はじまる場所で

 

 

 

 

 

 正面玄関には燦々と陽が降り注ぐが、その横手、ベンチがぽつんと一つきりある場所は建物で遮られ、日陰になっていた。

 朝、コナンがボール片手にこっそり訪れ、すぐに水野に見つかり叱られた場所。

 今そこには、蘭の姿があった。

 新しく塗り替えられたばかりのベンチに腰をおろし、俯いてつま先をただ見つめていた。

 病室から逃げて病院から飛び出して、はっと我に返るが戻るに戻れず、家に帰る気にもなれず、あてもなく病院の周りをぐるりと回ってここに行き着いた。

 ここで頭を冷やそう。

 彼に謝る為に。

 片手で口元を押さえ凝った気持ちを吐き出したまさにその時、真横から足元に音もなくゴムボールが転がってきた。

 するすると転がり、つま先の真ん前でぴたりと止まったゴムボール。届かないでもなく、行き過ぎるでもなく。こんなに正確にコントロール出来るのは…彼しかいない。

 

「外は結構寒いでしょ」

 

 耳に優しく響く声音に蘭は奥歯を噛みしめた。

 

「……だからコナン君は…中に入ってなよ」

 

 足音が近付いてくる。蘭はボールを拾うと、正面で立ち止まった少年に差し出した。

 

「蘭姉ちゃんも一緒に行こうよ」

 

 ボールを受け取ると、いまだ顔を伏せたままの蘭に右手を差し伸べ、コナンは一歩進み出た。

 

「……もう少し頭冷やしてから行くわ」

 

 まだ顔が見られない。顔を見られたくない。

 今は『蘭姉ちゃん』でもない『蘭』でもない。では何だろう。これは何と呼ぶんだろう。

 

「じゃあボクもここにいようっと」

 

 そう言って隣に座ったコナンに頭の芯がかっと熱くなる。

 

「寒いからコナン君は中に入っててよ」

「蘭姉ちゃんが編んでくれたマフラー、すごくあったかいから平気だよ」

 ちょっと怨念こもってそうだけど

 

 青と緑の入り混じる柔らかいマフラーの端をかるく振って、コナンは横顔ににっこり笑いかけた。退院の日、寒いといけないからと蘭が荷物に入れていてくれたものだ。

 このマフラーは本当にあたたかい。

 どんなものより驚くほどに。

 

「だめだよ、怪我してるのに!」

 

 俯いたまま、少し焦れた声で蘭は言った。

 

「平気だもん」

 

 コナンも頑として譲らなかった。

 蘭は苛々した様子で立ち上がると、顔を見ぬままコナンの手を引っ張った。

 

「……ごめん、こっちもまだ少し痛いんだ」

 

 つらそうな子供の声にびくっと動きを止め、蘭はその場に立ち尽くした。

 そうだ…刺された右肩も、まだ完治したとは言い難い状態なのだった。

 

「こ…コナン君……私……」

 

 正面を向いてはいるが、どこにも行けないと立ちすくむ蘭を見上げ、コナンはしっかり手を握りしめた。

 

「大丈夫。ほら行こう、蘭姉ちゃん」

 

 先に立ち、コナンは手を引いて歩き出した。

 一瞬戸惑いを見せたが、ぎこちないながらも蘭は歩き出した。

 大丈夫の一言が、蘭の背中を優しく押した。

 正面玄関から中に入る。

 人でごった返す総合受付を通り過ぎる。

 いくつかの診察室を通り過ぎる。

 渡り廊下を通り過ぎる。

 小児病棟に入り、プレイルームでボールを返す。

 そして、顔馴染みの子供たちがいる六人部屋の病室に、二人は戻った。

 また子供たちがらんねえちゃん、彼女だと口々に声を上げるが、コナンは笑顔で人差し指を口元に当てて彼らにお願いした。

 途端に五人は同じように人差し指を口元に当てると、互いに静かに静かに言い合って、病室に静寂を作り出した。

 子供たちはいつだって無邪気に無制限に力尽きるまで騒ぎ立てるものだが、時にこうして人の…友達の気持ちを敏感に察し、控える事が出来る。

 

「ありがとね」

 

 コナンは優しく彼らに礼を言うと、半分閉めたカーテンを回り込んで自分のベッドに戻った。

 所在なげに立ち尽くす蘭を見上げ、座ってと促す。

 右へ左へ視線を移し散々ためらった末、蘭は小さく頷くと椅子に腰を下ろした。

 

「蘭姉ちゃん、もう一回おまじないさせて」

 

 コナンは人差し指を立てて頼むと、ベッドに乗り上げた。

 蘭は答えず、強い顔で俯くばかりだが、気にせず続ける。

 

「昨日はちょっと効果出なくてゴメンね。今日は頑張るから……蘭姉ちゃん」

「ううん…ちゃんと効果はあったよ……ホントだよ」

 

 少し涙に潤んだ声で、しかし決して涙は零さず、蘭は悲痛な声で呟いた。

 

「じゃあ、今日も効果がありますように」

 

 コナンはそっと前髪をかき上げると、抱きしめるようにして額に唇を寄せた。

 蘭はぎゅっと目を閉じ、抱擁に身を委ねた。

 背に回ったコナンの左の手首には、いつの間にか腕時計がぶら下がっていた。ギプスのせいで金具が閉じられず、開いたままになっている。コナンはそれを右手で掴むと、照準を開き、額への接吻と同時に麻酔針を発射させた。

