おはよう

新たな芽吹きを待ちわびる

 

 

 

 

 

 長い夏休みが終わり、新学期が始まった。
 また、通学路で出会う斉木さんにおはようと声をかける日々が始まった。

 

 前まではおはようを言うだけで精一杯だったが、そこに何かひと言付け加える事が出来るようになって、斉木さんの返答も多彩になって、朝に出会うのがより楽しみになっていた。
 多彩といっても優しさや穏やかさなんてものは一切なく、他の人だったらきっと三秒で心が崩壊するかもってものだが、オレとしてはかえって気楽でよかった。
 そういう対応をされて気付いたのだが、オレって結構めげない性質だったようだ。
 変態だのクズ野郎だの言いたい放題ぶつけられても、その時にちょっと鼻をすするだけで終わり、後を引かない。
 まあ、斉木さん限定だけど。
 他の誰かが口にしようものなら、今すぐ念仏唱える事態に追い込んでやると思うが、斉木さんが相手だと、はいはいさーせん、と頭を下げてしまう。
 そういうやりとりを気兼ねなく出来る事が、嬉しいと思うからだ。
 全然めげるような事じゃなかった。

 

 だからオレは今日も斉木さんにおはようと手をあげて、馬鹿話をして、呆れられて、繰り返す。

 

 ちょっと前まで女の子ばかり追っかけていたオレが、今は一人の男に心を奪われているとか、最高に笑える。
 今だって女の子は好きだ。大好きだ
 小さくて柔らかくていい匂いがして、とにかく可愛い。
 おっぱい揉みたいと日夜夢見て、紙っぺらや画面の中で我慢して、一人慰めている。
 そんなオレが、どこを見ているんだと自問自答の毎日だ。
 でも、夏休みに斉木さんちで過ごしたあの時間は、本当に楽しかった。
 遠慮がなくて辛辣で、思った事を包み隠さず…いや、むしろ元より数倍増大させてぶつけてくるけど、オレはそれをうっすらとだが特別だと感じていた。
 ただの自分勝手な思い込みだろと冷静に分析しながらも、斉木さんにとって自分は特別なんじゃないかという思い上がりは、どうしても抑えきれなかった。
 本当のところはわからないが、自分にとって斉木さんは、間違いなく特別だ。

 オレより小さくて、柔らかさはないけど、いつも甘いもの食べてるからかいい匂いがして、とにかく可愛い。

 うわ、オレって変態だ。
 頭を抱えつつ、斉木さんへの想いを消せない自分に煩悶する。
 去年の冬からずっと心に渦巻いていたこれは、斉木さんが好きだという感情だった。
 もういい加減目を逸らすのに疲れた。
 オレは斉木さんが好きだ。
 そうなのだ。
 でも今の状態を守りたいから、オレは好きだという感情を隠しておく事にした。
 今の関係がとても心地良いから、崩れて欲しくないから、斉木さんが好きだという気持ちは、自分の中にしまっておく事にした。
 つらいが、良い方に変わる未来が見えないオレには、これが最善だ。
 この状態で留めておくのが一番いいのだ。

 

 退屈だった授業をなんとか乗り越え、放課後を迎えたオレは、今日も帰りのラーメンに混ざろうと教室に残っている斉木さんらに声をかけにいった。
 しかし席に姿はなく、残っているチワワ君たちの話では、どうやら先に帰ってしまったようだった。
 あらら残念、何か用でもあったのか。
 思いのほかがっかりしている自分に驚きつつ、何とか取り繕い、彼らに手を振って自分の教室に戻った。
 しょうがない、読書でもして時間を潰してから帰るか。
 見回りの教師から素早く本を隠すのに丁度良い、教室の隅角に腰を下ろし、オレは本を開いた。
 ぱらぱらとめくっていると、たまに学校で見かける短髪の若い男の幽霊が、またそんなの読んでるのかと声をかけてきた。
 おやあんた、エロいお姉さんの良さがわからないとは残念スね。
 先生に取られないようにしなよと、優しい言葉を残し、そいつは壁をすり抜けてどこかへ行った。
 あいつ、また教頭の身体に重なりに行ったのかな。

 

