月まで届く思い出を

 

 

 

 

 

 蘭の期待を一身に受けたてるてる坊主は、立派にその役目を果たした。

 福引きで一等を当てたその日から朝に夕に天気予報に耳を澄ませていた蘭は、明日の大晦日から三が日にかけてはずっと晴れが続くでしょう…そう告げる夕のニュースの女性キャスターに満足げに頷き、窓辺のてるてる坊主に感謝の祈りをささげた。

 そして翌日、迎えた旅行当日。

 出発の一時間前からそわそわし出した蘭を呆れ顔で見るコナンも小五郎も、どこか落ち着きなく新聞をばさばさ、雑誌をぱらぱら。

 時間が経つのをもどかしく感じた半日、これでは船に乗る前に疲れてしまうのではないかとコナンは心配したが、港で船を前に写真を一枚、乗り込んだところで一枚、案内された船室で一枚と、蘭は写真をせがむほどに元気をみなぎらせ、豪華ディナーの間もカウントダウンコンサートの間も、一度として視線を落とす事無く力いっぱい楽しんでいた。

 彼女の輝く顔を見る内にいつしかコナンも不安など忘れ、共に時間を楽しんでいた。

 その一方で、命じられた写真係を果たそうと、首から下げたカメラで瞬間瞬間を逃さず撮り収める。

 その横では、上機嫌でビールをあおる大人が一人。船内限定販売のビールが口に合ったらしく、どこでも美味いビールがあれば上機嫌の小五郎は、赤い顔にとろける眼差しで年越しクルーズを楽しんでいた。

 一際賑やかな曲でコンサートは締められ、続いてビンゴゲーム大会の開始が告げられた。

 レストランの入り口で配られたカードを手に、テーブルに座る大勢の人たちが自分こそはと歓声を上げた。

 

「何が当たるかな」

 

 賑やかな声を耳に蘭は自分のカードをテーブルに置くと、期待と不安入り混じる顔でコナンを見やった。

 

「どれも結構豪華だよね」

 

 隣に座ったコナンは、そう言って顔を上げた。正面突き当たりに即席で作られた簡易ステージでは、三人ほどのスタッフがビンゴ大会の準備を進めていた。

 司会を務める若い男性の横に置かれたホワイトボードに、大きなポスターが貼り出される。そこには景品の全てが印刷されており、高額の商品券や各グルメセット、家電製品などが並んでいた。

 またそれとは別に、小学生限定の景品もあった。

 最新ゲーム機、有名アイスクリームの引換券、駄菓子セット等など。

 

「ああ、だからコナン君とはカードが違うんだ」

「そういう事だったんだね」

 

 テーブルの上、蘭とコナンはそれぞれのカードを並べて置いた。

 コナンの方、つまり小学生限定のカードは紺色の文字で、蘭の方はオレンジの文字で数字が書かれていた。

 

「お父さんもほら、カード出して」

「はいはい……ほれ」

 

 しかしすでに良い気分で酔っ払っている小五郎は、カードを出すまではしたがゲームに参加する気はないようで、ポケットから出したそれを蘭に渡すと後はよろしくとばかりに手を振り、ジョッキのビールを豪快に飲み干した。

 

「コナン君、これも記念にお願いね」

 

 テーブルに並べた三枚のビンゴカードを指差し、蘭は写真を頼んだ。

 

「俺は出来れば、あのカニ三昧セットがいいな」

 カニ鍋サイコー!

 

 ビールのお代わりを注文しながら、小五郎は付け足した。

 コナンと蘭の視線が、ポスターの一点に集中する。

 真っ赤に色づいたカニ各種が綺麗に並んで写っている、カニ三昧セット。

 

「うわあ、美味しそう」

 

 蘭の目がきらりと光る。

 

「でも蘭姉ちゃん…今日の旅行当てたし、晴れになったし、ちょっとムリなんじゃない?」

 

 狙う眼差しの蘭を見上げ、コナンは小首をひねった。

 

「そっか…でもやってみなきゃ分からないじゃない」

 

 強気に返し、蘭はゲームの開始を今か今かと待った。

 

 

 

 拍手鳴り響く中、簡易ステージから照れくさそうに戻ってくるコナンを、蘭は嬉しそうに…ほんの少し悔しそうに出迎えた。

 