 

「!…」

 

 腕の中女の身体がぴくりと跳ねる。

 

「……ごめんな」

 

 意識を失いもたれかかる蘭を優しく抱きとめ、新一は苦しげにうめいた。

 向かい合って顔を覗き込んだ時、そこに色濃く浮かぶ疲れの色を見てとった。

 胸が張り裂けそうだった。

 誰がこんなに追い詰めたんだ。

 誰が彼女をこんな目に。

 自分の一番大切な人を。

 一体誰が。

 

「ごめんな…ごめんな…ごめんな……」

 

 まだ渡す事の出来ないひと言をこんな時だけ繰り返す卑怯な自分を恥じながら、新一は何度も何度も謝った。

 

 

 

 蘭がぼんやりと目を覚ました時、まず聞こえてきたのはコナンの優しい語りだった。

 

 ――ついに、真っ黒な夜は終わりを迎えたのです

 ――ああ、なんて綺麗な夜明けでしょう

 ――二人は手を取り合って、太陽が昇ってくるのをずっと見上げていました

 ――よかったね よかったね

 ――二人は口々に言い合って、綺麗な青空を見上げていました

 

「――おしまい」

 

 物語はここで終わるけれども、二人の冒険はまだまだ続くと優しく含んだひと言に、子供たちはその小さな手を叩き大団円を喜んだ。

 口ぐちに感想を言い合う子供たちの声を聞きながら、蘭は身を起こした。

 そこではじめて、コナンのベッドに横になっていた事に気付く。

 

 あれ…なんでわたし

 

 軽い混乱に見舞われ左右を見回した時、また、気付く。

 ここ数日なかった熟睡の後の軽やかさが、身体の隅々にまで行きわたっている事に。

 半ば無意識に額を押さえ、深く呼吸した時、カーテンの端から静かにコナンが姿を現した。

 

「おはよう……って、夜だけど」

 

 おかしな言い回しにえへへと照れ笑いして、コナンはベッド脇に歩み寄った。

 

「静かに読んでたんだけど…うるさくなかった?」

「……ううん」

 

「蘭姉ちゃんすっきりした顔してる。おまじない利いたんだね、よかった!」

 

 喜ぶ眼差しから慌てて顔を背け、蘭は恥じ入るように俯いた。

 

「あのね…わたし……」

 

 そこではたと目を見開く。いつまでもベッドを占領しているのが申し訳なくなり、蘭は逃げるように反対側に降りると、何事か言いかけた。そこでふとシーツのよじれに気付き、慌てて手で撫でる。

 

「ごめんね…わたし……」

 

 何に謝っているのか自分でもよく分からなくなっていた。

 ただ、深い眠りからの目覚めがとても心地良く、重く積もっていた体内の濁ったものから解放された喜びがあった。

 そんな蘭ににっこり笑いかけ、コナンは棚の置時計を指差した。

 

「もうすぐ晩ご飯の時間なんだ。蘭姉ちゃんもおうちに帰って、ゆっくりご飯食べるといいよ」

 

 蘭は小さく驚いて時計を振り返り、おずおずとコナンに目を戻すと、頷く風に俯いた。

 

「外まで送ってくね」

「寒いから、だめよ」

 

 蘭はすぐさま首を振った。

 ようやく、意味のある言葉が口から出た。

 

「寒いからだめ。ここでいいよ」

「ボクは大丈夫。蘭姉ちゃんのくれたマフラー、本当にあったかいんだから」

 

 誇らしげに言って、コナンはラックからマフラーを取り出し首に巻いた。

 

「ほら、これでばっちりだよ。さあ行こう」

 

 準備出来たと笑いかけ、蘭に手を差し伸べる。

 

「じゃあ、玄関の内側まででいいからね」

 

 蘭は無理やりに笑顔を浮かべると、コナンの手を取り歩き出した。

 

「うん」

 

 コナンは頷き、並んで歩き出す。今にも泣き出しそうに歪んだ顔に浮かぶ笑みには触れず、ついていく。

 診察時間終了後、正面玄関に代わって出入り口になる通用口にたどり着くまで、二人が言葉を交わす事はなかった。

 無言のまま、あっという間にその距離を歩き終える。

 

「じゃあここまでね」

 

 コナンを玄関の入り口に立ち止まらせ、蘭は手をほどこうとした。

 対してコナンは、まだしっかり握りしめていた。

 小さく驚く蘭を見上げ、口を開く。

 

「十二時になったら電話するから、蘭姉ちゃん…悪いけど起きててくれる?」

「え?…夜?」

 

「うん、そう。電話する」

 

 電話する…その一言に胸が騒いだ。突き付けられる予感もあったが、声が聞ける事に純粋に、喜びも感じていた。

 怖さ、嬉しさ…感情がないまぜになる。

 

「じゃあ、後でね。車に気を付けて帰ってね」

 

 コナンはするりと手をほどくと、その手を振って、病室に戻っていった。

 角を曲がり、その小さな姿が見えなくなっても、しばらく蘭はその場に立って見送っていた。

 

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