おすそ分け
ビワ
夏の斉木さんは特に優しい。
大薬王樹
衣替えの六月を迎え、そろそろ一ヶ月が経つ頃。 「なあ零太、相棒からあの赤いのもらったか? を?」 オレの守護霊である燃堂父にそう話しかけられたのは、木曜日の夜の事。 |
朝からずっとぬるい雨が降ったりやんだりで一日中ジメジメと鬱陶しく、嫌な季節がやってくるなあとうんざりしつつもお気に入りの雑誌で楽しもうと思っていた、そんな矢先だった。 「え? 相棒? 斉木さんのこと? 赤いのって何? え、トマト?」 オレは険しい顔になって、燃堂父に問い質した。中々要領を得なかったが、大体は把握出来た。 話は日曜日に遡る。 斉木さんちに、いつもの三人組――燃堂、海藤、窪谷須の三人が訪れ、帰り際、袋一杯のトマトをお土産に持たされたのだそうだ。 「なにそれ知らない……」 「なんだ零太、もらってねーのか? を?」 燃堂父はその後しきりに、食べてみたいからお前もらってこいと繰り返していたが、オレはほとんど聞き取れないでいた。 ほんと知らない、何だそれ。 たまたま家にいっぱいトマトがあった日? そこにたまたま三人が来たから、おすそ分けでお持たせしたってこと? 「なんかよ、田舎から届いた荷物だってな、を?」 斉木さんの田舎から届いた荷物…オレはそれを聞いて、春の事を思い出した。 部屋でお気に入りの本を開いてくつろいでいたら、突如斉木さんが現れて、オレに筍の雨を降らしたっけ。頭に落としたのはわざとではなく、直前に大嫌いな虫に驚いた結果そうなってしまったのだ。 あの日の斉木さん、おかしくて、可愛かったなあ。 思い出してオレはにやにやする。今この場に斉木さんがいたら、間違いなくぶっ飛ばされていた事だろう。おっかなくも可愛いオレの恋人。更に顔がにやける。 そしてトマトに立ち返り、少し顔が引き攣った。 あの時のように、田舎から送られた物なのだろう。 なら斉木さん、あの時のように、オレにくれたりしないんスね。 そんな考えが浮かんだ自分にゾッとする。さもしい自分が嫌になる。 オレはわざと強く頭を叩いて追い払おうとした。 しかし、壁にかけたカレンダーに目がいってしまう。 日曜日から今日までの木曜日を目でなぞる。 月曜日から毎日のように会って、昼も一緒に食べて、一回オレんちに遊びに来たけど、斉木さん……そこで何とか卑しい考えをせき止める。 ああ、くそ。 オレは何をするでもなく立ち上がり、そのままどこへも行けず長い事立ち尽くしていた。 |
翌朝、あまり目覚めは良いとは言えなかった。 風邪の引き始めのように全身がかったるく、しかし怠くて動けないという程でもなく、熱もないから、オレはいつも通り登校した。 昨日の雨が嘘のように朝からギラギラと太陽が照り付け、ただでさえ元気のないオレの体力を奪った。 今年も厳しい季節が来るな。こんなんで夏を乗り越えられるのかね、オレ。 教室内は冷房が効いて、いくらか気分が楽になった。しかし一限目から苦手な数学で、すぐに落ち込んだ。 昼休み、食堂で斉木さんと鉢合わせた。下降する一方だった気分は一気に天井を突き破り、オレってやつは本当に易いなあと自分でおかしくなった。 急いで注文して、向かいに腰かける。 オレは、なんとなく恒例になっている朝のお天気お姉さんの今日の服装について、斉木さんと談義に花を咲かせた。といってもオレが一方的に花盛りにしてただけで、斉木さんは生返事か無視だけど、それもいつもの事だから気にしない。 それに無視といったけど、白けたり睨んだり呆れたり、案外ちゃんと律義に反応してくれるから、それが嬉しくてつい調子に乗ってしまうのだ。 そうやっていい気分で話していて、唐突に、オレはトマトの事を思い出してしまった。 色鮮やかに目に映っていたものが、突如として褪せた枯れ色になる。 今の今までしていた馬鹿笑いも、筋肉が引き攣って上手く笑えない。 斉木さんに問い質したい、もう喉元まで出かかってるけど、こういうのぶつけるの嫌だ、本当に嫌だ。