秋の色に |
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歩美推薦の旅館は、二十四時間いつでも自由に温泉に入る事が出来るが、そろそろ今日も終わろうとしている時間ではさすがに人の姿は見られなかった。 自動販売機の、煌々と照る明かりと低い唸り声だけが場を満たしている。 そこへ、一人の少年がやってきた。 温泉が目的ではなく、休憩コーナーを利用するらしかった。 数台並ぶ販売機の一つを適当に選び、前に立つと、持参した財布から硬貨を二枚取り出し投入する。売り切れはなく、全てのボタンに赤色が点灯した。少年はコーラを希望する…が、あともう少し背丈が足りなかった。 伸び上がって手を伸ばすが、あともう少し足りない。 すると横から助けの手が伸びた。
「コーラでいいの?」
親切な助けにしては、言葉が少々ぶっきらぼうだった。
「うん」
気にせず驚かず、少年…コナンは頷いた。 ボタンを押せばたちまち出てくる缶のコーラを取り出し、蘭は近くのテーブルに置いた。片手を動かせない彼の代わりに蓋を開けておく。
「ありがと。何か飲む?」
コナンは笑顔で受け取ると、蘭から販売機へと視線を移動させた。 |
「……呼んでくれればいいのに」 |
横顔に向かって、蘭は低く呟いた。 こっそり部屋を抜け出した彼に向って、少しの不満をぶつけた。 いつもより早い就寝時間を持て余し、布団の中でまどろんでいたから、同室の誰かの動きに気付く事が出来ただけのこと。 そうでなければ分からなかった。 呼んでくれればよかったのに。 どんな合図だろうと受け取る自信はある。 呼んでくれたなら。 |
「呼んだよ」 |
蘭に目を戻し、コナンはあっけらかんと言った。 少し声を荒げ蘭は言い返した。
「呼んでないじゃない」 「来てくれたじゃない」
すぐに返し、それが証拠だとコナンがおだやかに笑う。 柔らかな笑みを憮然とした顔でしばし見やり、蘭は販売機へと目を向けた。
「……オレンジジュース」 「はあい」
コナンは硬貨を入れた。 売り切れはなく、全てのボタンに赤色が点灯した。 蘭は一拍ためらい、オレンジジュースを買った。 取り出してすぐに蓋を開け、半分ほどを一気に飲み干す。
「夜更かしして、手の痛みがひどくなってもしらないわよ」
缶をコーラの横に置き、ぞんざいに言葉をぶつける。
「もう平気だよ」 「……嘘ばっかり。夕食の時も温泉入る前も、痛そうにしてたクセに」
どんなに巧妙に隠しても、彼女にだけは見抜かれてしまうもの。 コナンは長椅子に座ると、にっと歯を見せた。
「温泉入って、すっかり良くなったもん。それに」 「……なによ」 「手を握って励ましてくれたでしょ」 だから大丈夫
自信たっぷりの笑顔。 蘭は口をへの字に曲げた。 小憎らしい。 まだ痛そうな顔をしている癖に。 |
「呼んだクセに」 |
そこで初めて、コナンはばつが悪そうな顔をした。隠すのも演技ももうやめだ。
「本当は…まだ、ちょっとだけ」
痛みが残っていると、一大決心に乗せて素直に白状する。
「……で? 私に何をしてほしいの?」
わざと刺々しく言い放ち、蘭は左隣に座った。そしてコナンが何か言う前に、左手を両手にはさみ込み、まだほのかに残る温泉のぬくもりで痛みを癒そうとする。 サポーターは寝る間際に取っていた。
「……五分でいいんだ」
コナンは静かに言った。 そう…蘭は囁くように頷き、軽く目を閉じた。 コナンも同じく目を閉じる。 自動販売機の低い唸り声だけが、静かに場を満たす。 そのまま数分が穏やかに過ぎ、ある時ゆっくり蘭が口を開いた。
「……どんな感じ?」
両手をゆっくり動かし、はさみ込んだ小さな手をするりするりそっとさする。華奢で頼りなくも、この手は真実を掴み取るまで決して諦めない。
