秋の色に

 

 

 

 

 

 今の時期、渋滞を考慮に入れても二時間もあれば旅館に到着出来る予定だったが、実際にチェックイン出来たのは、出発してから四時間後のことだった。

 すっかり日も暮れ、夕食までもうあと一時間もない。

 順調についていれば、夕食前にのんびり温泉につかり旅の疲れを癒やす事が出来たのだが、渋滞以上に厄介な出来事…途中小休憩で寄ったサービスエリアでちょっとした事件に遭遇したせいで、遅れてしまったのだ。

 

「コナン君、大丈夫……?」

 

 車から降りたコナンの背に向かって、歩美が恐る恐る声をかける。

 

「ああ、全然問題ねーよ。蘭姉ちゃんが大げさなだけ、だ……」

 

 歩美の後ろに立ち、凄まじい形相で見下ろす蘭に気付いたコナンは、途端言葉を切りごくりと唾を飲み込んだ。

 

「……サポーターのお陰ですごい楽になったよ、蘭姉ちゃん……」

 

 蚊の鳴くような声でコナンは言い、引きつった笑みと共に左手を胸元に持ち上げた。

 そこには、手首から手の甲までを固定する黒いサポーターがしっかり巻かれていた。万一の事を考えて、蘭が持参した物だ。

 そして万一の事態は起きた。

 サービスエリアで遭遇した事件は、三人ひと組で行動する置き引きの犯行をコナンと探偵団が未然に防いだもので、それだけならばここまで時間を取られる事もなかったが、犯人の内の一人が逆上し、破れかぶれの態でナイフを振り回したせいで少々こじれた。

 場所が人でごった返す食堂だった為、パニックを起こした客たちのでたらめな動きに翻弄され、避ける間もなくコナンは床に倒れ伏した。誰かに踏まれる前にと思った時には既に遅く、逃げまどう足に左手を蹴られる。

 骨折などしていなければどうという事のない衝撃だが、今の身にはひどく堪えるもの。

 痛みと呻きを噛み殺してどうにか立ち上がった時には、蘭の働きによって事件は終結を迎えていた。

 彼女の一撃をくらい、床に倒れ伏す三人の犯人。

 いつにもまして鋭い眼差しをしていたのが、忘れられない。

 その後、念の為近くの病院で検査を受けた。

 ここで、歩美の集めた情報が役に立った。母親から言われた事だそうで、怪我の療養で温泉に行くなら、もしもの時の為に近くに大きな病院がある場所がいい。

 もしもの事態は起き、情報は大いに役に立った。

 検査の結果、異常はなし。蘭が持参したサポーターを医者も大いに勧め、今夜一晩安静にしていれば痛みも消えるだろうと診断を下した。

 これらの『寄り道』のせいで、旅館の到着がかなり遅れてしまったのだ。

 

「ありがとね…蘭姉ちゃん……」

 

 様子をうかがいながら、コナンはおっかなびっくり声をかけた。

 仁王立ちで腕を組んでいた蘭は、言葉を受け取るとよろしいとばかりに大仰に頷いた。そしてすぐに表情を明るく切り替え、子供たちに笑いかける。

 

「さあ、気分をかえて美味しい夕食と温泉、楽しみましょ!」

 

 軽く拳を振り上げる蘭に合わせ、三人と博士も張り切って応えた。一拍遅れてコナンが続く。

 

 

 

 少しばかり時間がずれ込んだが、片っぱしから楽しむ子供たちには些細な事。六人一緒に寝られる大きな和室に感動の声を上げ、広く明るいレストランでのバイキング形式の夕食に喜びの声を上げ、待望の夕食時には、最初の乾杯からデザートまで大いに堪能した。

 テーブルには、そのデザート…宿オリジナルの五種類のデザートが、それぞれ一つずつ並んでいた。全部を食べたいけれど全部は食べ切れないと残念がる歩美の希望をかなえる為、皆で一口ずつ味わっていたのだ。

 

「このイチジクのゼリーは絶品じゃの!」

 

 右から二つ目の器を味わった途端博士は目を輝かせ、デザートコーナーを見やった。自分用にもう一つ取ってこようかと、尻がむずむずし出す。

 

「ダメよ博士、哀ちゃんがいないからって食べすぎちゃ!」

 

 すかさず歩美が釘をさす。

 たちまち博士はとほほと肩を落とした。少しくらいなら羽目を外してもいいだろうと高をくくっていたのだが、そう上手くはいかないようだ。

 大きな身体をしょんぼり縮める博士に、蘭とコナンはしょうがないねと肩を竦めて笑い、残ったラズベリーのムースを半分ずつ味わった。

 

「さっぱりしてて美味しいね」

 

 程よい甘酸っぱさに蘭は目尻を下げた。

 

「うん」

 

 コナンは笑顔で応え、残りのひとすくいを口に運んだ。

 

「ふいー、食った食った!」

 

 椅子にもたれ、大きく膨らんだ腹をさすりながら元太は満足げに息をついた。

 

「山菜も魚も肉も、みんな美味しかったですね!」

 

