はじまる場所で

 

 

 

 

 

 翌日、総合受付で江戸川コナンの病室を聞いた蘭は、踏み入れた小児病棟のカラフルな造りに驚きの声を上げた。

 病院と言えば素っ気ない淡色の壁や天井、白く寒々しいベッドが思い浮かぶが、それらとは全く違っていた。病室一つひとつのドアは明るいグリーンに塗られ、床は優しいクリーム色をしていた。病棟の中ほどには、入院している子供たちが退屈しないよう、また病院という特殊な環境に不安にならないよう、積み木や絵本などで遊べる広いプレイルームがあった。

 ちらりとのぞくと、数人の子供たちが思い思いに楽しんでいた。

 微笑ましい光景に頬が緩むが、同時に、何らかの病気や怪我で入院している小さな子供たちに少し胸が痛んだ。

 みんな早く元気になりますように…心の中で切に願い、蘭はプレイルームを後にした。

 目指す病室はもうすぐと廊下を進んでいると、少し先にある処置室から、コナンがひょっこりと姿を現した。

 お互い同時にあっと小さく驚く。

 そして同時に、にっこりと笑い合う。

 双方、数歩の距離をもどかしく進んで合流し、まず蘭が驚きの声を上げた。

 

「もう、一人で歩けるんだ」

「うん、手の怪我だけだしね」

 

 そう言ってコナンは胸元まで持ち上げた左手を軽く動かした。

 

「あら……何か、書いてあるの?」

 

 左手をすっぽり包むギプスに目をやり、蘭は小首を傾げた。昨日は確かに白かったはずだが、今は縦横に何やら文字らしきものが書かれている。

 

「ああこれ、さっきまで元太たちが来ててさ」

 

 コナンは病室へと誘導しながら説明した。

 

「言い出したのは光彦なんだ」

 

 六人部屋の病室、窓際のベッドに腰掛けると、コナンはパイプ椅子をどうぞと指差した。

 腰を下ろす蘭に左手を差し出し、言葉を続ける。

 

「皆でひと言ずつ寄せ書きしましょう、って事で、こんなに書かれちゃったんだ」

 

 蘭はそろそろと手を添えると、一行ずつ目で追った。

 

 なおったらうな重はらいっぱい!

 コナン君がんばれ!

 早く治りますように!

 

「わあ……!」

 

 いくつか読み取って、蘭はきらきらと目を輝かせた。子供たちのまっすぐな思いがしようもなく眩しい。名前まで読まずとも、誰がどれを書いたのかすぐに分かって、とても楽しかった。そして嬉しかった。こんなにも愛されている彼が、たまらなく誇らしかった。

 

「そうしたら、後から事情聴取に来た高木刑事や佐藤刑事まで書き出しちゃって」

 

 この辺だったかな…右手を添え、少し苦労しながら腕を持ち上げてコナンは裏側も見せた。

 

「あら、トメさんのまで!」

 

 筆跡は高木のものから察するに、恐らく伝言を頼まれたのだろう。

 まったく、彼は、どこにでもファンが多い事。

 

「うん……」

 

 はにかむコナンを見やり、蘭はにっこりと口端を持ち上げた。

 

「こんなにたくさん励ましてもらって……良かったねコナン君」

 

 でも、と蘭は続けた。

 

「私も書きたかったな」

 

 もう隙間もないギプスを右から左からくるくると見回し、蘭は残念と小さく肩を竦めた。

 

「いや……ら、蘭姉ちゃんのは…もう……もらってるし」

 

 途端にそわそわと左右を見回し、コナンは真っ赤な顔で小さく額を指差した。

 コナンの照れる様につられるように蘭も頬を染め、そうだったねとぎこちなく目を逸らした。

 

「い、一番…元気出るよ」

「そ、そう言ってもらえると、私も嬉しいかな」

 

 その後はお互い照れてしまってうまく会話にならず、二言三言交わしてまた明日と別れた。

 

