はじまる場所で

 

 

 

 

 

 翌日、コナンの体調はすっかり元に戻っていた。朝食の後、毎日の検診でいつものように『おはよう、水野のお姉さんがきましたよ』とやってきた水野から良好の言葉が渡され、ほっと胸を撫で下ろす。

 同時に長らくの点滴からもようやく解放され、チューブに煩わされる事無く行動出来るというのはこんなにも清々しいものかと、コナンは処置室のベッドの上で思い切り伸びをしながらしみじみと嬉しさを噛みしめた。

 

「ようやくさっぱりしたね」

 

 チューブをまとめながら、水野はよく頑張ったねと笑いかけた。

 

「うん……えへへ」

 

 照れ臭そうに笑い返し、でも嬉しいと、コナンは大きく息を吐いた。

 その様子に水野は優しく目を細めた。

 

「どこか痛いところはないかな?」

 

 質問にコナンは右手を軽く動かしてみた。特にこれといった違和感はない。

 

「平気だよ」

「良かったね。これ片付けたら髪洗ってあげるから、ちょっと待っててね」

 

「ありがとう、水野さん」

 

 てきぱきと動く水野の後ろ姿をしばし見送り、コナンはもう一度ゆっくり伸びをした。

 ああ本当に、羽が生えたように身軽だ。

 

 

 

 洗髪を終え、丁寧に乾かしてもらったコナンは、水野に付き添われ病室に戻った。

 ベッドの上で思い思いに、少し退屈そうに過ごしていた同室の五人は、戻ってきたコナンを見るやわあわあと口々に声を上げた。

 髪きれいきれいしたの、気持ち良かった、今日は遊べるの、おねつはもうへいき…騒々しいことこの上ない一斉攻撃がしょうもなく嬉しくて、コナンは一人ひとりに礼を言って回った。

 彼らからもらった小さなカッププリンがどんなにありがたかったか、元気の源になったか。そしてあのメダル。感謝してもし尽くせないと、コナンは何度も何度もありがとうを繰り返した。

 自分のベッドに戻る頃には少し息が上がってしまっていたが、それでもまだ言い足りないほどだった。

 

「モテモテだねコナン君、またお熱出ちゃいそうだね」

「こ、今度は気を付けるよ……」

 

 優しく茶化す水野に苦笑いで答える。

 

「コナン君、点滴終わったから、少しなら運動も出来るよ」

「ホント!」

 

 それが一番嬉しいと、コナンは顔中輝かせた。

 

「ホント。でも、少しだけだよ」

「うん、分かった!」

 

 念を押す水野にとびきりの笑顔で頷く。

 

「じゃあ、水野のお姉さんはまた午後に来ますね」

 

 手を振り去っていく水野に振り返し、コナンはベッドから降りた。彼女の溢れ出る元気には圧倒されるが、救われている部分も多々あった。七歳児に向ける言葉には時に苦笑いも湧くが、明るくはきはきとした口調はありがたいものだった。たとえ中身が十七歳だろうとありがたい事に変わりはない。

 入院生活は本当に退屈で…寂しい。

 窓側のカーテンを開くと、昨日と打って変って清々しい青空が広がっていた。それを見た途端急に外の匂いが恋しくなり、コナンはベッドの下から愛用のシューズを引っ張りだした。

 ひもを結んで顔を上げた時、ちょうど目に入ったカレンダーにあっと息を飲む。今日は祝日…もしかしたらいつもより早くあの愛くるしい顔を見られるかもしれない。自然緩む頬をそのままに、コナンは立ち上がった。

 

 

 

 意気揚々と病室を出ていったコナンだが、ほんの十分もしない内に水野によって連れ戻された。

 猫の子のように首根っこを掴まれ、しゅんとした顔で戻ってきたコナンに子供たちは口々にどうしたのと尋ねた。

 

「もう、少しだけって言ったでしょう、コナン君!」

「はい……ごめんなさい」

 

