秋の色に

 

 

 

 

 

「ふぃー、食った食った!」

 

 店を出て数歩行ったところで立ち止まり、元太は心底満足そうに伸びをした。

 後に続く五人は、今しがた目にした光景…がつがつと下品に食べ散らかすのではなく、どこまでも綺麗にありがたく口に運びながらも、一人前を食べる自分たちと同じ時間で五人前を食べ切った元太が、どうにも信じられずにいた。

 しかし現に、五つの器をカラにしたのだ。全て胃に収め切ったのだ。

 一人前を食べるのに二度も蘭に口元を面倒見てもらったコナンとは対照的に、口もテーブルも畳も一切汚す事無く綺麗さっぱりと。

 米粒ひとつでも粗末にするとバチが当たる…いつぞやのキャンプで、誇らしげに言っていたのを思い出す。

 そして丁寧に手を合わせひと言、ごちそうさまでした。

 

「やっぱうな重は最高だな!」

 博士ごちそうさま!

 

 きらきらと顔を輝かせ礼を言う元太に、少々気圧されながらも博士はにっこり笑って返した。

 

「でもホント、美味しかったよね」

「はい、さすがは老舗だけありますね」

 

 最初は少々量が多いように見えた一人前だったが、一口頬張ればそんな心配などすっかり吹き飛び、美味いうまいと言う内に全部食べ切っていた。

 五人は口々に博士に礼を言った。

 

「予算…オーバーしたんじゃねえの?」

 

 コナンは苦笑いでこっそりと、恐る恐る、尋ねた。

 博士は笑うばかりだった。まさかそこまではと思いつつ、万が一を考え用意してきたが、そのまさかが現実になるとは。

 あらためて、小嶋元太の胃袋に畏怖する博士だった。

 財布の中身はかなり寂しい事になったが、友人たちが喜んでくれたならこれ以上嬉しい事はない。心から満足して、いざ車に乗り込もうとした時、駐車場の隅で何かを見つけたらしい光彦が声を上げてみんなを呼んだ。

 なんだよ光彦、どうしたの…まず元太と歩美が駆け寄り、やや遅れて三人が続いた。

 駐車場の一角から、近くを流れる川に下りる小道が伸びていた。それを、光彦は見つけたのだ。

 途端に歩美は楽しそうとの声を上げ、元太は入口の文字が書かれた立て看板の横にあるのぼりの『おだんご・焼き餅』に目を輝かせた。

 三人は腹ごなしに少し寄ってみようと思い付き、博士らを振り返った。

 

「ほう、この案内図によると、ぐるりと回って戻ってくる散歩コースになっておるようじゃな」

 

 博士は簡単な地図の書かれた案内板をざっと見渡して二度三度頷いた。

 小道を下りて川にたどり着いたら橋を渡って対岸に行き、少し先にある橋で戻り駐車場に帰って来られるようになっていた。

 

「まあ、まだ時間はあるしの…ひとつ行ってみるか」

 

 賛成の声を上げる博士に、コナンは振り返って蘭を見た。

 

「気を付けてね」

 

 あからさまに顔色を窺う眼差しがあんまりおかしくて、蘭はふと笑いながらひと言だけ手渡した。本当はもう一言、ポケットに手を入れたままにしないように…言いたかったが、彼が何を思って左手をポケットに収めたままなのか分かるので、二つ目の言葉は密かに飲み込む事にした。

 だから、気を付けて。それだけ。

 

「うん!」

 

 コナンがとびきりの笑顔で一つ頷く。

 

「博士も蘭お姉さんも、早く早く!」

 

 先頭に立った歩美が、はつらつとした声で後続の彼らに手を振った。

 

 

 

 なだらかな下り坂はすぐに終わり、川へとたどり着いた。

 案内図にあったようにすぐ向こう岸への橋があり、戻ってくる次の橋も、そう遠くない場所にあるのが見えた。

 向こう岸には、元太が目を輝かせた小さな茶屋があり、幾人かの観光客が思い思いに団子や飲み物を楽しんでいた。

 

「ホントに食べるんですか、元太君……」

 

 早く行こうぜと急かす元太に、光彦はやや呆れ気味に答えた。

 

「甘いものはね、別腹なの!」

「もー、しょうがないなー……」

 

 光り輝く元太の笑みを半眼で見やり、渋々後に続く。

 