 

 

 入院三日目。蘭が見舞いに訪れた時、コナンは病室のベッドではなくプレイルームにいた。

 子供たちの遊ぶ様を見ながら通り過ぎ、病室へ行きかけて気付く。

 大きな窓の明るいプレイルームの奥、低い本棚の前に座っているのは、他でもないコナンだった。

 少し大きな眼鏡をかけた小学生が、就学前と思しき数人の男児や女児に囲まれ、絵本の読み聞かせをしている。その姿に蘭は小さく驚いた。

 皆大人しく座って、お兄ちゃんが読む絵本にじっと耳を傾けている。眺めていると自然と笑みがこぼれた。

 

 ――ようし、それじゃあ今度は僕がやってみるよ

 ――そういってマギは杖を振り上げました。

 ――えい!

 ――ぴかぴかぴか! たちまち空からまばゆい光が降り注ぎます……

 

 静かに優しく、丁寧に感情を込めて絵本を読み進めるコナンの声を聞きながら、蘭はおしまいにたどりつくまでじっと立って待っていた。

 やがて物語はクライマックスにさしかかり、子供たちは主人公に降りかかる苦境に固唾を飲んだ。

 みな身じろぎもせず聞き入っている。もちろん蘭もその一人だ。

 

 ――そう言い残して、ラッキードラゴンは空へと帰っていきました

 ――マギは、いつまでもいつまでも、手を振っていました

 

「――おしまい」

 

 最後の文字を読み上げ、コナンが顔を上げると、聞き入っていた子供たちはその小さな手を一生懸命叩いて喜んだ。

 

「ねえねえ、マギはそのあと、どうなったの? ラッキードラゴンは?」

「お兄ちゃん、次はこれ読んで!」

「それこないだ読んだ! こっちがいい!」

「やあだ、人形劇がいいー!」

「昨日のもう一回やって!」

 

 そして一斉に、口々に、次のお願いをせがむ。意見の衝突からけんかになりそうな子供たちを慌ててなだめ、弾みで倒れそうになる点滴の支柱を慌てて支え、てんやわんやになりながらコナンは順番にと次の子を指差した。

 

「すごい人気……」

 

 微笑ましい光景に蘭はくすくすと笑みを零した。

 小さな笑い声だったが、騒ぐ子供たちに遮られようとまさか彼が聞きもらす事はなく、コナンははっとなって顔を上げた。

 プレイルームの入口辺りでそっと手を振る蘭を見るや顔を赤くし、お願いお願いとまとわりつく子供たちにまた後でねと立ち上がる。が、そのまままっすぐ蘭の元へ行くにはためらわれ、どうしたものかとぎくしゃくと、行きつ戻りつを繰り返してコナンはやっとプレイルームを出た。

 

「みんな喜んでたね」

 

 良かったねと柔らかく続ける蘭の声に下を向いたままコナンは頷き、思い切って顔を上げえへへと笑った。

 

「コナン君の声優しいから、みんな聞き惚れてたよ」

「……やっぱり聞いてたよね」

 

 点滴の支柱を引っ張り足早に病室へ向かいながら、コナンは照れ臭そうに頭をかいた。

 

「この前私に聞かせてくれたお話も、とても優しかったしね」

 

 ベッドとパイプ椅子にそれぞれ向かい合って座り、コナンは口を開いた。

 

「さっきあそこにいたの、同じ病室の子たちなんだ。昨日、面会時間が終わってお母さんたちが帰った後、一人が泣き始めちゃって……」

 

 蘭は静かに頷き先を促した。

 

「そうしたら他の子も次々泣き出して、ちょっとした騒ぎになっちゃったんだ。ナースさんが来てくれたりしたんだけど、泣きやまなくて……それでしょうがないから、ダメで元々と思って『お話聞きたい子!』ってやったら、途端に皆泣きやんで集まってきたんだ。で、たまたま隣のベッドの子がクマとウサギのぬいぐるみ持ってたから、即席で人形劇やったら……」