 素朴ながら工夫を凝らした自慢の料理に感激し、光彦が後を継ぐ。

 博士も蘭も、その通りだと少し苦しそうに嬉しそうに頷いた。

 

「わたし、もう一杯ジュースもらってくる。コナン君は? 取ってきてあげる!」

 

 斜め前に座るコナンをまっすぐ見やり、歩美は尋ねた。

 サービスエリアでのハプニングが元で、コナンは左手の動きを一時制限されていた。出来るだけ動かさないようにとサポーターをきっちり巻かれ、そうなるとギプスほどではないが色々不便は生じるもので、バイキングの料理を取るのも運ぶのも蘭頼みとなり、何かと不自由していた。

 それを隣で見ていた歩美は、自分もわずかながらでも役に立ちたいと思い申し出たのだ。大事な友達を助けたい。いつも助けられている礼も好意もみんなひっくるめて。

 輝く歩美の双眸と、じっとり半眼になって睨んでくる四つの目に、コナンは困り果てた顔で弱々しく笑った。

 コナンだけずりーよな、まったくです…聞こえるか聞こえないかの小さなぼやきにますます弱り果てる。

 

「あの、じゃあ…ミネラルウォーターを……」

 

 ただの水という返答に歩美の瞳がきょとんと丸くなる。搾り立てが自慢のフルーツジュースではなく、お決まりのコーヒーでもなく、水とは。

 けれど、宿にほど近い場所に湧き出る清水もまたこの宿自慢の一品で、ほのかに甘く感じる湧き水を楽しみに来る客も少なくない。

 

「そういえば、パンフレットにも書いてありましたね」

 

 光彦が、フロントで手に入れた小冊子を取り出し言った。

 六人で一冊を覗き込む。

 そこに写っていたのは何の変哲もないコップ一杯の水だが、かえって心をくすぐるもので、どうせなら皆で味わってみようとなり歩美と博士とで人数分取りに行く事になった。

 少しして、五つのコップが乗ったトレイを持った博士と、神妙な顔でグラスを一つ運ぶ歩美とが戻ってきた。

 歩美が手にするグラスはもちろん、コナンの分。

 またしても四つの目に睨み付けられ、コナンは泣き笑いで歩美に礼を言った。

 そして逃げるように窓の外を見やる。

 綺麗に整えられ、ライトアップされた庭園が広がっている。

 今は、それらを眺める余裕はないが。

 

 

 

 食事の後、三十分ほど思い思いに過ごしてから、六人は揃って露天風呂へと向かった。

 朱色の絨毯が敷かれた廊下を進みながら、今しがた見てきたお土産コーナーの話で三人は盛り上がっていた。

 今回留守番となった哀の為に何を買っていこうか…食べ物がいいか記念品がいいか。

 

「可愛いストラップとか、どうでしょうか」

「食べ物がいいんじゃねえか」

「元太君が食べたいだけでしょ」

 

 うんうん唸りながら案を出し合う彼らの一歩後ろを進みながら、蘭は微笑ましく眺めていた。

 

「お父さんには、お店の人に選んでもらって地酒を送ればいいわよね」

 

 そして、隣のコナンにそう尋ねる。

 

「え…あ、うん、ここは水が美味しいから、お酒も美味しいのが揃ってるしね」

 きっとおじさん、喜ぶよ

 

 少し気がかりな一拍をはさんで答えたコナンを静かに見下ろし、蘭は繋いだ手を握り直した。

 コナンはわずかに頬を強張らせ、慌てて愛想笑いを浮かべた。

 蘭は何も言わずただ微笑んで、繋いだ手の甲をそっとさすってやった。

 

「ありがと……」

 

 お見通しかと、コナンはぼそりと呟いた。

 

「コナン君!」

 

 たどり着いた大浴場の暖簾の前で歩美は振り返ると、ずいと一歩踏み出した。

 

「お、おう……」

 

 勢いに圧されついコナンは身を引いた。

 

「ここの温泉はね、えっと…せんしつが……」

 

 今日を迎えるまで、何度も効能を読み返した。泉質がどうの、いわれがどうの…必死に覚えたそれらを、歩美は何度もつかえながら口にした。

 眉間にしわを寄せた真剣な顔つきは、ともすれば泣きそうにも見えた。

 言葉が詰まる度、知っている、こうだろと、口をはさみたくなるのをぐっとこらえ、コナンは最後まで黙って聞いていた。

 そんな二人を、蘭もまた静かに見守っていた。

 

「…だから、ゆっくりあったまってきてね!」

 

 何度も言い直しながらもどうにか最後まで伝え切り、歩美は満足した顔で肩を落とした。

 

「ああ、ありがとな!」

「じゃあ後でね!」

 

 晴れやかな顔で手を振り、歩美は暖簾の向こうへ進んでいった。

 

「先に出たら、ここで待っててね」

 

 後に続きながら、蘭が入口を示す。そこは自動販売機が何台も並び、長椅子とテーブルが置かれ、ちょっとした休憩コーナーになっていた。

 

「わかりました」

「じゃあな!」

 

 手を振り合って四人と二人とに分かれ、待望の露天風呂に突き進む。

 

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