 心底反省していると、コナンは上目遣いに謝った。

 水野が叱るのも無理はなかった。

 怪我の治りを良くする為、身体を動かすのは大いに良い事だ。制限された範囲内で、どんどん身体を動かすべき…しかし、いきなり以前と同じように激しい運動は許可しかねる。

 見つけた途端水野が顔色を変えて止めに入り、叱るのも無理はなかった。

 コナンとしてもその予感は薄々あったので、目につきやすい中庭ではなく、あまり人の寄らない正面玄関横でなまった身体をほぐす事にした。しかし五分もしない内に水野に見つかってしまい、あえなく終了となってしまった。

 

 まさか発信器とか…まさかな

 

 的確に迅速に攻めてきた水野に畏れ入り、冗談半分ギプスをくるくると見回す。

 

「もう、いつもはとっても聞き分けいいのに」

 

 サッカーの事となると目の色変えて

 サッカーだけじゃないですが済みません…コナンは大人しくベッドに戻った。

 

 

 

 昼時になり、入院生活で一番と言っていいほど楽しみな食事の時間が訪れた時、コナンのもとに更に嬉しい訪問者があった。

 

「らんねえちゃん!」

「らんねーちゃんだ!」

 

 コナンが名を呼ぶよりほんの少し早く、愛称を覚えた同室の子供たちが戸口から順番に呼び掛けて手を振った。

 蘭の方も、すっかり顔馴染みになった一人ひとりに手を振り返しこんにちわと声をかける。

 

「おにいちゃんの彼女だ!」

 

 そんな中、コナンの向かいのベッドにいる女児が嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。

 聞いた二人は同時にぎくりと頬を強張らせた。

 彼女にしてみれば、それは単に覚えたての言葉の内の一つに過ぎず、覚えたての言葉をとにかく使いたい純粋な欲求からの発言に過ぎない。

 言葉の意味を理解するのはまだずっと先だろう。

 なものだからはいともいいえとも答えにくく、蘭はひたすら微苦笑を浮かべるしかなかった。

 

「え、と……ごめんね蘭姉ちゃん」

 

 ベッドサイドまでやってきた蘭を見上げ、コナンはぎくしゃくと謝った。

 

「べ、別にコナン君が謝る事じゃないし……」

 

 昼食のトレイをテーブルに置き、蘭も同じくぎくしゃくと首を振った。

 向かい合ったどちらの顔も、気のせいでなく赤くなっていた。

 

「……ほら、今日のお昼もすごく美味しそうよ」

 

 気を取り直して食べましょうとすすめ、蘭はパイプ椅子に腰かけた。

 

「ありがとう、ホントだね」

 

 自分も、食事の時間を楽しみにしていた一人だと目を輝かせ、コナンは頷いた。

 

「蘭姉ちゃんはもう済ませてきたの?」

「コナン君のお昼に間に合うように来たかったから、少し早く食べてきたわ」

 

 テーブルの位置を調整しながら、蘭はニコニコと答えた。

 

「き、今日は、自分で食べても…いいよね……?」

 

 上目遣いに尋ねながら、コナンはそろそろと箸に手を伸ばした。

 

「ええー、私、コナン君の彼女だしー」

 

 いたずらっ子の顔で笑い、蘭はさっと箸に手を伸ばす振りをした。

 

「うわわ……」

 

 それより先にとあたふたしながら、コナンは奪い取るように箸を持った。

 

「冗談よ。食事はゆっくり良く噛んで! だもんね」

「……蘭姉ちゃん」

 

 軽く踊らされ、コナンは少しむくれて横目に見やった。

 

「ほらほら、あったかい内に食べて」

 

 半眼で睨みながら、コナンはいただきますと手を合わせた。

 

「今日のデザートはブドウだね」

 

 丸い小皿に乗った二粒の巨峰をにこにこと眺め、蘭は食事風景を見守った。

 

「一つ食べる?」

「じゃあ半分こしようか。コナン君皮で、私実の方ね」

 

「ええー……何それ」

「冗談よ、ほらほら、また口元よごして」

 

 ふふと笑い、蘭は棚のウェットティッシュを一枚コナンに手渡した。

 

「え、あ……!」

 

 慌てて恥ずかしそうに拭う様を、またにこにこと見守る。

 不思議でならない。箸の上げ下ろしや食べ方一つとっても、彼は驚くほど優雅で時に見惚れてしまうほど…お淑やかとも言えるほどなのに、気付くと口の周りをよごしている。まったく不思議でならない。乱雑な食べ方などしていないのに。