「うん……あったかくて気持ち良くて、どんな薬より良く利いてる」 「上手い事言っちゃって」
笑い交じりに蘭は優しく囁いた。 コナンも合わせて小さく笑う。
「踏まれたわけじゃないから、そんなにひどくはないよ」
よりひどい、最悪の状況までも想像しているだろう彼女を安心させようと、言葉を付け足す。病院でも、医者にそう説明したのを隣で聞いていたはずだが、恐らくあの時はほとんど聞き取れていなかっただろう。 置き引き犯を倒した時も鋭い目をしていたが、あの時は更に険しさを増し、今にも倒れそうになっていた。 思い出すと胸の奥がきりりと痛んだ。
「……心配させてゴメンね」 「うん……ううん」
謝罪の言葉に蘭は軽く頷き、軽く首を振った。
「ちょっとハプニングがあったけど、今日は楽しかったわ」
目を閉じたままやや上向いて、今日一日の出来事を微笑みと共に思い浮かべる。
「……ほんとう?」
少し不安そうな声が聞き返す。
「本当。みんなでわいわい旅行するって、やっぱり楽しいね」
子供たちの尽きないお喋りは聞いているだけで楽しい、気心知れた博士とのやり取りは気分がほっとする。昼間のあれこれを繰り出しながら、蘭は何度も楽しかったと繰り返した。
「コナン君との思い出って、時々ちょっと変わってて、楽しい」
コナンは目を閉じたままふと笑った。
「そんなに変わってるかな」 「うん。変わってて、楽しくて……――」
蘭は一旦言葉を切った。そして続くひと言を大事に綴る。
「忘れられない」
コナンはゆっくり目を開け、隣の女を見上げた。 そこには、優しく見つめる眼差しがあった。
「明日は何が起こるかな」
楽しみだと、茶目っ気を含んで蘭は言った。
「とりあえず…皆を心配させる事だけは起きませんように」
神妙な顔でコナンの手をさすりながら、蘭は目を閉じて念じた。 その顔があんまりおかしくて、コナンは小さくふき出した。
「……まじめにやってるのに、もう」
少し恥ずかしそうにしながら蘭が唇を尖らせる。
「はい、ゴメンなさい」
コナンは懸命に笑いを抑えようとした。しかしどうしても口の端からくすくす笑いがもれてしまう。 それを見て、怒っていた蘭もつられて笑い出した。怒ったり笑ったりしながら、もうと頬を膨らませる。 コナンは慌てて表情を引き締めた。 その顔に蘭が小さくふき出す。 そんな事を繰り返す内にとうとう耐えきれなくなり、二人は声を揃えて笑った。 そしてある瞬間、視線が強くぶつかる。 女を愛おしく見つめコナンは静かに口を開いた。
「ありがとね、蘭…姉ちゃん」
渡すのはやはりこのひと言。
「うん……」
頷いて、蘭は照れくさそうに肩を竦めた。
「腕の方は、どう?」
袖口を少しだけ摘まみ、コナンに視線を送る。
「うん……見てみる?」
コナンも同じく、袖口をちょっとだけ摘まんだ。躊躇するのは、彼女の声に怯えが少々混じっているのを聞き取ったからだ。
「やめとこうか。大分落ち着いてきたけど、まだちょっとアレだから」
強張った眼差しをほぐそうと笑いかけ、コナンは手を引き止めた。
「……平気よ。半分は私のだもん」
蘭は強い顔でぐっと唇を引き結び、しかし勢いはなくそろそろと袖をまくり上げた。 確かに半分は彼女のもの。 言葉をありがたく聞き、コナンは任せた。 ほどなく、見守る先で彼女の表情がしかめっ面に恐ろしげにくるくる変わる。
「な……治りかけ?」 「そう、治りかけ」
本当にこれでそうなのかと恐る恐る尋ねる蘭にしっかり頷き、コナンは簡単な説明を付け加えた。自分と一緒にひと通りの事を学んではいるが、文字の羅列にほんの数枚の写真を見るのと生身の身体で起こり変化してゆくものを自分の目で見るのとでは、全く違う。