 

 皆になつかれてしまった。

 

「入院生活って退屈だし、まだまだお父さんやお母さん恋しい子とかいっぱいだから、少しでも気が紛れたらいいかなって思ってさ」

 

 照れ隠しに足をぶらぶらと遊ばせ、コナンは言った。

 

「そう……コナン君、優しいね」

「いや…そんな事……」

 

「ううん、すごいよ」

 

 恥ずかしがる事ないのに…熱賛する蘭をちらちらとかすめ見て、コナンはありがとうと呟いた。

 

「自分だって寂しいのに、他の子たちを励ましてあげるなんて」

「そ!……それは言わないでよ」

 

 にこにこと見つめる彼女を横目に見やり、コナンは肩を落とした。やはりひと言でも彼女に言ったのが間違いだったか…いや、たとえどんな言葉を選ぼうと彼女には敵わないのだ。自由自在な彼女にまかせて、楽しむのが一番だろう。

 

「でも、あんまり頑張りすぎて疲れないようにね」

「ありがと。蘭姉ちゃんもね」

 

「うん、私は平気。コナン君がいなくて寂しいだけよ」

 

 さらりと放たれたひと言にコナンは唇を引き結んだ。それ『だけ』がどれほど彼女の心を占めているか、よく分かっている。

 

「うん……早く元気になるよ」

「無理はしないでね」

 

 蘭は向かい合ったコナンの小さな右手を両手に包むと、想いを込めて『待ってるよ』と綴った。

 

「ありがとね……蘭…姉ちゃん」

 

 恥ずかしそうに嬉しそうに見上げ、コナンは微笑した。

 

 

 

 一夜にして病室の人気者になったコナンは、次の日もプレイルームで蘭に目撃された。

 その時もやはり最初は蘭に気付かず、子供たちにせがまれてかゴムボールでのリフティングを披露していた。

 カラフルなゴムボールを数回膝の上で弾ませ、右に左にと移し替え、足の甲から膝、膝から胸へと器用に操る。

 左手を動かすと傷に障ってつらいのか、拍子拍子に小さく顔を歪ませるが、子供たちの歓声を受けながら華麗にリフティングを続ける姿は実に生き生きと輝いて見えた。

 本当なら、止めるべきなのだろう。

 手術をしてまだ四日目。腕に隙間なく包帯を巻かれ、手にはギプス、その上まだ点滴をぶら下げているとくれば、どこから見ても立派な怪我人だ。けれど、心底嬉しそうな笑顔を取り上げるなんて、蘭にはとても出来そうになかった。

 入院生活って退屈だし…眺めていると、昨日彼が言った言葉が頭を過ぎった。

 いたわりを込めて、蘭は見つめていた。

 と、誰かが横に並んだ。目を向けると、腰に手を当て今にも叱責を飛ばす一人の若いナースが立っていた。

 あっと思うと同時に、彼女は「コラ!」とひと声叫びを上げた。

 

「駄目でしょうコナン君! まだ運動はいけませんって、昨日もおとといも言ったでしょう!」

 

 凄まじい剣幕に子供たちが一斉に振り返る。

 当のコナンはすぐさまリフティングをやめ、ごめんなさいと頭を下げた。ボールを棚に片付け、振り返ってようやく、蘭に気付く。

 昨日絵本の読み聞かせを見られた時以上に驚き、しまったと口を開けた。

 その様子を、蘭はくすくす笑いながら見ていた。

 

 

 

 六人部屋の病室の窓際、ベッドに腰掛け、コナンはただでさえ小さい身を更に縮ませて蘭と向かい合っていた。

 学生鞄をベッドの下に置き、顔を上げた蘭は、その様子に思わす吹き出した。

 

「そんなに小さくならなくていいのに」

「でも、あの……蘭姉ちゃん、ナースさんに怒られたでしょ……?」

 

