月まで届く思い出を

 

 

 

 

 

 それから数時間後、二人は再びデッキに出ていた。

 

「寒くない、コナン君」

 首元は大丈夫?

 左手は痛まない?

 足元は平気?

 

 真上から、矢継ぎ早に降ってきた蘭の声を振り仰ぎ、コナンは苦笑いしつつ平気だと頷いた。デッキに出る前、蘭が厳しく指差し確認…マフラー、手袋はしているか、ポケットにカイロは入れたか、足元は寒くないか等々、言う事を聞かない手のかかる子供よろしく確認してくれたお陰で、お陰さまで、どこも一箇所たりとも寒さは感じない。

 

「蘭姉ちゃんは?」

「私も平気。思ったより寒くないね」

 

 見上げてくる眼鏡越しの眼差しににっこり笑いかけ、蘭は正面に目を戻した。

 その顔には日の出を待ち侘びるはちきれんばかりの笑みが浮かんでいたが、少し眠たげでもあった。

 午前零時の汽笛を鳴らすという大役を果たした後、三人でおめでとう、今年もよろしくと言い交わし、それから眠りについたのだが、洋上で見る初日の出に心は浮き立ち眠るどころではなかった。

 何せ生まれて初めてのこと。

 遮るもののない海の上でのぞむ初日の出…もしも寝過してしまったらと気が気ではなかった。

 眠れないなら起きていようと、蘭は時間までベッドに座っていた。

 そして出発の時のように、時間前からせかせかと、寝ぼけ眼の男二人を叩き起こし引きずる勢いでデッキへと向かった。

 俺は中から見るよ…行きたきゃオメーらだけで行ってこい……

 あくび交じりにそう言って、小五郎は船内に留まった。寒いのはごめんだと腕をさする仕草に肩を竦め、蘭はコナンを伴いまだ暗いデッキへと踏み出した。

 まだ少し早かったが、ちらほらと人影はあった。

 日の出が近付くにつれ、増えていくだろう。

 墨色の中星が煌めいていた夜の空が、次第次第に色を変えていく。

 

「そろそろだね、コナン君……!」

 

 今まさに水平線の向こうから太陽が姿を表す瞬間を前に、蘭は悲鳴交じりの歓声を上げた。

 それから半時間ほど、蘭は一言も発せず突っ立ったままでいた。

 水平線の彼方に見つけた眩い光が徐々に昇っていくまで、何も言えずにいた。

 太陽の光を受け煌めく海面が、まっすぐ自分に向かって白い帯を伸ばしている。空は何色とも言い難い色に染まり、光り輝いて、まるで朝に感激しているようだった。

 何より、太陽というのはこんなにあたたかい。

 ある時ついに、蘭が動いた。

 満足げに長い長いため息をつき、隣のコナンを見やる。

 

「本当に綺麗だね……」

 

 コナンは笑顔で頷いた。

 

「うん、よかったね、蘭姉ちゃん」

 

 ふと見ると、少し泣いたのか、こっそり涙を拭っている仕草が目に入った。なんて可愛いのだろうと、どこまでも頬が緩む。胸の奥が熱くなる。見なかったふりで正面に目を戻し、清々しさに満ちた夜明けをゆっくり眺めた。

 しばらくして、蘭が訊いてきた。

 

「ねえコナン君、神社では何をお願いしたの?」

「え、うん…えっとね……」

 

 新年の朝日を前にごまかしは、さすがに気が引ける。

 コナンは一拍置いて正直に述べた。

 

「蘭姉ちゃんが、いつもニコニコ笑っていられますようにって」

「わあ、嬉しい! あ……うふふ」

「え……何か変だった?」

「ううん、あのね、その前に『僕の傍で』ってつけたらプロポーズみたいだなって思って。もう、コナン君てばおませさんなんだから!」

 

