく見ると頭部と手のようなものがあった。蝋で作った人形を溶かしたようなものといえばいいだろうか。よくよく見ると、片方の手に弁当包みを提げている。それはオレになじみ深い、そう、斉木さんの弁当包み。
『さあ、昼にしようか鳥束』
 そして頭に響くこれは間違いなくテレパシー、目の前の物体から発せられたのは間違いない。
 物体は間違いなくオレの事を鳥束と呼び、テレパシーを使い、斉木さんの弁当箱を持っていて…え、え…じゃあこれ斉木さん?
 斉木さん本人?
 虫が怖くて嫌で、嫌で嫌で嫌過ぎて、その結果こんな姿になっちゃったとか?
「そんな……」
『そんなわけあるか』
 馬鹿かと呆れた響きにはっと息を飲むと同時に、目の前の物体がじわっとオレに近付いてきた。
「ひっ!」
『落ち着け、それも僕だ。正確には僕の分身だ』
「ぶ、分身?」
 すごいね、そんな能力もあるんだ斉木さん。
 でも全然斉木さんと似ても似つかないけど!
『ああ、外見の精度はランダムでな。だが以前実験した時はもっと僕に近かったが……』
 あー、分身でやり過ごそうと思って発動させたはいいが、テンパってて上手く制御が出来ずこうなったとか、多分そういう事だろうな。
『だが能力的には何ら変わらない。中身は僕と全く同じだ』
「いくら同じでも、これとお昼は嫌なんですけど!」
『そう毛嫌いするなよ鳥束』
「ちょっと、ジワジワ近付いてくるのやめて!」
 一旦止まって、ストップストップ!
『確かにそれじゃまずいな』
「まずいもまずい大まずですよ!」
『何だ鳥束、何が大まずなんだよ』
 トイレにいる斉木さんに返答すると、目の前の斉木さんがオレの方に溶けかけた腕を伸ばしてきた。足首に今にも触れそうだったので、いくら中身斉木さんとはいえ勘弁下さいと、オレは涙目で一歩退いた。
『まずいぞ鳥束。僕が受けたものは分身に行くが、分身が受けたものは僕に来ない。つまり分身が食べても――僕は空腹のままだ』
「問題そこっ!?」
『とにかく戻れ。他の方法を考えよう』
『やれやれしょうがないな』
 物体はオレに弁当包みを放り投げると、来た時と同じように瞬間移動でかき消えた。オレは慌てて受け取り、冷や汗の滲む額を拭った。
「斉木さん……」
 天井を見上げ、大きく息を吐き出す。
 向こうも向こうで、かなりパニクってんな。

 分身が姿を消し、五分が経過した頃、ついに本物の斉木さんが姿を現した。
 オレはそれまでに、芋虫のカゴを部室の隅に置き、エロ本をかぶせて見えないようにして、出来るだけ快適に過ごせる環境を作った。
 しかし斉木さんは、入るなりまっすぐそちらへ目を向け、今にも力尽きそうな人の顔になった。
「見ない見ない、見ないっスよ。何もいないっスよ」
 無駄かもしれないが暗示をかけてみる。
『……遅くなったな』
 遠い耳鳴りのようなテレパシーに、胸が痛んだ。
「いえいえ」
 ほんの、三十五分ほどですよ。昼休み終了まで二十分以上あるし、さ、ゆっくり食べましょ。
 斉木さんはヨロヨロとオレの方に歩み寄ると、倒れ込むように寄りかかってきた。
 相当ダメージ受けてるなと、オレは慌てて支え抱きしめようとした。
 しかし。
 それより早く斉木さんから、ギリギリ復元の要らないパンチを貰い、悶絶する事になる。
「おごっ……怒ってるんスね」
『怒ってないよ』
 だから顔怖いっての!