「もうちょっとしたら全部綺麗に消えるから、心配ないよ。そんな顔しなくても大丈夫」
蘭はぎくしゃくと頷いた。彼の的確な教えのお陰で、ひと通りの事は頭に入っている。ただ、まだきちんと自分のものに出来ていないだけだ。
「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん」
コナンが繰り返す。 そこでようやく、蘭は強張った顔から力を抜いた。 何度か指先でそっとさすり、袖を戻す。
「……そろそろ戻る?」
それに対しコナンは、テーブルのコーラを指差して答えた。
「全部飲んでからにするよ」 炭酸抜けたらまずいし
「あ、なんだったら、先帰ってていいよ」 「……一人じゃ帰れない」
途端に蘭は不機嫌な声をもらした。 人気のない薄暗い廊下を一人で歩くのは怖い。 一本道でないと迷う。 そう含む言葉にコナンはしまったと口を押さえた。 その下でにやにやと笑っているのを、蘭は見逃さない。
「コナン君の意地悪…もう、誰かさんみたい」
ふんとばかりにそっぽを向き、残りのオレンジジュースを一息に飲み干す。 そしてかつんと鋭く缶を置き、横目でじっとり睨み付けた。
「なによ、もう右手貸してやらないんだから」 「え、そ……蘭姉ちゃん」
たちまち青い顔になってコナンは呼びかけた。
「……なによ」
対する蘭の声はどこまでも冷え切っている。
「それは困る……」 「困れば?」 「………」
機嫌を窺う上目遣いで、コナンはおっかなびっくり見やった。冗談半分かもしれないが、彼女は大変な頑固者。本当にへそを曲げたとなったら、コナンだろうが新一だろうが、百人で束になっても叶わないのだ。 詫びの言葉を出す一瞬を慎重にうかがう。
「またそれ出して……」 反則
その目には勝てないと、蘭は降参した。
「……冗談よ。待っててあげるから、ゆっくりどうぞ」 「……よかった!」
コナンはぱあっと顔を輝かせた。 大げさな喜びようを、蘭は愛おしく見つめた。 コナンは左手を蘭に預けたまま、美味そうにコーラをひと口ふた口傾けた。
「コナン君、コーラ好きね」
それは何気ない一言だった。
「蘭姉ちゃんのオレンジジュースと一緒だよ」
コナンもまた何気なく答えた…つもりだが、あの夜、公園でのささやかで重大な出来事を鮮明に思い出してしまったせいで、顔を赤くする事となる。
「!…」
たちまちの内に沸き起こる狼狽に手は震え、危うく缶を落としそうになりコナンはあたふたと奇妙な踊りを踊った。 隣の蘭もまた、一緒だというひと言にどぎまぎとうろたえ、缶を落としそうになったコナンに慌てふためき、彼の左手をはさんだままの手で対処しようとして直前で気付き思いとどまり、軽い混乱に陥り、これまた奇妙な踊りを踊った。 何度か倒しそうになった末、ようやく缶を無事テーブルの上に置く事が出来た。 四本の手を添えたまま、二人はほっと肩で息をついた。 ほとんど飲み切っていたおかげで、テーブルにも絨毯にも被害はない。 安堵して落ち着くと、何をやっているのだろうと可笑しさが込み上げてきた。 ふうとうなだれた姿勢のまま二人は顔を見合わせ、どちらからともなく控えめにくすくすと声をもらした。
「……戻ろうか」 「そうね」
コナンに頷き、蘭は改めて左手を握りしめた。
「痛みはどう?」 「明日には、なくなると思う」
隠し立てせず、きちんと具合を確かめてからコナンは答えた。 嘘か本当か表情で読み取り、蘭はおだやかに笑んだ。
「じゃあ、蘭姉ちゃん。部屋まで送ってあげるよ」
恩着せがましく言って見上げると、女は一旦唇を尖らせ、破顔して、深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
それがおかしくて、二人は顔を見合わせまたくすくすと声を揃え笑った。 |