 そう言ってまた蘭はふふふと楽しげに肩を揺すった。

 勝手に付け足して勝手に笑って、勝手な事言って。

 年明け早々これだよ……

 コナンは少々呆れ気味に蘭を見やった。

 その顔はとても赤い。

 当然だ。

 なにもかも筒抜けだという事を今更思いしって、赤面している真っ最中なのだから。

 

「ね、僕の傍でってつけてもう一回言ってよ」

「……蘭姉ちゃんがどうしてもって言うなら」

「あら、何よその言い方。ちょっといじわるじゃない?」

「ええー、ボクが蘭姉ちゃんに、いじわるすると思う?」

「思う思う! コナン君、いーっつもいじわるばっかり!」

「ウソだぁ、ボク一度もいじわるなんて、した事ないよ!」

「うん、ないよ。一度もない」

 

 優しい顔で蘭は言った。その表情はまた、やんちゃな弟を軽くあしらうしたたかな姉の顔にも似ていた。 

 コナンはたちまち唇を尖らせ、睨むように横目で蘭を見やった。 

 そんな、拗ねる男の心を女の甘い声が包み込む。 

 

「ねえ、お願いだから言ってよ」

「!…」

 

 好きな女からこれほどまでに熱っぽくねだられるなんて、自分はなんと幸せ者なのだろう。

 さて、言おうかはぐらかそうか考えあぐねていると、蘭が待ったをかけた。

 

「どうせなら指輪も欲しいな」

「えっ……!」

 

 どこまで本気で言っているのだろうと、コナンは目をむいた。

 

「ちょっと…欲張りすぎじゃない……?」

「だってコナン君、前に言ったじゃない。もっと欲張りになっていいよって。うんと甘えていいよって言ったじゃない」

 

 そう言われてはぐうの音も出ない。

 

「ゴメン、冗談よ」

 ちょっと調子に乗りすぎちゃった

 

 反省してます…蘭は微苦笑で肩を竦めた。

 と、コナンが閃く。

 

「あったよ、あった。欲張りな蘭ねーちゃんにぴったりの指輪」

 

 いたずらっ子の顔でにやりと笑い、コナンはポケットを探った。

 

「手を出して」

 

 言われるまま、蘭は手のひらを上に差し出した。

 コナンはそこに、昨日ビンゴ大会で当てた駄菓子セットの中にあったキャンディを乗せた。

 指輪の飾りの部分が大きなキャンディになっているもので、後で片付けようとポケットに入れて、すっかり忘れていたものだ。

 

「はいどうぞ」

 

 一瞬ポカンとした後、蘭は陽気に笑い出した。

 

「そうだったねコナン君、これがあったね!」

「蘭姉ちゃんにぴったりでしょ」

「ホントに! やだもうコナン君てば!」

 

 手のひらのキャンディに、蘭は涙を零さんばかりに笑い転げた。

 

「ありがとう、大事にするね」

 

 ふうふうと息を継ぎ笑いながら、蘭は心底嬉しそうにそっとバッグにしまった。

 気付けばコナンは、そんな彼女の横顔をカメラに収めていた。

 シャッターの音と同時に蘭ははっと息を飲み、慌てて頬を両手で押さえた。

 

「やだあ、今すごい顔で笑ってたのに」

「そんな事ないよ。ぜんぜんそんな事なかった」

 

 ゆっくり首を振り、コナンは微笑んだ。

 

「あんまり可愛くて綺麗だったから、思わず撮っちゃった」

「撮っちゃったじゃないよ…もう」

 

 恥ずかしそうに肩を竦めて俯く仕草が、たまらなく愛しい。

 

「その顔も可愛いから、撮っちゃおうかな」

「え、ダメダメ!」

 

 あたふたと背を向け、蘭は赤くなってしまった顔をしきりにこすった。

 

「ウソ、撮らないからこっち向いて、蘭姉ちゃん」

 

 蘭は顔を覆ったままそろそろと肩越しに見やった。コナンは言葉通り、カメラを後ろに回していた。

 