「おめでとコナン君!」

「……ありがと」

 

 むにゃむにゃと返し、コナンは今しがた受け取ったビンゴゲームの景品、駄菓子セットをテーブルに置くと、椅子に腰かけた。

 景品を受け取る瞬間のコナンをカメラに収めた蘭は、引き当てた駄菓子セットの方にもレンズを向けた。

 

「ま…カニ鍋は無理だったが、これが当たっただけでも良かったじゃねえか」

 

 コナンの正面で小五郎が素直に称賛し、懐かしそうに駄菓子セットを見た。

 大きな袋の中には、数個ずつ、さまざまな種類の駄菓子が詰められていた。スナック菓子、キャラメル、キャンディ、ガム、のしいか…。

 

「お! スいか太郎くんとか懐かしいな。ちょっと、ビールのつまみにもらっていいか?」

「このままだと持って帰るの大変だから、おじさん好きなの食べてよ」

「悪いな、サンキュー」

 

 ばりばりと袋を開き、小五郎はニコニコ顔で目当ての駄菓子を引っ張り出した。懐かしさにきらきらと目を輝かせ、久しぶりの『安っぽい味』をお供にビールを飲む。

 

「蘭姉ちゃんも、よかったらどうぞ」

「ありがとう、うーん……なんにしようかな」

 

 ぐるりと見回し選ぶ蘭の横顔を、コナンはそっと見つめた。

 駄菓子を見ると、あの夏の日の、アイスキャンデーが思い浮かぶ。

 子供の頃、蘭と一緒に冒険気分で出かけた駄菓子屋。

 夏の日に、蘭に連れられて訪れた懐かしい駄菓子屋。

 あの時感じた胸を圧す苦しさは、もうおぼろげにしか覚えていない。

 彼女の笑顔があれば大丈夫だと、学んだからだ。

 

「そうだ蘭姉ちゃん、この当たりつきガム、開けてみてよ。さっきのカニはダメだったけど、こっちはきっと当たりだよ」

「どうかなあ……」

「絶対だって、ほら開けて開けて!」

「よおし。もし外れてたらコナン君、残念賞で十円ちょうだいね!」

「うん、絶対大丈夫だってば」

 

 きゃあきゃあと楽しげに言葉を交わし、すっかりビンゴ大会は終わったものとはしゃいでいた二人の耳に、突如大きな歓声が飛び込んだ。

 二人は驚いて顔を上げ、しばし耳を澄ませたところで、歓声の意味するところを理解した。

 特別賞として、午前零時の記念汽笛を鳴らせるチケットが一枚用意されており、ビンゴカードを持った参加者全員が対象になるのだそうだ。

 

「蘭姉ちゃん」

 

 呼びかけると、予感がするのか、その顔には淡い笑みが浮かんでいた。

 果たして予感の通り、たった一人に与えられる権利を蘭は見事獲得した。

 簡易ステージの上からまっすぐこちらを見つめる蘭の強い眼差しを見つめ返しながら、コナンは何度も目を瞬いた。

 まったく、彼女の背には一体どんな女神が寄り添っているのだろう。

 こうしてレストランでの催しの一つは無事お開きとなり、二時間ほど後に行われる年越しそばの無料配布までは、各自部屋で自由時間を過ごす事になる。

 十分もするとさっきまでのざわめきが嘘のように鎮まり、残っているのはステージの片付けに走り回るスタッフと、数人の乗客、そして酔いつぶれた小五郎に四苦八苦している蘭とコナンだった。

 

「もー…しょうがないなあ」

 

 蘭は腕まくりすると小五郎を抱え上げ、どうにかこうにか引き立たせた。

 

「悪いね蘭ちゃん……」

 

 どこから見ても立派な酔っ払いになった小五郎が、しまりのない口でもごもごと詫びる。

 

「はいはい、部屋に帰るわよ」

「あいあい、部屋に帰ります」

 

 調子よく答えた直後、今まで数えるほどもなかった揺れが大きな上下となって船体を傾かせた。

 その揺れは辛うじて立っていた小五郎の足をもつれさせ、驚く蘭と一緒にテーブルの上に倒れかけた。

 テーブルの上、小五郎が半分ほど食べた駄菓子の後片付けをしていたコナンは、突如倒れてきた二人に驚きの声を上げて脇に退き、大丈夫だろうかと二人を見やった。

 

