寄り道
六月下旬の、まだお近付きでない鳥斉。

春から何も変わってない

 

 

 

 

 

 六月もそろそろ終わる頃。
 その日は割と涼しく過ごしやすい方で、オレは一人の帰り道、本屋で新しいグラビアでも買うかと商店街へ向かった。
 書店に入る直前で、たまには隣町のデカい本屋に行こうと考えが浮かび、駅に足を向けた。
 ホームに人はまばらだったが、やってきた電車は結構混んでいて、オレは別の乗り口からにしようかと左右を見やった。
 その時、隣の車両に乗り込む濃桃色の髪を目にして、オレは口から心臓が飛び出しそうになった。
 春の頃にしばらくあった、偶然の重なりを思い出す。
 あれからオレは、何回かに一回は真面目にまっすぐ帰るようにし、それ以外は誘えるだけ斉木さんを誘い、帰りを共にするようになった。
 そして今日たまたま足を延ばそうと思い立てば、また斉木さんと重なる偶然が訪れるとは。
 やっぱり結ばれる運命なんじゃないかねえ。
 冗談半分思い浮かべる。

 

 乗り込んだ車内は混雑していた。鞄を抱えてドアに向き合い、ぼんやり外を眺めて隣駅の到着を待っていると、痴漢するなと真後ろから伸びた手に肩を掴まれた
 オレは一気に青ざめた。
「……え、なになに、してないっスよ?」
 オレ何もしてないっスから!
 だってオレドアの方向いてたし!
 あれほどぎゅう詰めだったのが、オレの周りに少しだけ隙間が出来て、囲む彼らがざわめきだした。
「うそ、うそ、してません、何もしてませんから」
 囲む彼らがみなオレを犯罪者だという目で見ている気がして、オレはカバンを抱えたまま、ただおろおろするばかりだった。
「あの……」
 その時、隣にいた女性が、済みませんもしかしてこれでしょうかと、持っていた日傘を掲げた。
 すると騒いでいた人も、ああそうだわと、まるでその場面の再現を見たかのような納得の仕方をして、おっかない顔から一転泣きそうになり、平謝りに謝ってきた。
 傘の女性も、同じように頭を下げてくる。
「いえ、いえあの……いいっスよ」
 よくよく見ればどちらも可愛い女性で、オレはそれだけであっさり謝罪を受け入れた。
 取り囲んでいた彼らも、勘違いだったかと各々向きを変え、包囲を解いてくれた。
 電車が隣駅に到着する。
 オレは開いた扉からホームによろよろと出ると、崩れるようにベンチに座った。
「はぁ……びっくりした」
 そりゃ、女の人に触ったりなんだりしたいと常日頃思ってるけど、実際手を出すのは厳禁だ、そいつだけはオレの主義に反する。
 だから紳士のオレは、見るだけ、妄想するだけ、紙の本やネットで我慢しているのだ。
 滅せよ痴漢!
 オレは触れないのにって意味と、女性を脅かす奴は許さんてのとで、オレの敵だ。
(しまった……斉木さん!)
 電車はとっくに発車してしまっていた。
 オレは立ち上がりかけた腰をもとに戻し、背もたれにぐったり寄りかかった。
『変態クズのストーカーが紳士とか、笑えないな』
 その時、テレパシーが頭に届いた。
「さいきさん……」
 オレは口の中で呟いた。
 階段の登り口からこちらを見る斉木さんに、オレは大きく目を見開いた。
 すぐにでもそちらに行きたかったが、思いの外騒動が堪えたようで、オレは腰が抜けしばらく動けそうになかった。
 っち。
 一つ舌打ちして、斉木さんが歩み寄る。

 

 お前の隣の女性が、前に立つ女性の身体に傘の柄が当たっているのに気付き、持ち直そうとした。
 しかし混雑で思うように動かせず、四苦八苦していたら、痴漢と勘違いした、という次第だ。
『だから僕が、一部始終を映像で送った』
「そうだったんスか。や、すげぇ助かったっス」斉木さんが何かしてくれたんじゃないかなーって思ってたんスけど「わざわざすんません、ありがとうございます」
 このご恩は一生忘れません。
 座ったまま、オレは深々と頭を下げた。
 どうお礼をしてよいやら考えあぐねていると、なら一件付き合えと斉木さんに誘われた。

 

 斉木さんの目的は、左脇腹町にはないチェーン店の、限定コーヒーゼリーシェイクだった。
『それが飲みたいくて、久しぶりに電車に乗ってみれば、変態クズが痴漢騒ぎを起こす始末』
 お前と鉢合わせるだけでも災難なのにと、斉木さんは軽くため息を吐いた。
 お騒がせしてすんません。それと、お手を煩わせて申し訳ありません。
 ようやく回復したオレは、斉木さんと一緒に、目的のカフェにやってきた。
「斉木さん、お礼と言っては何ですが、オレ奢りますよ」
『その為に連れてきた。お前も、好きなの頼んでいいぞ』
 ……オレの金っスけどね。
 いっそ清々しいまでの尊大ぶりに、思わず笑う。
「他に注文はいいんスか?」
『いい。お前も、あんまり引きずるなよ、鬱陶しいから』
 学校の評判が落ちると困るから、手を貸しただけだ
 嫌そうに顔をしかめて斉木さんが言う。
 言い方はきついけど、でも、力も使ってまでオレを助けて、それでチェーン店のドリンク一杯でいいなんて。
 アンタって。

 

 二階に上がり、丁度空いていた窓際の二人席に腰を落ち着ける。
 斉木さんは、終始ご機嫌でシェイクを楽しんでいた。
 うん…面白いように人が変わるな。
 まるで別人じゃないか、なにそのうっとり顔。そんなに好きなのか、コーヒーゼリー。
 オレはふと想像をする。
 もし途中でそいつを取り上げたら、一体どんな惨劇が起こるだろうかと。
 だがそれを口に出す事はなく、オレは無言で自分のアイスコーヒーを飲み続けた。
 やっぱりまだ、上手く話が出来ない。
 何を意識する事があるのかと自分でもおかしくなるが、言葉が詰まり気味だ。
 オレは、今日学校であった事を思い付く限り話し、どうにか場をもたせた。
 とても気まずく、しかし、終わってほしくないと切に願う、なんともいえない時間だった。

 

 帰りの電車内でも同じで、別れ際、かろうじてまた明日と口に出せたのだった。
 家に帰って後悔したのは言うまでもない。
 もっとああ言えばよかった、あそこはこう言うべきだったと、一人悶絶する。
 春から何も変わっていなくて、もう泣きそうだった。
 それでも、正面にあったとろけるように甘い斉木さんの顔を思い出すと、少し、涙が引っ込むのだった。

 

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