「もう、コナン君は…やっぱりいじわるじゃない」

「だって蘭姉ちゃん、一杯写真撮ってねって言ってたじゃない」

 

 蘭は言葉に詰まった。旅行前、そう言ってコナンに頼んだのは他でもない自分だ。

 

「そうだけど……!」

 

 そこではたと思い出す。

 

「違うよ、コナン君確かこう言ってたよね…蘭姉ちゃんが撮ってって言うもの全部撮ってあげるって!」

 言ってないのに撮ったらダメじゃない

 

 覚えていたかと、コナンはばつが悪そうに笑った。

 

「じゃあ、撮ってって言って、蘭姉ちゃん」

 

 コナンはカメラを持った手を前に回した。

 その様子を、蘭はむすっとした顔で見やる。

 

「……ダメ?」

 

 構えた手を引っ込め、コナンは上目遣いに様子を窺った。

 

「もう…いつもいつもそれ切り札にして」

 

 蘭は口の中でぼそぼそと文句を零した。

 本当はダメではない。

 もう怒ってもいない。

 撮ってほしい。

 だから。

 

「……しょうがないから言ってあげる」

 

 わざと憎々しげに顔をしかめ、蘭は改めて口を開いた。

 

「コナン君、撮って」

「うん!」

 

 コナンは大張りきりでカメラを構えた。

 潮風を受けて、彼女の長い髪が元気になびいている。

 嬉しげに綻んだ唇と煌めく瞳がまっすぐ胸に迫って心をとらえ、離さない。

 彼女の目が一心に自分を見ている。

 ここにいる『コナン君』とここにいない『新一』とをしっかりと捕まえて離さない。

 朝日を浴びたその姿は息も止まるほどで、この瞬間を残しておける事に感謝しながらコナンはシャッターを押した。

 感謝を込めているのは蘭も同じだった。

 いたずらっ子の『コナン君』の奥にしっかりと『新一』を据えて、何を見るよりも熱心に心を注いでくれている。

 この一瞬に感謝が溢れて止まらない。

 

「ありがとう。コナン君が撮ってくれた」

 

 満ち足りた顔で礼を言う女にまた息が止まる。

 嗚呼、どうしてこんなに幸せをくれるのだろう

 コナンは瞬きも忘れて見入った。

 

「コナン君も撮ってあげる。撮ってって言って」

「うん、蘭姉ちゃん――……」

「そうだ、一緒に撮ろう! あのすみません……」

 

 撮ってと告げる前に、蘭はさっさと行動に移った。

 返事はもちろん『はい』だが、彼女の素早さは時々目が回る。

 通りがかった二人連れの女性に写真を頼み、コナンの横にしゃがみ込むと、蘭は一つ注文を付けた。

 

「コナン君、もうちょっとこっちに寄って」

「このくらい?」

 

 ほんの半歩、コナンは身を寄せた。

 

「このくらい!」

 

 と、蘭はぎゅっとばかりに抱き寄せた。頬をぴったりとくっつけ、逃げられないよう腕を回す。

 

「え、ちょっ……!」

 

 少し苦しいほどの抱擁にコナンは目を白黒させた。

 

「ら、蘭ね……」

「いいからいいから!」

 

 構わず、蘭はニコニコ顔で正面に合図を送った。

 

「おねがいしまーす」

「はーい、撮りまーす」

 

 カメラを構える彼女には、仲の良い姉弟が戯れているように映るだろう。

 果たして写真には、どう写るだろう。

 

「ありがとうございます」

 

 丁寧に礼を言う蘭に半眼を向け、コナンは跳ね上がった鼓動を何とか鎮めようと努めた。

 

「さっきのお返しよ」

 

 蘭は無邪気に笑い、受け取ったカメラをコナンに手渡した。

 

「もー……」

 

 ふくれっ面で受け取るが、彼女の笑顔に敵うはずもない。

 願った通り、彼女が自分の傍でニコニコ笑っているのだ。何の不満があるだろう。

 こんなに嬉しい不意打ち、嬉しい以外の何があるだろう。

 ……あるわきゃねーよ

 心中そっと呟く。

 

