はじまる場所で

 

 

 

 

 

 入院に必要な荷物を持って蘭が再び病室を訪ねた時、コナンは眠っていた。

 半分ほど引かれたカーテンの陰からそっとうかがい、眠っている事に気付いた蘭は、静かに荷物を下ろすと、静かに静かに椅子に腰かけた。

 それでも、最後の最後に力を抜いた時、しんとした個室には大きく響く小さな軋みが生じてしまい、蘭はぎくりと身を強張らせた。

 起こしてしまっていないかそろそろと確かめ、閉じられたままの目蓋にほっと息をつく。

 それからゆっくり、顔を眺める。

 昨日より朝より、幾分頬に赤みが戻って見えた。それでもまだ青白い顔に変わりはなく、この小さな身に負った重圧がどれほどのものか想像するほどに胸を締め付けた。

 ふと、視界の端に点滴のパックが映った。何気なく見上げた蘭は、ぽつぽつと落ちる滴をしばし数え、それからチューブをたどってコナンに目を戻した。手首のやや下辺り、テープで何重にも固定されている。蘭は思わず顔をしかめた。ほっそりした腕に刺さる点滴が痛々しく見え、また胸が苦しくなった。

 

「また…そんな顔して……」

 

 不意に聞こえてきた困ったような声にはっと目を瞬く。

 顔を向けると、早朝見た時よりずっとはっきりした表情でコナンが見上げていた。どこかからかうような、いたずらっ子の顔…新一の貌。

 

「あ…起こしてゴメン……」

 

 眼鏡を外しているせいもあって、蘭は小さく混乱した。

 

「……コナン君」

 

 呼びかけてようやく、二人…三人が確実になる。

 

「だってさ……」

 

 蘭は呟き、ためらいがちにコナンの腕に触れた。壊れ物を扱うようにそっと撫でさする。

 少しくすぐったい感触にコナンは口端を緩めた。

 

「そんなに大した怪我じゃないし、たんこぶとか擦り傷なんてすぐに治るから、そんな顔しないで、ね、蘭姉ちゃん」

「……でも」

 

 蘭の視線が、ちらりと左手に向かう。

 

「痛む……?」

 

 問いかけにコナンはギプスに固定された自分の左手に首を曲げ、蘭に目を戻して、にっと歯を見せた。

 

「ぜーんぜん。蘭姉ちゃんこそ、家に帰って、ちゃんと寝た? ご飯とかちゃんと食べた?」

 

 昼を過ぎたばかりの時計をちらと見やり、コナンは次々質問した。

 

「私の心配はいいよ!」

「よくないよ、蘭姉ちゃんはちょっと目を離すとすぐ無理するから、気を付けてやれよって言われてるんだ……新一兄ちゃんに」

 

 一瞬蘭の瞳が揺れた。

 

「ごめんね、私は大丈夫。心配かけてごめんね」

「そ、そんな、謝らなくていいから……」

 

 強張った顔で俯いた蘭に慌てて手を伸ばし、コナンは謝罪を口にした。

 

「コナン君に早く元気になってもらいたいから、無茶はしません」

 

 少し茶化すような物言いだったが、浮かんだ笑顔にひとまずほっとし、コナンは肩の力を抜いた。動揺の後の弛緩に安心したせいで、見落としがあった事に気付く余裕はなかった。

 

「コナン君は、お昼は?」

「うん……今日はまだ点滴だけだって」

 

「そうなんだ……」

「うん……」

 

 二人揃って、少し残念そうに点滴のパックを見上げる。

 

「早く、美味しーい流動食になるといいね」

「……蘭姉ちゃんまで」

 

 朗らかに笑う蘭をむくれた顔で横目に見つめ、コナンは唇を尖らせた。ちぇっと零し、しかしながら彼女の笑顔に弱い男はすぐに頬を緩めて、小さく笑った。

 

「明日には出るだろうから、蘭姉ちゃんにもごちそうするよ」

「え…私は遠慮しようかな……ほ、ほら、ちゃんと食べないとコナン君元気にならないし」

 

 今度は蘭がしどろもどろになる番だった。そしてまた二人一緒に楽しく笑う。

 

「あのさ、蘭姉ちゃん」

 