「ゴメンねコナン君、ぶつかってない?」

「うん、ボクは平気だよ」

「良かった。こっちも大丈夫よ。ほらお父さん、しっかり!」

 

 叱責する蘭の声を聞きながら、いくつか床に散らばったキャンディやキャラメルを拾い集め、コナンはポケットにとりあえず収めた。

 甘い飴やガムは酒のつまみには合わなかったようで、そういったものばかりが残っている。当然だろう。頬張るほど大きなガムを噛みながらビールを飲んでも、美味くはない。

 

「コナン君忘れ物はない?」

「うん、大丈夫だよ」

 

 蘭の声にもう一度テーブルの周りを見回し、小走りで二人の元へ駆けた。

 

 

 

 二時間後、再び蘭とコナンはレストランに向かった。小五郎も誘ったが、まだ酔いが抜けないのかはっきりしない返事を寄こすばかりだった。

 どうしようかと二人はしばし顔を見合わせ、面倒見るのは大変だからと置いていく事にした。

 レストランに到着すると、すでに長い列が出来ていた。二人は引換券を手に最後尾に並び、年越し蕎麦に期待を込めて目尻を下げた。

 

「お父さんの分の引換券は持ってるから、三つ目は二人で半分こしようか」

「そうだね…でもさっきの豪華ディナーで食べ過ぎちゃったから、ボクちょっとでいいよ」

「あらそう…でもさっきの豪華ディナー、本当に豪華だったね」

「うん、あんなに色んなものが食べられるなんて、ボク思ってもなかったよ」

「食べ過ぎちゃったもんね」

「……うん、えへへ」

「でも良かった。食べ過ぎちゃうくらい元気になって」

 

 コナンは小さく息を飲んだ。自分はまだ怪我人から抜け切れていない。何かある度、心配は尽きないだろう。

 いつの時も身を案じてくれる女をありがたく見上げ、コナンは言った。

 

「蘭姉ちゃんやおじさんが励ましてくれるお陰だよ」

 

 それを聞いて、蘭は何か云いたげに唇を緩めた。

 いつの時も同じ場所から見守ってくれる人を愛しく見つめる。

 

「一番頑張ってるのはコナン君よ」

「まあね」

 

 コナンはわざと得意げな顔で答えた。

 

「まあ、調子に乗って」

 

 蘭はきらきらと目を輝かせ、生意気坊主にげんこつを軽く落とした。

 

「いて、ごめんなさあい」

「わかればよろしい!」

 

 大げさに痛がり、大げさにふんぞり返って、二人は声を合わせ笑った。

 三人分の蕎麦を乗せたトレイを手に、さてどこに座ろうかと蘭がレストランをぐるりと見回した時、右手奥の方で誰かが手を振っているのが見えた。

 

「あ……お父さん」

 

 足早にそのテーブルに向かうと、まだどこか寝惚けた様子ながらにこにこと座る小五郎がいた。

 

「やっぱ縁起物だからな、年越し蕎麦は食っとかねえとと思ってな」

「そうね」

 

 頷き、蘭はちらりとコナンを見やった。

 視線を受けて小さく笑い、コナンは椅子に座った。

 

「お、結構美味そうじゃねえか」

 

 目の前に置かれた椀を見下ろして、小五郎は相好を崩した。

 白ネギがちらりと乗っているだけのシンプルなものだが、ほんのり湯気が立ち上り、つゆはとても良い香りがした。

 

「んじゃ、いただきます」

 

 小五郎に続いて、蘭とコナンも手を合わせた。

 うめぇ!

 美味しいね!

 ホント!

 船の中で食べる年越し蕎麦は、その気分も相まって特別な味がした。

 

 

 