 ――いただきます
 二人揃って頭を下げる。
 斉木さんはげっそりした顔で弁当の蓋を開け、弱々しい動きで箸を口に運んだ。
 オレはまたすんませんと謝る。
 斉木さんは首を振るけど、でも謝らずにいられない。
 それから少し食べ進めたところで、オレは口を開いた。
「斉木さん、聞いていいっスか」
『なんだ』
「興味本位で何ですけど、アンタって昔っから虫嫌いだったんですよね。じゃあ、どこかで、絶滅させるとか、いないのは自然な事だとマインドコントロールするとか、いなくても生態系崩れないように超能力で細工するとか、そういうのって考えたりしなかったんスか?」
『思考が読めないから恐ろしいし気持ち悪いと思うが、消えてなくなればいいと思った事は、数回くらいしかない』
 あ、数回はあるのね。
『極力視界に入らないでくれれば、それでいい』
「なるほどね」
 うーん、思考かあ。
 オレは、さっきの食事風景を思い返した。
 実は結構単純で、案外人間とそう変わりないんじゃないかな。
 腹が減ったら食べる、疲れたら休む寝る、てな感じに。
 そんで大人になったら、良い相手と巡り会って交尾して…うん、あんま人間と変わんないな。
「オレらと、そう変わらない気がしますね」
 そこに、楽しいとか嬉しいとかの感情があるかないか、それくらいではないだろうか。
 そもそも、本当に彼らに感情がないかどうかも、わからないではないか。
 人間目線で勝手に有る無し決め付けてるだけだし。
 あんまり小さいから斉木さんが感知出来ないだけで、実は結構感情豊かだったりするかもね。
『やめろ、気持ち悪い』
「え、でも、何考えてるかがわかればいいんですよね。そうすれば斉木さんも、毛嫌いする事も無くなるだろうし」
『食欲が失せる』
 おぞましい事を言うなと、斉木さんは心底震え上がった。
「まあそう嫌わないでやって下さいよ」
 オレに免じて、ね。
『わかってる。だからこうして、ちゃんと待ち合わせにも来ただろ』
 時間はかかったけれども。
「ええ、はい、あざっス!」
 オレは満面の笑みで礼を言う。

『それでお前、あれはどうするんだ?』
「アゲ美ちゃんスか? 持ち帰って、蝶になるまで育てますよ。責任もってね」
『アゲハの幼虫だからアゲ美とか、安直にもほどがあるな。アゲ太だったらどうするんだ』
「えっ……まあ、育てますよ」
 つい、顔に出てしまう。オレは正直者だから。
「女の子かどうか、斉木さん、見てくれません?」
『今すぐお前を女の子にしてやろうか』
 痛くないよう一瞬で切り取ってやるよ。
 左手を鋭く構え、薄暗い微笑を浮かべる斉木さんに、オレはひぃっと震え上がった。
『そもそも、見分け方なんか知らないしな』
「あーそっスよね。まあ、アゲ美ちゃんだと思って育てます」
 もう随分大きいからすぐに蛹になるだろうし、そっからすぐ蝶になるだろうし、短い付き合いになるけど女の子と思ってた方がオレは嬉しい。

『羽化してお前の部屋が片付くまで、お前んちには行かない』
「えぇ〜」
『当然だろ』
「うぅ……じゃあ、斉木さんちに行ったり外で会うのはいいっスよね」
『……何か嫌だからイヤだ』
 こうして同じ部屋で弁当食べるのも、何か絡み付いてきそうで嫌なくらいなんだ。
『頑張って我慢してるが』
「えー、だって明日、スイパラ行こうって斉木さん誘ってくれた……」
『他の奴と行く』
「ダ……!」
(ダメ―! やですダメです他の奴となんて!)
 そもそも大体誰と行こうってんだ!
 オレはアゲ美に配慮して、心の中で大絶叫した。目をむき真っ赤な顔で抗議する。
『僕も嫌だから、一人で行く』
 え、あ、ならいいや、ホッ…じゃねえや、待ち合わせの場所も時間もしっかりもう決めてあるのに、そりゃないよ。
『それにお前、放置なんかして、アレが餓死でもしたらどうするんだ』
 後味悪いから、僕は嫌だぞ。
「……え? ああ、いえいえ大丈夫っスよ、充分葉っぱ入れといてやれば、そう簡単に死んだりしませんから」
 斉木さんが来るまでの間に、飼育方法とか色々調べておいたんです。
『ああ…そうなのか』
 知らなかったと、斉木さんは目を瞬いた。
 その様子にオレは頬を緩めた。たとえ嫌う存在でも、粗末に扱ったりは絶対しないんだから、本当に斉木さんは優しい人だな。
 胸があたたかくなる。
 この人を好きになって良かった。
 そう思った瞬間、斉木さんの顔がみるみる歪んだ。
『やっぱり一人で行く』
「やだぁー!」
 もう、照れ隠しきっついんだから!
 潔く認めちゃえばいいのに、可愛いんだからもう。
『喧嘩売るなら買うぞ』
 表に出ろと顎をしゃくる斉木さんに、オレは全力で首を振った。
 アンタに敵う存在なんて、この世界のどこにいるってんだ。
 もーほんと、勘弁して下さいっス。

