はじまる場所で

 

 

 

 

 

 その日は朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。

 言い付けを守らず三日続けて無理をしたのがたたったのか、コナンは起床時間を迎えてもベッドから起き上がれずにいた。

 体温計に表示された数字を見た看護師の眉のひそめ具合から察するに、あまり良い状態ではないようだ。

 それを見てしまったせいか、全身を苛む嫌な悪寒が殊更に強まった気がした。腕の傷と、折れた指がきりきりと痛むのを歯噛みしてこらえ、コナンは細く息を吐いた。

 情けなくも霞む目で壁のカレンダーを見やり、日付と曜日を確認する。今日は蘭は…部活のある日だ。とすると見舞いにやってくるのは。カレンダーから時計へと目を移し、それまでに少しでも症状が良くなっているよう祈る。

 

「今日は一日、安静にしてようね」

 

 点滴を調整しながら、看護師がそう告げる。コナンは小さく頷いた。彼女はこの病室を担当する一人で、昨日自分を叱った人物だ。

 

「皆を楽しませる為に、ちょっと頑張りすぎちゃったね」

 

 時に容赦なく怒号を飛ばすが、細かい事にもよく目を配り、一人ひとりにこうして優しく声をかけ、励まし、慰めるところから、子供たちに人気があった。声をかける際、子供たちを怖がらせないよう『はーい、水野のお姉さんが来ましたよ』と少しおどけて名乗るせいか、他の病室の子供たちからも、水野さん、水野のお姉さん、と慕われていた。

 

「後で解熱剤持ってきてあげるからね」

「水野さん…ごめんなさい」

 

 手を煩わせてしまう罪悪感から、コナンはかすれた声で謝罪した。

 

「気にしない気にしない…って言ったら婦長に怒られちゃうから内緒ね」

 

 人差し指を立てしーっとおどける水野に小さく笑う。

 

「傷が痛むでしょ。熱のせいだからしょうがないんだけどね……」

 

 どうにもしてやれない歯痒さに水野は顔をしかめた。

 

「ちょっとだから大丈夫だよ……」

「コナン君我慢強いからなー」

 

 感心した様子で水野は言った。この子は、驚くほど我慢強い。処置室で点滴や血液採取、ガーゼ交換の際、どんなに気の強い子でも泣いてしまうもので、大抵は絶叫したり、嫌がって暴れたりと心痛む辛い場面の連続だが、彼のそうした姿は一度も見た事がない。

 痛がる素振りは見せるのだが、きつく握った拳と歯噛みで耐え抜き、泣き言一つこぼさない。そして処置が終わった後は、礼儀正しく頭を下げる。

 子供らしくない子供だが…毎日見舞いに来る高校生の姉の前では、年相応に甘えている少し不思議な子。

 

「ねえねえ、コナン君、どうしたの?」

「どこか痛い痛いなの?」

 

 いつもならとっくに歩き回る姿を見る時間なのに、いまだ起きてこないコナンが心配になったのか、同室の子供たちが数人、ベッドの脇に集まってきた。

 

「ねえねえ、みずのさん」

 

 その内の一人にスカートを引っ張られ、水野は屈んで子供たちに答えた。

 

「今日はコナン君ね、お熱が出ちゃったから、一日お休みなの」

 

 大丈夫なの、いつ治る、お薬飲んだ…途端に子供たちは口々に言った。

 ベッドの上でそれを聞いていたコナンは、渡した以上に返ってきた優しさに思わず笑みを浮かべた。

 入院して二日目の夜、カーテン越しに聞こえてきた同室の子供のしくしく泣く声に、蘭が重なったからだと思い出す。

 昼間は、子供たち同士で遊ぶ声を煩わしいと感じていた。負った怪我のせいで体力が低下し、疲れやすくなっていたからだろう。見舞いに来た母親にはしゃぐあまり、金切り声を上げる子供たちに打ちのめされ、元太たちの見舞いも、正直嬉しさよりも負担に感じる方が大きかった。

 それが、蘭の笑顔一つで救われた。思い出したのだ。

 だから与えた。

 結果こうして、無茶の代償を負う羽目になったが、母親を恋しがって夜にしくしく泣く子供がいなくなったのを思えばたやすい。

 蘭なら分かってくれるはず…と甘えたい。

 コナンは鈍く痛む左手を抱え、毛布の中身体を丸めた。

 夕方になれば来てくれる愛しい女の顔を思い浮かべた途端、情けなくも寂しさが募った。今すぐ逢いたいと心を占める願いに笑って目を閉じ、コナンはしゃくり上げた。

 

 

 

 昼時を迎え、病室があちこちにわかに騒がしくなる。

 午前中、手の痛みと戦いながらうつらうつらと過ごしていたコナンは、食事の時間にはしゃぐ子供たちの声を聞いた途端自分もはたと空腹を自覚し、苦笑いを浮かべた。腹が減るくらいなら心配はいらないだろう。

 朝、早く治す為にと無理やりにでも食べたのが良かったのか、気付けば手の痛みもすっかり弱まっていた。熱はまだ残っているようだが、この分なら夕方までには症状も収まるはずだ。

 ほっとして、少し苦労しながら身体を起こした時、カーテンの向こうから小五郎が姿を現した。

 

「ほら、メシだぞ……」

 

 来た事に。トレイを運んでくれた事に。この上もないほど目を見開く。

 

「おじさん……あ…ありがとう」

 

 少々乱暴に置かれたテーブルの昼食を呆然と見つめ、コナンは礼を言った。

 