 午前零時まであと三分となった時、船長によるカウントダウンが始まった。

 それより少し前にワインやシャンパン、ジュースといった新年の乾杯用の飲み物が乗客に配られ、人々はグラスを手にデッキに出ると、新年の訪れを今か今かと待ち侘びた。

 そしてついに十秒前が告げられる。

 それまで騒がしかったデッキは一瞬にして静まり返り、船長の声と波の音だけが辺りに響いた。

 グラスを掲げた人の顔全てが、今にも弾ける笑みを閉じ込めた輝くものになっていた。

 それから数秒、夜闇に大きな大きな汽笛が響き渡った。

 あちこちで一斉に新年おめでとうの声が上がる。

 待ちに待った新年の訪れに、誰もかれも笑顔でグラスを掲げ、見知らぬ人にも親しげに挨拶を交わした。

 その中に、いつ知り合ったのか数人の若い女性たちと楽しげにグラスを合わせる小五郎の姿があった。

 知らぬ者のない名探偵、毛利小五郎と今日この日に出会った事を大いに感謝しながら、女性たちは何度もおめでとうを言い交わした。

 午前零時に汽笛を鳴らすという大役を無事果たした蘭は、助手として特別に許可してもらったコナンと共に、デッキへと続く通路をやや興奮した面持ちで歩いていた。

 失敗せずに汽笛を鳴らせた事にほっとしている、緊張から解放されてほっとしている。

 その波が過ぎるとじわじわと、新年が明けた事に対する喜びが込み上げてきた。

 頬だけでなく、全身がじわりと熱くなる。

 無性に飛び跳ねたくなってきた。

 デッキでは、興奮冷めやらぬ乗客たちがグラス片手に楽しげにお喋りに熱中していた。

 その向こうに小五郎の姿が垣間見えた。大げさな動作で、得意げに何か話している。

 恐らく、いつもの捕り物の自慢話だろう。

 今日くらいは大目に見ようと、蘭はそちらへはいかず人のあまりいない後方へと向かった。

 しばし進んだ蘭は、コナンと繋いだ手をしっかり握り直すと、足を止めた。

 コナンもほぼ同時に立ち止まり、蘭を見上げた。

 

「結構大きな音だったね、蘭姉ちゃん」

「うん、身体中に響いてすごかったね…今もまだ鳴ってるみたい」

「ボクも」

 

 二人はにこにこと笑顔を浮かべた。

 と、蘭は一旦口を引き結び、手を繋いだままコナンと向き合った。

 

「去年は……色んな楽しい事、たくさんありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いします」

 

 改まって礼を言われるとは思っていなかったコナンは、目をぱちぱちさせながら慌てふためき、何度か口ごもってから改めて言った。

 

「ボクの方こそ…いつも助けてくれてありがとう。本当に、ありがとう」

 

 もっと何かしら言葉を述べたかったが、今はありがとうしか出てこなかった。

 

「やだもう、私そんなに大した事してないよ」

「してるよ、してる。蘭姉ちゃんのお陰で、こうして無事年が越せたんだもの。本当に……ありがとう。嬉しいよ」

 

 こっそり新一を混ぜてもう一度礼を言う。

 蘭はゆっくりしゃがみ込むと、目線をいっとき合わせ、沖へと向けて言った。

 

「私も嬉しいよ、コナン…君」

「……」

「こんな風に三人で年を越せるって、本当に嬉しい」

 ありがとう

 

 万感の思いを込めて蘭はありがとうを綴った。

 小憎らしいほど無垢な笑顔がコナンの目を奪う。

 何か云いたげに口を開き、引き結んで、コナンは視線を逸らした。すぐに思い直し目を戻す。この瞬間は今だけ、自分だけのものだというのに、照れ臭いからと無駄にするなんてもったいない。

 顔から火が出そうだが、目を逸らすものか。

 せっかく二人…三人でいるというのに。

 だのに、嗚呼。

 

「……っくしょん!」

 

 コナンは盛大にくしゃみをした。

 

「大変、中に戻ろう!」

「ええー……!」

「ええー、じゃないでしょ」

 

 慌ててコナンの手を引き、蘭は出入り口へと急いだ。

 引かれるまま、コナンは憮然とした表情でついて行った。つい足取りが重くなる。せっかくの空気を台無しにしやがって。もう少し、ただのお喋りを楽しみたかったのに。自分の身体ながら腹が立ったが、それで時間が戻るわけでもなく、コナンはがっくりと肩を落とした。

 月明かりは煌々と、空の彼方まで星が散りばめられ極上の夜だというのに…嗚呼。

 

「そうだ。ねえコナン君、部屋に戻る前に、神社にお参りして行かない?」

 

 エントランスの一角に、神社があった。赤い鳥居もあり、おみくじも用意されている。

 そこへ行こうと、蘭が誘う。

 

「うん!」

 

 賛成だと、コナンは大きく頷いた。

 

目次