 えへへと照れ笑いのコナンにふふと笑い返す。

 

「外は結構寒いでしょ」

 

 言ってから、しまったと、コナンは口に運びかけた手を止めた。そして不自然な停止にまたも、しまったと心の中舌打ちする。

 

「……もしかしてコナン君、勝手に外に出て怒られたでしょ」

 

 嗚呼本当に…しまった

 

「いや、あの……外に出るのは許可されたんだけど……」

 

 ここまでくれば答えは一つ。

 蘭はそのものズバリを口にした。

 

「……ははーん、やりすぎて怒られたのね」

「……うん、そう」

 

 素直にしょげ返る様に蘭は肩を震わせた。

 

「コナン君…らしいね」

 

 抑えたくくくから一気に吹き出し、軽やかに声を上げて笑う。

 

「ああもう、おかしい」

 

 息も出来ないと楽しげに身体を揺する女に赤い顔で俯き、コナンはもごもごと言い訳めいた事を口にした。

 

「まったく……一度始めると周りが見えなくなるなんて」

 

 まるで誰かさんみたいと、蘭は涙を滲ませるほど笑い転げた。

 好きなだけ笑えばいいさと開き直りやけ食いに走り、コナンは次々口に運びながら問いかけた。

 

「蘭姉ちゃんは? 昨日はよく眠れた?」

 

 ふうふうと息を整えつつ、蘭はこくりと頷いた。

 

「うん、もちろん! コナン君のおまじないのお陰ね。祝日だからって、寝坊するくらいぐっすり眠れたわ」

 

 幸せそうに額を押さえ、蘭がにっこり笑う。

 それを見つめるコナンも似たような表情になるが、すぐに泣きそうに歪む。

 女の嘘が、見えてしまったからだ。

 声からも分かる。

 コナンは箸と器とトレイに置いた。

 

「蘭姉ちゃん、ボクね、今日、点滴取れたんだよ」

 ほら

 

 立つにも座るにも何かと煩わしかったチューブから解放された右腕を見せ、コナンは嬉しそうに言った。

 

「あらホント、良かったねコナン君。そういえば髪も綺麗になったね」

「うん。明日には、腕の包帯も取れるって」

 

「そう!」

 

 蘭は自分の事のように喜びの声を上げた。

 人の痛みを自分の痛みと胸を痛め、人の苦しみを自分の苦しみと祈りを捧げる優しい女。

 

「だからもうすぐ、帰れるよ。だから……」

 

 一旦区切り、コナンは息をひと飲みした。

 

「だから、もう、蘭姉ちゃんに心配かけないよ」

 

 目を潤ませ喜んでいた蘭の表情が、そう告げるコナンの声音を聞き取った途端わずかに強張った。

 

「え…なに、コナン君……」

 

 蘭は小さく瞳を揺らし口ごもった。いつもなら、心配かけないなんて言ってもどうせまた口先だけでしょう…そう、くすぐったい声で茶化すところだのに今はそれが出せなかった。出来なかった。

 彼の言葉を聞き取ったからだ。

 嘘を見破り、真実に迫った彼の声を、聞き取ったからだ。

 

「今まで気付かなくてゴメンね…本当にゴメンね」

「やめてよ……」

 

 震える唇で蘭は呟いた。

 

「軽はずみな事ばっかりして心配かけてといて…言えた義理じゃないけど……」

「……やめてってば」

 

 見え隠れする新一に俯く。

 

「今回の事だって蘭姉ちゃんはなんにも――」

「違うのよ!」

 

 悲鳴交じりに叫び、蘭は立ち上がった。

 あまりの剣幕にコナンは呆然と見つめていた。

 自制を忘れ、むき出しの感情をぶつけてしまった事に深く後悔する女の貌を。

 

「……やっぱりわたしだめだ」

 

 届かないものを諦めた声で吐き出し、蘭はそのまま逃げるように病室を去っていった。

 名を呼ぶ事すら出来ず、コナンはその場にとどまっていた。

 

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