 ぱらり、ぱらりと本をめくっていると、段々顔が歪んでくるのがわかった。
 たちまち自分が面倒くさくなる。
 好みのお姉さんを見ているのに全然頭に入ってこないし、別の事で頭が一杯だし、人けのない静かな教室は結構堪えるし。
 斉木さんにまた明日って言えなかったのが、どうしようもなく寂しいし。
 大丈夫、明日また、おはようって言えるから大丈夫。
 オレは、身体のどこから込み上げてくるのかわからない物悲しさと戦いながら、開いたままの本をぼんやり眺めていた。
 浅いピンク色の髪をした細身のお姉さんが、オレに微笑みを向けている。唇をちゅっと尖らせているのを見ていたら、いつの間にかオレは斉木さんとキスをする妄想に耽っていた。
 妄想はキスだけにとどまらなかった。
 いつもコーヒーゼリー食べてるあの口に、自分のものをねじ込んでみたいとか、服の下を暴いてみたいとか、つまり抱きたい欲望で頭が一杯になっていた。
 自分と同じもんがついてる身体を思い浮かべながらも、オレは萎えるどころか興奮して、身体のあちこちが痛くなった。
 やりたい、やりたい、斉木さんに突っ込みたい。どんな声出すのか知りたい。
 ため息がもれた。

 

 まだ何も云ってないのに。
 誰に、斉木さんに。
 なにを、アンタが好きだってこと。
 なんで好きなんだ、なんでだろう。面倒くさがりでオレに辛辣で遠慮がなくて、嫌な気持ちになることの方が多いのに、些細な時に見える人間臭い部分がたまらなく好ましくて、惹きつけられる。
 云いたいのか、斉木さんに云いたい。好きだって、付き合いたいって、もっと深く知りたいって云いたい。
 じゃあ言えばいい、でもそうしたら、おはようの気軽さがなくなる。きっと崩れてしまう。
 やってみないとわからないだろう、いいやわかる、今の状態でなくなる、悪くなる。
 良くなるかもしれない、それはないな、オレは結局、この程度なんだ。
 ああもう、めんどくさいな、本当に、自分はこんなに面倒で意気地なしな人間だった。

 

『本当にめんどくさい』

 

「!…」
 不意のテレパシーにオレは全身を硬直させた。
 自問自答だと思っていたものが、全て斉木さんとの会話だった事に気付いた途端、一気に汗が吹き出し気が遠くなった。
 いつの間にかオレのすぐ前に、斉木さんが立っていた。
 なんで…もう帰ったって……。
 いっそ気を失ってしまえればいいのに。
 気が遠くなり、がんがんと痛んだ頭は今はすっかり澄み切って、嫌になるほどはっきりしていた。ただ、身体はぴくりとも動かない。
 斉木さんがしゃがみ込む。
 どうにか言う事を聞く目玉を動かして、オレは同じ高さになった斉木さんの目を覗き込んだ。

『なあ鳥束、こっちも結構つらいのでな、ここらでいい加減はっきりさせたいんだが』
「……何をっスか?」
『お前はどうしたいのか、はっきりさせろ。今ここで』
 詰め寄られ、オレの頭の中はたちまち斉木さんへの想いで一杯になった。

 斉木さんが好き。
 唇に触れたい。
 あわよくばその先もしたい。
 斉木さんの全部を知りたい。
 それでもおはようの気軽さは変わらずに続いてほしい。
 斉木さんにとってオレが特別になって、ずっと傍に――。

「つらくさせて、すんません」
 頭の中に渦巻くどぎつい妄想を抱え、オレは謝った。
 斉木さんには全部聞こえていたのだった。
 この人に隠し事なんて、言わなきゃわからないだろうなんてのは通用しないのだった。
 去年からずっと思っていた事は全部、筒抜けになっていたのだ。
 言わなくてもわかる人なのだ。
『それでも、言わなきゃわからないぞ』
 オレは小さく息を飲んだ。

 どうすんだよ。
 オレはどうしたいんだよ。
 このまま奥にしまい込んで、頭の中で腐らせていくのか。
 この先ずっと、何年も何十年も?
 言うのと言わないのと、どっちが悪い未来だろう。
 言って断られる、言わなくて腐っていく。
 どっちも悪いとしたら。

 オレは恐々と口を開いた。言葉はまだ出てこない。
「……アンタと、キスしたいっス」
 どっちも悪いなら、より死にたくなる方を選ぼうと、断られるのを前提にオレは言った。
 死にたくなるだけで実際には死にゃしないけど、徹底的に打ちのめされる方が後腐れなくていい。
『わかった』
 斉木さんに、もうおはようを言えないのが、つらいけど――。
「は……?」
『わかったといったんだが』
「……ええ? いいの? ほんとにいいんスか?」
 オレは腰が抜けるほど驚いた。
 何かの間違いではないかと斉木さんを見る。
 頭の中にじゃんじゃん浮かぶうそかマジか疑う声が全部聞こえているだろうに、まるで瞑想する人のように静かに目を閉じ、オレの行動を待っている。
 オレは、軽く結ばれた唇にじっと視線を注いだ。
 ええと、妄想の時はオレ、どうやってキスしてたっけ。
 頭が真っ白になって何も浮かんでこない。
 目の前には、オレを待つ斉木さんがいる。
 オレはおっかなびっくり肩に触れ、そろそろと顔を近付けた。
 頭は真っ白で、顔は熱いから多分真っ赤で、心臓もどきどきうるさくて、こめかみがずきずき痛んで、更には涙まで出そうになっていた。
 いよいよ唇が間近になる。
「………」
 斉木さん。
 好きな人。
 嫌いだった人。