 その後どうにか斉木さんを宥めすかして、週末の約束を改めて結び直した。
 ほっとしたオレは、いつものように食後のデザート代わりのキスをと迫ったが、今日ばっかりは御免だと断固拒否の姿勢を貫かれた。
 なんでかっていうと、アゲ美ちゃんと同じ部屋じゃその気になれないからだという。
 ああ、オレが部屋でGを発見して、見失って、その後きっちり始末するまで部屋が安息の地でなくなるあの感覚みたいなものか。
 蕁麻疹は出そうだし、身体の力は抜けるし、逆に力が暴走して部室壊してしまいそうだし、本当に嫌なんだと申し訳なさそうに言われては、オレもそれ以上は強要出来ない。
 そうやって拒絶反応起こしながらオレに甘える仕草するものだから、息を吸ったら吐くのと同じくらい自然に、オレは顔を近付けた。近付けてしまった。
 弱々しいのがあんまり可愛くて、キスしたくなったのだ。

 結果はもちろん、強烈な一発をお見舞いされノックアウト。
 目の前がチカチカキラキラするぅ。
 床に倒れてピヨピヨしていると、太腿の辺りをつま先で小突かれた。
 あぁひでぇ、斉木さん追い打ちひどいっス…そう思った次の瞬間、受けたダメージは綺麗さっぱりなくなっていた。
 復元してくれたのだ。
「!…」
 がばっと起き上がると、丁度斉木さんの姿がドアの向こうに消えるところだった。
『じゃあ明日な』
「あの!……はい」
 文字通り逃げるようにいなくなった斉木さんに、遅れて返事をし、オレは床に座った。
『忘れるなよ』
「え、はい? 時間っスか?」
『違う、アゲ美だ』
 部室に置き忘れて帰るなよ、という事だ。
 オレはたちまちにっこりと顔を緩めた。
 あんなに嫌って、イヤでイヤでしょうがなくても、粗末にしないでちゃんと一つの命として見てくれるんスね。
 即座に違うとかそういう意味じゃないとか慌てた様子のテレパシーが飛び込んできたが、オレの顔は緩んでいくばかりだった。

『やっぱり明日やめにするか』
 だめー!
 もう意地悪ばっか言って、めっスよ。
 でもそんなところも大好き。
 嬉しい、大好き、斉木さん。
 明日、よろしくっス。

 

 ちなみにアゲ美ちゃんはあれから三日後にきりっとした蛹になり、更に十日が過ぎた今朝早く、ついに蝶となって姿を現した。
 幼虫の頃はわかりづらかった雌雄も、成虫になれば判別しやすく、アゲ美ちゃんじゃなくてアゲ太だったのはちょっとガクッと来たけど、何事もなく成虫になれたのは嬉しい限りだ。
 調べたところによると、蜂や蝿に寄生される事もあるからな。
 生きるってみんな大変だ。
 いい相手見つけろよ、オレみたいに。
 カンカン照りも構わず広い世界に飛び立っていくアゲ太の姿を見送りながら、オレはそんな事を祈った。
 さあ、これで気兼ねなく斉木さんを招けるぞ。
 ちょっと寂しくなって、ちょっとせいせいして、揺れ動いていると、良かったなと誰かの声が聞こえた。
 ありがと。
 オレはすっきりした気持ちで笑った。

 

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