はじまる場所で

 

 

 

 

 

 次に目が覚めた時、既に外は暗くなり始めていた。

 意地でも治すぞと無理やりにでも眠っていたせいで背中が少々痛むほかは、痛みらしい痛みはなかった。

 悪寒も消えた。手の痛みも引いた。自己判断での体温も平熱に下がったようで、すっかり軽くなった身体にコナンは飛び上がらんばかりに喜んだ。せめてもの代わりと右手を小さく掲げると、その拍子に腹の虫が小さく鳴いた。

 閉めてあったカーテンに感謝し、一人赤面する。

 と、その端がそろりと開かれた。

 

「……蘭姉ちゃん!」

 

 おずおずと様子をうかがう顔を見た途端、自分のものかとびっくりするほど弾んだ声が唇から飛び出した。

 

「ちょっと遅くなっちゃった、ごめんね」

 

 片手で謝り、蘭は済まなそうに微苦笑した。

 朝からずっと、逢いたかった人。

 

「ううん、雨は大丈夫? 濡れなかった?」

「うん、もうすっかり晴れたよ。コナン君こそ、かわりなかった?」

 

「うん! ほら、この通り元気だよ」

「お父さんも言ってた。良かった」

 

 蘭は学生鞄をベッドの下に置くと、間近で笑いかけた。

 

「お父さん、お昼に来たってね」

「うん、ちょうどお昼ご飯の時に来てくれたんだ。おじさんにも蘭姉ちゃんにも、心配かけちゃったね……」

 

「うん…何かちょっと気になっちゃって。でも、思い過ごしだったみたいね」

「ちょっとびっくりしたかな」

 

「ふふ。ご飯食べる時、落ち着かなかったでしょ」

「そんな事ないよ」

 

「つまみ食いとか、されなかった?」

 

 それは大丈夫だったよ…彼女との他愛ない会話を心から噛みしめ、コナンは大きく息を吸った。

 

「今ね、ちょうど夕食配ってるところだから、持ってきてあげるね」

「ありがとう」

 

 さっと向かう蘭の背中を見ながら、コナンはほっとため息をついた。約束を守ってくれた小五郎に心の中何度も感謝する。

 

「お待たせ。へえ、こんな風になってるんだね。美味しそうね」

 

 朗らかな声と共にトレイがテーブルに置かれる。

 それを見てコナンはぎくりと頬を強張らせた。

 トレイの端に乗っている小さなカッププリンは、昼食で出たものだ。間違いない。それが五つ、乗っている。更に金色の紙で折られたメダルが一つ。真ん中に大きく、たどたどしい字で『おねつがんばれ ゆうた』と書かれてあった。

 

「あたたかいうちに召し上がれ」

 

 蘭はテーブルの位置を調整すると、ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろした。

 コナンはトレイを見つめたまま、動けずにいた。

 昼食で出たはずのカッププリンが五つある理由も、一生懸命折られたメダルのメッセージが乗っている理由も、すべて容易に推測出来た。

 

「あ、あのさ……」

 

 コナンは俯いた姿勢のまま絞り出すように言った。

 

「なあに?」

「あの、……」

 

 ああ、顔を見る事すら出来ない。

 

「……いいよ。気にしなくていいよ。皆の為に頑張ったんだから」

 

 優しく包み込む声音に、コナンは更に顔を伏せた。

 

「今日は本当はね、もう少し前に、病院についてたの」

 

 小さく笑いかけ、蘭は説明を始めた。

 

「今日もプレイルームにいるかなって思って覗いた時、その『ゆうた』君に呼び止められたの。それで……今日はコナン君朝からお熱で寝ているから、皆でプリン上げたら元気になるかもしれない…お母さんに頼んで皆の分のプリン冷蔵庫に冷やしてもらってるから、それ食べて早く元気になって、また遊んでね……って」

 

 蘭はそっと金色のメダルを持ち上げると、慈しむようにコナンを見つめた。

 

「後で皆に、お礼言わないとね」

「お……怒らないの?」

 

 下を向いたまま恐る恐る尋ねる。

 

「なにを?」

「ウソ……ついた事」

 

「あら、私が怒ったらコナン君、退院が最低でも半年は先に伸びるわよ」

 

 茶化して、蘭はふふと笑った。

 

「もうとっくに、ウソと隠し事のかたまりでしょ」

 

 いたずらっ子の声で続ける。

 返す言葉もない。コナンは俯いたまま微かに頷いた。

 

「……まったく、私を心配させない為にお父さんとグルになって…でも失敗しちゃって。コナン君もまだまだね」

「ごめん…本当に……お、おじさんは悪くないからね。ボクが、その……」

 

 苦しそうにもれたコナンの声を、蘭はゆっくりと首を振って打ち消した。

 

「それがコナン…君だもんね」

 分かってるから…いいよ

 

 女の赦す声を、コナンは目を閉じて受け取った。

 

「ごめん……ありがとう」

「許してあげるから、久しぶりにやらせて」

 

 コナンは目を瞬かせながら顔を上げた。

 

「へ……何を?」

 

 聞き返すコナンににこにこ笑いながら、蘭はトレイのスプーンを手に取った。

 

「え……!」

 

 素っ頓狂な声を楽しげに聞きながらベッドに椅子を寄せ、左手に飯椀を持つ。

 

「え、いや…ちょ、蘭ねえちゃ……いい、いい!」

 

 蘭がにじり寄る分だけ後じさり、コナンは必死の形相で手を振った。

 

「ほらほら、後ろ落ちちゃうよ」

 危ないあぶない!