「斉木さん、好きです」

 告げると同時に、それまで閉じられていた目蓋がぱっと開いた。
 ごく至近距離から見る眼鏡越しの瞳に、オレはそれ以上動けなくなってしまった。
 もうあと、紙一枚分なのに。
 好きだ、その唇に触れたい、身体に触れたい。
 息も出来なくなったオレを、斉木さんは救ってくれた。
 どうしても越えられなかった一枚分を越えて、オレの唇に触れてきた。
 重なった途端、あんなに息苦しかったのが嘘のように解消された。
 オレは心底ほっとして目を閉じ、触れてくる柔らかい唇の感触に浸った。

 嬉しい。
 好きだ。
 気持ち良い。
 安心する。
 嬉しい嬉しい。

 溢れてくる気持ちのままに、オレは斉木さんを抱きしめた。
 信じられない事に、斉木さんもまたオレを抱き返してくれた。
 まるで夢のような出来事だ。
 ああそうか、これは夢だったか。
 それなら全て納得がいく。
 斉木さんがオレにこんなに優しいなんて、夢でなきゃありえない。
 そうかそうかと納得していると、横っ面を思いきりはたかれた。
「いってぇ!」
 少し涙が飛び散るくらいの衝撃に目を眩ませながら、オレははたいた張本人を見やった。
「何するんスか!」
『よかったな、夢じゃないぞ』
「!…」
『そろそろ次の見回りが来る頃だ、とっとと帰るぞ』
 早く支度しろと、斉木さんは立ち上がってオレの尻をつま先で蹴飛ばした。
 見つかってぐずぐず言われるのは御免だと、オレは大急ぎで鞄を背負った。
 夢でなかった事に喜ぶ暇もなく、オレは教室を出た。

 

 校門を出て少し歩いたところで、オレはそれまで噤んでいた口を開いた。
「斉木さん、あの……帰ったんじゃなかったんスか?」
 放課後オレが教室に行った時はもういなかった、チワワ君が、もう帰ったって言ったのを思い出しながら、オレは問いかけた。
『屋上に避難してたんだ』
 避難?
『お前の守護霊がうるさく付きまとってくるから』
「え、ええっ?」
 オレは目をひん剥いた。オレの守護霊、燃堂の父親のあいつが、どうして斉木さんに付きまとったりしたんだ。
『お前の様子がずっとおかしいから、何とかしてくれってな』
「ええぇ……」
『あれでも、お前の守護霊なんだな』
「すんません斉木さん!」
 斉木さんがつらいと言ったのは、燃堂父の付きまといを指していたのだ。
 オレは顔が上げられなかった。
『本人が決心するまで待てって言っても聞かないし、授業中もお構いなしにわーわー騒ぎ立てるし、どこに行ってもついてくるし……』
「オレのせいで、ほんとすんません……」
『まったくだ。意気地なしのお前なんかの為に、どうして僕が』
 いよいよ顔が上げられない。
『大体お前、いつもの煩悩キャラはどうした。口ばっかりだな』
「……すんません。嫌な思いさせて、本当にすんませんでした」
 オレはすべての事に詫びて頭を下げた。
 嫌っていた事から始まり、鬱陶しい思考を聞かせ続けた事、付きまとった事、守護霊の事、キスの事、全部ひっくるめて謝る。
『本当に、苦しみぬいて死んでほしいくらいだ』
 そう言われるだけの事をしたのだ。何度謝っても追い付かない。死ねと言われるのも当然だ。
 斉木さんの家の前に差し掛かった。
 言いたい事、謝りたい事はまだまだあったが、ここでぐずぐずしては迷惑だろう。
 けれど、このまま言えずに抱えて帰るのもつらくて、オレはどうにも出来ず立ち尽くしていた。