 ひとしきり笑った後、コナンは変わらぬ声で改めて名を呼んだ。

 

「……なあに?」

「本当に、気にしないでね」

 

 ちらりと左手を指し、コナンは続けた。

 

「蘭姉ちゃん、何でも気にしすぎちゃうから。本当に、違うからね」

 

 うまく言えないもどかしさに眉を寄せ、コナンは念を押した。

 

「うん。それは…分かってる」

「ごめんね」

 

「なんでコナン君が謝るのよ!」

「だってさ…蘭姉ちゃんならあのくらい簡単に避けられるのに、余計な手出ししてこんな事になっちゃったから……」

 

 自分の方こそ申し訳がないと、コナンは唇を引き結んだ。

 

「朝は、麻酔のせいでぼんやりしてたからうまく言えなかったけど、本当に何とも思ってないから、蘭姉ちゃんも……」

 

 願いを込めて見上げれば、蘭の強い瞳があった。内に秘めた力が鮮やかに輝いている。

 

「うん……分かった。コナン君が気にしないなら、私も気にしない。それにコナン君、言ってたもんね」

 

 朝の言葉を思い出す。

 自分もそこに気持ちを決着するべきなのだと言い聞かせるように言葉を綴り、コナンの額に手を差し伸べる。

 

「あ……」

 

 触れた手の優しさにコナンはどきりと胸を高鳴らせた。

「おまじない……いる?」

 恥ずかしそうに目を逸らし、蘭はおずおずと聞いた。

 

「……え?」

 

 一瞬何の事か分からず、コナンは間の抜けた声で目を瞬かせた。言葉は聞き取れたのだが、おまじないとは何なのか頭が追い付かない。遅れて理解するも『おまじない』とはあのおまじないの事かと、ようやく掴んだ言葉と意味に素っ頓狂な声を上げる。

 

「あの! あ……え?」

 

 どう返事すべきかおろおろしている間に、蘭の唇が額に押し当てられる。

 

「は…早く良くなりますように」

 

 ぽかんと見上げるコナンから目を逸らし、蘭は口早にそう言った。もっと優しく余裕をもってしたかったのに、直前で急に気恥ずかしくなり、ぶつけるように済ませてしまったのが悔やまれる。

 

「あ……うん」

 

 素っ気ない言葉を慌てて打ち消し、コナンはあらためて口を開いた。

 

「ありがとう……あ、すごい元気出てきた。やっぱり蘭姉ちゃんはすごいや」

「また、もう……よかった」

 

 穏やかに目を見合わせ、二人はくすぐったそうに笑った。

 

「……でもね、ホントだよ」

「なにが?」

 

「手術の後、蘭姉ちゃん、ずっと右手握ってくれてたでしょ」

「うん」

 

「あれのお陰で、ちっとも痛くないんだ。本当はもうしばらく痛み止めの点滴が必要になるんだけど、全然、痛くならないんだ。感覚がマヒしてるわけじゃなくて、痛くならないから、お医者さんもびっくりしてた……蘭姉ちゃんの、お陰だよ」

 だからやっぱり、蘭姉ちゃんはすごいよ

 

 手放しの称賛に頬を緩め、蘭は目を伏せた。何ともむず痒いが、それはとても心地良いものだった。

 

「そうだ、蘭姉ちゃん明日学校だよね。そろそろ帰って休んだ方がいいよ」

 

 思ってもない言葉に蘭は目を見開いた。彼が誰を、何を一番に考えているのかを今更ながら理解する。深い愛情に少し息が苦しくなった。

 

「ありがとね……コナン君」

「ううん、ボクの方こそ、蘭姉ちゃんにいっぱいお礼言わないといけないもん」

 

「いいのよ。荷物、ロッカーの中に入れておくね」

「うん。あ、明日から病室が大部屋に変わるってナースさんが言ってたから、来る時気を付けてね」

 

「分かったわ。じゃあ、また明日来るから」

 

 うんと頷くコナンをじっと見下ろし、蘭は言った。

 

「寂しがって泣かないようにね」

 

 少しからかうつもりの言葉だったが、口にした途端自分の方こそ寂しい気持ちに見舞われる。

 

「な!…べ、別に、そんな……」

「ええー、コナン君寂しくないの?」

 