 

 コナンは慌てて振り返り目を戻し、たじたじといった様子で頬を引き攣らせた。

 

「あったかい内食べよ、コナン君」

 

 満面の笑みでひと口分差し出す蘭に、この世の終わりと言わんばかりの顔でコナンは天井を仰ぎ見た。

 

 嗚呼また…この女は

 

「コナン君てば!」

 

 頑として譲らない女にとうとう根負けし、コナンは恥ずかしさに軋む口をどうにかこじ開けた。

 蘭は嬉しそうに食べさせた。

 

「はい……次は何にする?」

 

 悲喜こもごも…渦巻く感情に泣きそうになりながら飯を噛みしめ、コナンは弱々しくおひたしの器を指差した。

 

 

 

「はい……よく食べました!」

 

 五つ目のカッププリンを食べさせ、蘭はご満悦でコナンの頭を撫でた。

 一方のコナンは、すっかり疲弊しきった様子で肩を上下させていた。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 手を合わせて弱々しく呟く。正直何を食べたか、どんな味だったか何一つ覚えていない。献立すら、おぼろげにも浮かんできやしない。それでも、後から思い出せばこれは甘く楽しい記憶の一つになるだろう。それだけは間違いないと、コナンは心に刻んだ。たとえ今は苦行だったとしても。

 

「じゃあ戻してくるね」

 

 蘭の背中を見送りながら、コナンは心底ほっとした様子で息を吐いた。

 

 ああ…熱がぶり返しそうだ

 

 冗談交じりに小さく笑う。

 

「そうだコナン君、お水買ってきたんだ。飲むでしょ」

 

 戻ってきた蘭は、鞄からボトルを一本取り出しテーブルに置いた。

 

「蓋、開けてあげるね」

「ありがとう」

 

 はいどうぞと差し出されたボトルを受け取り、コナンはひと口飲み込んだ。

 テーブルに戻し、横に置かれた蓋を片手で軽く閉めながら静かに告げる。

 

「本当に、ごめんね……蘭姉ちゃん」

 

 心配かけた事を詫び、嘘を吐いた事を詫び、見舞いに来る事の負担を詫びる。

 蘭は黙ったまま、コナンの左手にそっと触れた。動かして痛い思いをさせてはいけないと、少し身を乗り出して両手で包む。

 

「早く、どっちも取れるといいね」

 

 薬指と小指の先がほんの少しのぞくだけの左手をギプスの上から静かに撫で、蘭は願いを込めて囁いた。

 

「うん……」

 

 申し訳なさに、コナンは横目でちらりと女をかすめ見た。しかしすぐにはっと向き直る。照明のせいか、昨日よりもくっきりと、疲れがその顔に浮かんで見えた。思わずぎょっとするほどに。

「蘭姉ちゃん……寝てないの?」

 上ずった声でコナンが訊く。

 

「え、そんな事ないよ。なんで?」

 

 目元に触れようとするコナンの手からさりげなく身を引き、蘭は首を振った。

 

「ごめん…ボク…自分の事ばっかりで……」

 

 コナンはそんな己を激しく悔いた。

 

「怪我人なんだから、今は自分の事ばっかりでいいのよ。私は大丈夫だから」

 

 深い後悔に陥るコナンへと笑いかけ、蘭はもう一度大丈夫と口にした。

 

「正直に言うと…ちょっと無理してるかな。私こそ心配させてゴメンね」

 

 コナンは眉根を寄せた顔で首を振った。

 

「でも本当に、ちょっとだけだから。夜だってちゃんと寝てるし、ご飯も、三食きちんと食べてるわよ」

「うん……」

 

「だから、そんな顔しないで。コナン君は自分の事だけ考えて、無理しないで頑張って。私も頑張るから」

「蘭姉ちゃんも、無理しないで頑張って」

 

「ありがとう。じゃあ……おまじないしてもらおうかな」

 

 そう言って蘭は自分の額を指差した。

 途端にコナンはぎくりと顔を強張らせた。しかしすぐに気を取り直し、ためらいつつも膝でにじり寄ると、身を乗り出して待ち構える蘭の額にそっと口付けた。

 

「……早く…元気になりますように」

 

 心から絞り出し、コナンは低く呟いた。

 

「ありがと……これで元気百倍ね!」

 

 柔らかく咲き零れる蘭の笑顔を祈るように見つめ、そうであってほしいと頷く。

 

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