 面倒な事が何より嫌いな人。
 静かに目立たす生きるのを何より望む人。
 そんな人に、随分な面倒ごとを押し付けてしまったものだ。
 いっそ本当に死んだ方が――。

『でもそうしたら、もうお前のおはようが聞けなくなるんだな』
「……え」
 オレは伏せていた顔を少しだけ上げた。
 聞けなくなってせいせいする、とかじゃなくて?
 そんな、もったいない事みたいに言うの、やめてくださいよ。
 斉木さんもオレの事を悪からず思ってるって、勘違いしちゃうじゃないスか。
 悪くないどころか、斉木さんも、オレの事を。
『もしまた燃堂父が付きまとうような事になったら、その時は遠慮なくコロス』
 肝に銘じておけ
「はっ……はい」
 オレは弾かれたように顔を上げた。はいと答えたものの、具体的にどうすればいいのかわからずおろおろと救いを求めて斉木さんを見やる。
『悩む暇があったら行動しろって言ってるんだ』
「……していいんスか?」
『悪かったら断るがな』
 じゃあ、斉木さんが今日応じてくれたのは――。
「よかったからっスか?」
 自分とキスをしてもいいと、思ったからですか?
 恐る恐る問う。緊張のせいか顔がひどく熱かった。手も小刻みに震えて、みっともないことこの上ない。
 対照的に斉木さんは落ち着き払って、まるで何の関心もないかのような態度だ。
 もしかして、この人にはなんの影響もないような事だったのか?
 キスなんて大した事なくて、オレにも何の興味もなくて、単なる暇つぶし程度の事だったのか?
 面倒ごとを避ける為に、一時的に面倒な事をしただけ?
『だったら、聞けなくなるのを惜しんだりなんてしないだろ』
 はっとなって目を瞬く。オレに向けられた斉木さんの目は、いつも冷めているこの人にしては珍しくひたむきで、惜しむといいう言葉の通りオレを掴んで離さなかった。
 今また、猛烈に、この人にキスしたくなった。
「好きです……斉木さん」
 オレと付き合って下さい
 告げるオレを睨むように見やって、斉木さんは背中を向けた。
『また明日な』
 そう寄越して、家の中に入っていく。
 オレは、鍵の閉まる音で我に返り、心の中でまた明日と告げ歩き出した。
 初めはとぼとぼとみじめったらしい歩みだったが、また明日と告げられたのを思い出した途端、全身に力がみなぎるのを感じた。
 まったく、なんでこんなわけもなく寂しい気持ちになってるんだか。

 斉木さんは、また明日って言ったじゃないか。
 聞けなくなるのを惜しんでくれたじゃないか。
 やっと、始まったんだ。

 思えば思う程、目の前が明るくなっていった。
 なんだ、なんだ。
 明日もまた、オレは斉木さんにおはようって言えるんだ。
 オレのおはようを、斉木さんも待ってるんだ。
 なんだぁ…よかった。
 よかったな、本当によかった。
 あー、身体が楽だ、心が軽い、世界が明るい、全てが嬉しい。
 だというのにどうしようもなく泣けてきて、そんな時丁度公園に差し掛かったから、トイレに隠れて少し泣いた。
 帰り着いた自分の部屋で、遠慮なく泣いた。
 気持ちはもちろん、色々なものが溜まっていたので、オレは顔も何もぐしゃぐしゃになるまで泣いて浸った。

 

「はよーっス、斉木さん」
 通学路で見かけた背中に駆け寄り、オレは片手を上げた。
 振り返った斉木さんは、オレを見るなり思いきり顔をしかめた。
『きたねっ』
「はは…これでも結構、腫れとか引いた方なんスよ」
 遠慮のない物言いに笑いながら、オレは頭をかいた。昨夜思う存分泣いたせいで、瞼が腫れてしまっているのだ。登校時間ぎりぎりまで濡れタオルで冷やしたが、結果はこの有様だ。
「斉木さんとキス出来たのがあんまり嬉しくて、わあわあ泣いちゃいまして」
 何か言われる前に自分で言ってしまえば恥ずかしくないだろうと、オレはおちゃらけてみせた。
 斉木さんは、そうかと静かに頷いただけで、泣いた事には触れなかった。
 そんな事くらいでとか、気持ち悪い奴だとか鼻で笑われるのではないかと、構えていたのだ。
 たとえ心の中で思っていようとも、それはそれでいい。そっとしておいてくれるなら、ありがたい事だ。
 オレはほっと肩の力を抜いた。
『顔だけが取り柄なのにな』
「ほかにもあるっスよ」
『まあ、心の醜さが表れたと思えばいいか』
「ひでぇっス!」
 そこまで言うかと、オレは怒りながら嘆いた。
 今朝も変わらず斉木さんと言葉を交わせるのが、本当に嬉しい。

 

 秋を迎えて一層葉は青く瑞々しく、気持ちは育ち、新たな芽を吹く季節に向けて、栄養を蓄える。

 

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