「もっといっぱい、写真撮ろうね」

 

 心なしか潤んだ瞳で、蘭が言う。

 嬉しさに涙をにじませる彼女が、たまらなく愛しい。

 コナンは降参とばかりに笑って応えた。

 

「そうだね。まだまだ、たくさん撮れるよ」

「ようし、じゃあ数えきれないくらい…そうね、重ねたら月に届くくらい、いっぱい撮ろう!」

「ええ……」

 

 さすがに呆れる提案だが、その一方で、果たして何枚用意すれば月までの距離を埋められるか真面目に計算を始める。

 

「え、あ、今のナシ……」

 

 突如真剣な顔付きになったコナンの横顔でそうと察した蘭は、大慌てで手を振った。彼を前に比喩は禁物だったのを思い出す。

 そこへ、間もなくレストランでの餅つき大会が始まる旨を告げる放送が流れた。

 

「行こう、コナン君!」

「うん!」

 

 もちろんだと、差し出す手を握りコナンは歩き出した。

 

「お父さんお待たせ」

「おう。綺麗な初日の出だったな」

 

 朝日を浴びて目が覚めたのが、いつになくすっきりとした顔で小五郎が立っていた。

 

「うん、晴れて良かったね。蘭姉ちゃんのてるてる坊主、ホントにすごいね」

 

 昇る太陽を眩しく振り返り、コナンは言った。

 

「なんたって特別製ですからね」

 

 ほんのり頬を赤く染め、誇らしげに蘭が応える。

 

「そうだ、三人で写真撮ろうよ」

 

 提案に賛成し、コナンは首からカメラを外した。

 

「そりゃいい、記念に撮っとくか」

 

 小五郎はカメラを受け取ると、通りがかった親子連れに写真を頼んだ。

 

「せっかくだからデッキに行こうよ」

 

 更に蘭が追加する。寒いのに…小五郎が唇をひん曲げて抗議するのも構わず引っ張り出すと、コナンを真ん中に蘭は三人で並んだ。

 と、小五郎の目がじろりとコナンを見下ろす。

 

「えっ……!」

 

 直後コナンはうろたえた声を上げた。突如後ろから誰かに抱き上げられ、蘭とは違う力強い腕にまさかと振り向く。

 案の定そこに見えたのは、小五郎の顔だった。

 

「お、おじさ……」

「元旦くらい、いいじゃねえか」

 

 面食らうコナンに企む顔でにやりと笑いかけ、小五郎はしっかり抱え込んだ。

 呆気の眼差しで見ていた蘭は一転して破顔すると、身体をぶつけるようにしてコナンごと抱きしめ小五郎に腕をまわした。

 

「おねがいしまーす!」

 

 そして正面に合図を送る。

 

「撮りますよー」

 

 蘭はにっと歯を見せた。

 小五郎も同じく楽しげに歯を見せた。

 慌ててコナンも、まだ驚きの抜けきらない顔で笑ってみせた。

 果たしてこの写真は、どう写っているのだろう。

 

「ありがとうございました」

 

 親子連れに重ねて礼を言い、清々しい顔で蘭が振り返る。

 思いの他丁寧にデッキにおろされたコナンは、離れ際、振り返って戸惑いがちに礼を言った。小五郎の顔は笑っていたようだったが、逆光のせいではっきりとは分からなかった。

 

「ようし、じゃあ餅食いにいくか!」

 

 弾む声を上げ、小五郎は歩き出した。

 

「行こう行こう!」

 

 蘭は意気揚々とこたえ、コナンに手を差し伸べた。

 

「うん!」

 

 コナンはしっかり握ると、一つ頷き歩き出した。 

 三人は楽しげに言葉を交わし、弾む足取りでレストランへと向かった。

 昇りゆく真新しい太陽に見守られ、船はゆっくりと大海原を進んでいた。

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