醜くて大嫌いなんだ。 言わずに飲み込む。お願い、頼みます、斉木さんに伝わっていませんように。オレは必死になって心の奥に押し込もうとした。 何でもない、何もない、オレはしっかり飲み込んで、お喋りを続ける。 「えっと、明日の午後ですっけ、空いてますよ」 斉木さんの訪問だもの、何をおいても空けますよ。 『じゃあ午後に行く。部屋の余分な物は、全部処分しとけよ』 え、ちょと! 斉木さんの言う余分とは、オレの愛読書の数々に他ならない。なんつう非道な、斉木さん! 見つからないよう、しっかり隠しておこう。 オレは決意した。 そして、あのことには触れる事無く昼を終えた。 |
午後に来るって斉木さん言ってたけど、何時ごろになるのかなぁ。 オレはちらりと柱時計を見やった。一時を過ぎたが、来る気配はない。 ベッドの上に寝っ転がって、ぼうっと天井を眺める。 頭に浮かぶのは、やはり例のトマトの事だった。 欲しかったわけじゃない、わけじゃないけど、全然触れてももらえないのは悲しい、寂しい。 斉木さん。 「……つらいっス」 口の中でぼそりと呟き、部屋の方にごろりと寝返りを打つ。 そこに突如斉木さんが現れた。オレはびくりと肩を震わせた。 『あれは、母さんが渡したものだ』 「……あれ?」 『トマトだ』 「……はい」 やっぱり筒抜けだった事に、オレはかあっと顔を赤くした。起き上がり、なんとなくそうしたいのでベッドの上に正座する。 斉木さんが説明を始める。 『荷物が届いたのは土曜日の夜だ。僕が見た限りでは、近所に配って、後はうちで充分処理出来るくらいの量だった』 オレは黙って耳を傾けた。 『でも母さんが、いつも来てくれるお礼にと、日曜日にうちに来た燃堂たちに、おすそ分けしたんだ』 「はい」 神妙な顔で頷く。オレは、燃堂父から聞いた瞬間から知りたかった事を、思い切ってぶつけた。 「あの、斉木さん……トマト届いた時、少しはオレの顔、チラついたりしなかったスか?」 『しないな』 「……そっスか」 『それよりも、こっちの方が気になっていたからな』 斉木さんは、手に提げていた紙袋を持ち上げた。白い大きな紙袋で、何か丸いものがたくさん入っているのかぼこぼこと膨らんでいた。オレは恐る恐る受け取った。結構重たい。 「わあ……!」 中を覗いて、オレは目を見張った。入っていたのは、綺麗な橙色のビワだった。 『たった今、もいできたとこだ』 「あの、ありがとうございます」 うわ、懐かしいな、小さい頃、何度か隣家から貰った事がある。 食べる時、お袋がよく言ってたっけ……。 古い記憶を掘り起こしていると、斉木さんの声がした。 『少し前に祖母から、庭のビワの木がもう少しで熟すと電話をもらって、その事ばかり考えていたからな』 「斉木さん……」 感激のあまり胸が詰まった。 「すんませんでした」 『お前の事を忘れた事なんて一度もないのに、文句を言われるなんて心外だ』 「ほんとにすんません!」 オレは小さくなって詫びた。申し訳なくて顔を上げられない。 『さっさと食べろ。ビワは追熟しない果物だ。もいだ瞬間から味が落ちていく』 「はい、あの……いただきます」 オレは俯いてぎゅっと目を閉じた。胸が詰まって、しようがない。 昔、食べる度にお袋が言っていた。ビワはバテ知らず、風邪知らずで身体にいいのよって、いつも言ってたっけ。 オレは、何度も出そうになるしゃっくりを必死にせき止めながら、ビワを一つ手に取った。 皮をむいてかぶりつくと、懐かしさと愛情が口一杯に広がって、ますます胸が詰まった。 『保存の利くシロップ煮の作り方も聞いてきた。中に入っているから、今日中に作っておけ』 「……わかりました」 どれだけ我慢しても溢れてしまう涙をぼろぼろ零しながら、橙色の果実をかじる。 甘くて瑞々しくて少ししょっぱいビワを味わいながら、オレは心の中で繰り返し斉木さんに感謝した。 |