「オメーら、転ぶなよ」

 

 待ちきれない足取りで駆けていく二人にとりあえずそう声をかけ、コナンは笑って小さく肩を竦めた。

 すぐ隣を歩く歩美は、そう言うコナンこそ片手をポケットに入れたままなのにふと笑った。

 彼のいつもの恰好。両手だったり片手だったり、ポケットに手を入れている姿は今までと変わらない。けれど…左手を怪我してからは、まるで隠している風にも見て取れた。とはいえいつも頑なにポケットに入れているわけではない。授業中やちょっとした作業の際は躊躇いなく左手を使うし、おかしいなと引っかかるものは何もないのだけれど、ただ何となくそう思うのだ。

 

 歩美の考えすぎだよね

 

 ぼんやりとそんな事を考えていたのがいけなかったのか、橋を目の前にして河原の石に足を取られてしまい、途端傾く身体に歩美は驚きの声を上げた。

 

「きゃっ……!」

 

 咄嗟に右手を隣のコナンに伸ばす。

 

「歩美!」

 

 まだ左手でしっかり掴む事が出来ないコナンは、代わりに腕を組む形で素早く歩美の身体を引き止めた。

 

「大丈夫か?……足元、もう平気か?」

 

 歩美の身体をしっかり引き寄せ確かめる。

 

「うん……もう大丈夫!」

 

 ぐらつきのない足場をしっかり踏みしめ、歩美はようやく顔を上げた。

 

「ありがとう、コナン君……」

 

 嬉しがる感謝の声は、最後の最後でかき消えた。

 コナンと自分との間にある彼の左手。まだ治り切っておらず、リハビリの最中だという。どんな風に傷付いたのか、跡はどれくらい残っているのか、まだ一度も見た事はない。わざと見せて怖がらせる人間ではないし、自分も、何となく触れてはいけないもののように感じて『見せて』などと口にした事はない。

 その彼の、左手。

 こちらに向いた手の甲を見る分には、ひどい怪我を負ったようには思えない。ただ…人差し指の形が、少し歪に感じられた。

 まだ握りこぶしを作る事が出来ないと、元太たちに言っていたのを思い出す。ほんの数日前の事だ。

 だからだろうか。そのせいだろうか。握ろうとして握れないから、不完全な形に見えてしまうのだろうか。

 考えていると、するりと腕がほどかれた。

 

「行こうぜ」

 

 そう言ってコナンはまたさりげなく左手をポケットに収め、歩き出した。

 

「うん……」

 

 少し喉に詰まった声で頷き、歩美は後に続いた。

 川の両岸には、黄や紅、褪せた緑が折り重なる紅葉の風情がどこまでも連なり、合間を流れる川は晴れた空によく合う澄んだ青をたたえておだやかに水面を煌めかせていたが、今の歩美にはそれらを楽しむ余裕はなかった。

 心を占めるのはコナンの事。

 彼の左手を案じるあまり、景色に見とれる顔が上げられずにいた。

 橋の中ほどまで歩いたところで、思い切って口を開く。

 

「コナン君……」

「どした?」

 

 下流の先を何気なく眺めていたコナンは、振り返って応えた。

 

「あの……手、痛む?」

「ああ、いや。普通にしてる分には、もう何ともねーよ」

 心配させてごめんな

 

 付け加えられた柔らかなひと言その表情に歩美は慌てて首を振った。

 

「温泉にいっぱい入って、早く良くなってね!」

 

 川面を揺らさんばかりに声を張り上げ、歩美は励ました。

 

「あ…ああ、サンキュ」

 

 そんな彼女の勢いにやや気圧されるように一歩引いて、すぐに笑顔になってコナンは頷いた。

 歩美もにっこりと頷いた。

 橋を渡り切り、一足先に茶屋にたどり着いた元太たちに声をかけようと歩美が踏み出した時、隣のコナンは振り返って、今来た橋の方を見やった。

 ふと見ると、ほのかに笑んで橋の中ほどを見つめている横顔が目に入った。

 歩美も同じ方に視線を向けた。

 コナンが見ているのは、やや遅れてよろよろとやってくる博士と、そんな博士を励ましている蘭。

 

「ふう…ようやく渡り切ったわい……すまんのお蘭君」

 