 先程自分を叱った看護師と会話中、何度も蘭が頭を下げていた姿を苦しく思い出し、コナンは今にも消え入る声でごめんなさいと呟いた。

 

「ああ、違うのよ。逆よコナン君」

「え……?」

 

「さっきの看護師さん、びっくりするくらい、コナン君の事褒めてたよ。ご飯の時とか、お薬の時間とか、ぐずる子供たちをなだめるのがとっても上手だから、看護師さん達みんな感謝してるって。だからあんまり叱らないであげてね、って、言われたくらいよ」

 

 だからそんなに小さくならなくていいと、蘭は優しく肩に手を置いた。

 

「本当に…コナン君はすごいね」

 

 正面のコナンを愛しく見つめながら、どこか遠くも眺め、蘭は頬を緩めた。

 不安がって泣く子供たちを、彼はどんな風に宥めているのだろう。見知らぬ誰かでも、心細い気持をどうにか拭ってやりたいと、懸命に心を砕く優しい彼に胸がいっぱいになる。

 

「いや…そんな……うん」

 

 コナンは照れ臭そうに忙しなく左右を見回し、何事か呟いた。恥ずかしさに視線を合わせられずにいたせいで、この時蘭が何を見ていたか気付かなかった。

 

「でも、ダメなものはダメだからね」

 看護師さんの言い付けを守らなかった分

 

 そう言って形ばかりの優しいげんこつをくれる蘭に『ごめんなさい』と素直に謝り、コナンは頭を下げた。

 

「はい、もうおしまい」

 

 だから顔を上げてと、蘭は微笑みかけた。

 気まずそうに口端を歪め、コナンはおずおずと目を上げた。

 数秒目を合わせてから、蘭はゆっくりベッドの周りを見回した。移動したばかりの時は何もなかった壁には、今、何枚かの絵や手紙が貼り付けられていた。元太や歩美たちが書いてくれたものだろう。元気いっぱいの字で、励ましの気持ちが綴られていた。眺めていると優しさに自然と涙が滲んできて、また誇らしい気持ちになった。

 

「そうだ、ご飯はもう、普通のになったの?」

「うん、もうお粥じゃなくて、普通のご飯だよ。今日のお昼はパンが出たんだ」

 

「そう、味はどう?」

「結構美味しいよ。見た目も綺麗で」

 

 かわいいイラストのついたマグカップには苦笑いが零れたが、楽しい食事で子供たちを励ましてくれる彼らの努力には頭が下がると、コナンは素直に絶賛した。

 

「おじさんと蘭姉ちゃんが食べたがってた流動食もね、とても美味しかったよ。食べさせてあげたかったな」

「そう、良かった。食べるのは遠慮したいけど……」

 

 ふふと笑い、安心したと胸を撫で下ろす蘭に心から感謝し、コナンは言った。

 

「蘭姉ちゃんの方は? ちゃんとご飯食べてる?」

「ご心配なく。この通り、元気でしょ」

 

 ほらと手を広げる蘭に笑って頷く。

 

「そうだね」

 

 でも…喉元まで出かかった言葉を、コナンは飲み込んだ。ただでさえ学校に家事に忙しい彼女の毎日に、自分の見舞いを重ねている。そのせいか、朗らかに笑う顔の隅に少し疲れが滲んで見えた。

 ここで大丈夫かと問えば、彼女はすぐさま大丈夫と返すだろう。

 無理をしないでと言っても、していないと答えるだろう。

 来なくていいとは言えない。自分が寂しいのを無しにしても、彼女は自らの意思でここに来ている。毎日、十分でも、自分に会う為にここに来ている。

 本当にありがたいと、感謝の言葉も見当たらない。

 彼女にこれ以上無理をさせない為にも、早く元気にならなければ。

 早く、日常に戻らなければ。

 

 そして一日も早く…工藤新一を彼女に。

 

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