「蘭の奴がな、どーしても気になるから見てきてくれって、うるさく電話してきてな……」

 しょうがないから、この雨の中見に来てやったんだ

 

 あくび交じりに説明し、小五郎は小脇に挟んだ競馬新聞を手にパイプ椅子に腰かけた。

 

「蘭姉ちゃんが……?」

 

 コナンは目を瞬いた。逢いたいと願った声が届いた、聞かれた…複雑な喜びに驚きが抜けきらない。知らず笑みが込み上げた。

 

「なんか予感がしたんだろうな。今看護婦さんに聞いたんだが、オメー、今朝熱出したんだってな」

「……うん、そうなんだ」

 

「……んで?」

 

 小五郎はぶっきらぼうにコナンの額に手を伸ばすと、熱を測った。

 

「はーん……ま、これくらいなら夕方には下がるだろ」

 

 手を離す際、わざとくしゃくしゃと髪を撫でてコナンに不機嫌そうな顔をさせ、昼食のトレイに目を向ける。

 

「結構美味そうじゃねえか。へえ、プリンもついてんのか。食欲はあるんだろ?」

「うん、大丈夫だよ」

 

「朝は食ったのか?」

 

 食べられたと、もう一度コナンは頷いた。

 

「そうか…じゃ昼もしっかり食え。見届けねーと、蘭から蹴りが飛んでくるかもしれねぇからな……」

 

 まったく面倒な事を…ぶつぶつと零しながら競馬新聞を開く。そうしながら小五郎の目は、コナンの様子をじっと見ていた。

 もちろん、真っ向から見るなんて素直な事はしない。あくまで目線は新聞の真ん中だ。

 

「……おじさん、お昼ご飯は?」

「あん? オメーが食い終わったら、帰って何か食うよ。蘭に急かされたせいで、時間なかったからな」

 

「あ、じゃあボク、すぐ食べ終わるから」

「バーロォ! 食事はよく噛んで食えって、いつも言ってるだろ」

 

 いつ言ったよ…心の中で苦笑いを一つ零し、すぐに感謝に置き換えて、コナンはそっと礼を言った。

 

「俺の事はいいから、しっかり食え」

「うん。いただきます」

 

 コナンは手を合わせた。

 片方はギプスに覆われた手だ。子供の小さな手が、仰々しいギプスに覆われているのは何とも痛々しく心を刺した。それを目の端でちらりと見やり、小五郎は口を開いた。

 

「……手の方はどうだ」

 

 新聞に顔を向けたまま尋ねる小五郎にしばし逡巡する。

 

「痛むのか?」

 

 新聞をのけ、小五郎がまっすぐ見つめる。

 

「うん、あの……今日は熱が出ちゃったから、それで…ちょっとだけ」

 

 今更隠しても無駄だろうと、コナンは正直に告げた。

 と、小五郎の手がコナンの左手に伸びた。

 

「結構ひでぇ怪我だったからな……」

 

 いつもの無遠慮な動作とは違ういたわる触れ方にコナンは小さく息を飲んだ。

 

「跡も残るって話だしな……」

 

 静かに手を離し、小五郎は椅子に深くもたれた。

 

「でも…でもおじさん、この前も言ったけど、ボクはそんなのちっとも気にしてないから、蘭姉ちゃんにも……」

「オメーの気持ちは、分かるけどよ…そうは言ってもなぁ……」

 

 蘭には蘭の思いがある。

 

「……うん」

 

 それはコナンも分かっていた。

 

「じゃあせめて…今日ボクが熱出した事は、内緒にしててくれる?」

「それはオメーの頑張り次第だな。だから、ちゃんとメシ、食え」

 

「……うん」

「食いにくかったら、手伝ってやるぞ」

 

 ばさばさっと新聞をたたみ、小五郎は張り切って身を乗り出した。半分は嫌がらせ、もう半分は。

 

「だ、大丈夫だよ、右手は使えるから!」

 

 コナンは慌てて箸を取った。

 そうかぁ…どこか楽しそうに残念がり、姿勢を戻すと小五郎は新聞を広げた。

 

「オメーが元気になりゃあ、蘭も元気になるから。ま…無理はしねーで頑張れよ」

 

 新聞越しのぞんざいな物言いに小さく頭を下げ、コナンは食事を口に運んだ。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「お、全部食えたな。えらいえらい」

 

 空になった器に頷き、小五郎はまたくしゃくしゃとコナンの髪を撫でた。コナンもまた半眼になって乾いた笑いをもらした。

 

「食うもんも食ったし、後は静かに寝てりゃ治るよ」

 

 励ます小五郎をありがたく見上げ、コナンは一つ頷いた。

 

「俺は内緒にしといてやるから」

「ありがとう、おじさん!」

 

「オメーが素直だとケツがかゆくなるな……」

 

 大げさに尻をかいて茶化し、小五郎はトレイを戻しに一旦病室を出た。

 ふと窓の外を見ると、雨はすっかり上がったようだった。

 

「んじゃ、帰ってメシでも食うかな」

 

 テーブルに置いた新聞を小脇に挟むと、小五郎は退室を口にした。

 

「おじさん、ホントにありがとう」

「静かに寝てりゃ治るから、心配すんな」

 

「うん」

「蘭には、元気だったって連絡しといてやるから、ちゃんと元気になれよ」

 

「うん、もちろん!」

「もし蘭が暗い顔で帰ってきたら、タダじゃおかねーからな」

 

「そんな事、絶対……」

「オメーに限って、ねえよな」

 

 分かってると片手を上げ、小五郎は帰っていった。

 コナンも手を上げ、後ろ姿を見送った。

 

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