 蘭の手を借りどうにかこうにか橋を渡り切った博士が、青息吐息で礼を言った。最初の下り坂の時点で、息が上がってしまったのだ。

 

「もー、博士大げさすぎ……」

 

 今にも倒れそうな様子に蘭が苦笑いを一つ。

 コナンは特に声をかけるでもなく、ただ一人をおだやかに見つめていた。

 と、おっかない形相で待ち構えていた元太と光彦に取り囲まれる。

 

「おいコナン……」

「コナン君……」

 

 二人の不機嫌な声から理由を察したコナンは、渋い顔でなんだよと返した。

 歩美と腕を組む形になったのは不可抗力、決してわざとではないと、不機嫌な二人に弁明する。

 そして。

 

「食うか怒るかどっちかにしろよな……」

 

 あんころ餅とイソベ餅片手に詰め寄る二人に、恐る恐る言ってみる。

 いくら食欲の秋とはいえ、今さっき昼食を終えたばかりだというのによく入るものだと、コナンは感心もした。

 更に彼らは、歩美や蘭たちにも茶屋の団子をすすめた。もちろんその前に、コナンへの不機嫌なしかめっ面を忘れない。

 もう勘弁してくれ…乾いた笑いを一つ。

 二人のすすめに、博士はコーヒー一杯なら付き合うぞと応えた。これで座って休む口実が出来たとニコニコ顔だ。

 

「私は、食べたばかりだからいいわ」

 

 二人の旺盛な食欲に目を白黒させながら、蘭は丁重に断った。

 

「歩美ちゃんは?」

「このあんころ餅いけてるぜ!」

 

 二個目をパクつきながら元太が張り切ってすすめる。

 

「二人とも……」

 

 一体どこに入るのかと呆れ顔で、歩美は首を振った。

 

「そっか……じゃあオレもう一つ買ってこよ」

「ええ……」

 

 三個目のあんころ餅を求めて駆けていく元太を、今度こそ言葉もないと光彦は見送った。

 

「さすが元太だな……」

「まったくです……」

 

 唖然とするコナンに光彦も放心状態で頷いた。二人だけでなく、蘭も歩美も博士も、ひと固まりになって立ち、同じような表情で元太を見つめていた。

 

「それにしても見事な景色じゃのお」

 

 白い湯気揺らめくコーヒーをのんびりすすりながら、博士は川を彩る紅葉に感嘆の声を上げた。

 陽射しはあたたかく風も穏やか、冷たく澄んだ空気によく似合う少しくすんでけむる秋の色合いが、沁みるばかりに素晴らしい。

 川べりの景色や、紅葉を背に写真を撮る家族連れに三人ほどのグループが、楽しげにお喋りしながらそぞろ歩いていた。

 博士は、荷物の中のカメラを確認すると、向こうの橋まで行ったら皆と写真を撮るのもいいと思い浮かべた。

 

「なあなあ、向こうの橋まで行ってみようぜ!」

 

 最終的に五つのあんころ餅をぺろりと平らげ満足した元太が、まっすぐ伸びる川の向こうに見える二つ目の橋を指差し五人に言った。

 

「いいですね、行きましょう」

 

 応えて光彦が隣に立つ。

 

「博士もほら、行こう! 蘭お姉さんも!」

 

 歩美が意気揚々と腕を引っ張る。ついで蘭を見上げ、はしゃいだ声を上げた。

 ちょうどコーヒーを飲み終えた博士が、やれやれと腰を上げた。日頃の運動不足を解消する為だ、仕方ない。

 渋々といった様子の博士に小さく笑って、コナンも続いた。

 その横に並ぶと、蘭は軽く屈んで言った。

 

「気を付けてね」

 

 渡すのは、やはりこの一言だ。

 

「うん、……蘭姉ちゃんこそ、綺麗だからってその辺ふらふら歩いて迷子にならないようにね」

「あら……そう言うコナン君こそ、滑って転ばないようにね」

 

 わざと半眼で意地悪く笑うコナンに蘭も同じく横目でいたずらっぽく返し、満面の作り笑顔を突き合わせた。

 

 

 

 何事もなく、楽しく河原の散策を終えた六人は、何枚かのモミジをお土産に車に戻った。

 子供たちのわいわいと賑やかなお喋りを嬉しげに聞きながら、博士は本日二つ目の目的地、温泉旅館目指して出発した。

 

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