 茶化す口調でごまかすが、彼の口からも引き出そうと蘭は少し躍起になった。

 

「だ、だって…ボク男の子だし……」

 

 そこまで言って、コナンは気まずそうに目を逸らした。いつかの一大決心がここぞとばかりに張り切って立ち上がるが、そこまでの泣き言など口に出来るかと意地が邪魔立てし、双方譲らぬ愚図つきにもごもごと呟きをもらす。

 一旦落ち着いて自分の心を見渡し、見つけた感情を、新一はぽつりと口にした。

 

「本当はちょっと、少し……――嫌だな」

 

 子供のそれとはかけ離れた眼差しで、コナンはじっと天井を見つめた。

 

「だ、だからさ!……明日も」

 

 かき消すように声を張り上げ、蘭に目を向ける。

 

「明日も……来てくれるの、待ってるね」

 

 少しどもりながらも、何とか気持ちを伝える。

 思いがけず現れた新一に優しく微笑み、コナンに笑いかけて、蘭は約束するわと頷いた。

 

「明日は部活もないから、学校終わったらすぐ来るわ」

「うん!」

 

「じゃあ、明日は大部屋でね」

 

 気を付けてね

 ゆっくり休んでね

 流動食楽しみだね

 蘭姉ちゃんに少し残しとく

 

 見送る方も去る方も、戸口のぎりぎりまで何気ない言葉を交わし、名残惜しそうに手を振り合った。

 

 

 

 夏に比べ格段に早い夕暮れの訪れを窓からぼんやり眺めていると、意外な見舞い客が現れた。

 物音に気付いてコナンが振り返ると、競馬新聞を小脇に小五郎が入ってくるところだった。

 あと一時間ほどで面会時間が終わる頃の事だ。

 ベッドの上に上体を起こして寄りかかった姿勢のまま、コナンはしばしぽかんと見つめた。

 

「もう起き上がってていいのか」

「……あ、うん。さっきナースさんに起こしてもらったんだ」

 

 小五郎はベッド脇に立つと、いつものごとくぶっきらぼうな視線でコナンを見下ろした。

 

「そうか…朝より元気そうだな」

 

 よかったなとぞんざいに付け加え、椅子に腰かける。

 

「食事は、明日からだってな」

 

 確認してきた事に小さく驚き、コナンは目を瞬かせながら頷いた。

 

「病院のメシは不味いってぇのが定番だが、ここのはそう悪くねえらしい。残さず食えよ」

 

 流動食だがな…続く言葉にコナンは苦々しく笑う。

 

「明日な、高木たちが、事情聴取で来たいって言ってんだが…どうだ?」

「うん、平気だよ」

 

「んじゃあ連絡しとく」

 

 一つ頷くと、小五郎は右手をコナンの頭に置いた。

 

「え……なに?」

 

 撫でるとは違った、何か探るような手つきにコナンは目を上に向けた。

 

「いやな、たんこぶなんてガキの頃以来こしらえてねえから、懐かしくなってよ。……おお、あったあった」

 

 見つけたと楽しげな声に半眼になる。

 

「痛いよおじさん……」

 

 思い切りしかめっ面になって不満を申し立てる。しかしふと気付けば、優しく撫でられていた。

「よく…蘭を助け出してくれたな。ありがとよ」

 不器用で優しい父親の声に喉が詰まる。

 

「た……助けられたのは…ボクの方だよ」

 

 少しつかえながらコナンは続けた。

 

「蘭姉ちゃん…ホントにすごいね」

「俺の自慢の娘だからな」

 

 穏やかな物言いが胸に優しく沁み込む。

 いひひとわざとらしく笑い、小五郎は胸ポケットから煙草を取り出した。すぐに気付き、しまったと顔をしかめる。

 

「……まあいいや。帰って吸うか」

 

 またポケットにしまい、椅子から立ち上がると、じゃあなと素っ気なく片手を上げ振り返らずに病室を出ていった。

 小脇の新聞も、煙草も、ひと言礼を述べる為の照れ隠しだとコナンが気付いたのは、消灯時間を迎えベッドに横になってからだった。

 右手でそろそろとたんこぶに触れ、まだかすかに腫れている頭に顔をしかめる。それから小さく笑って、コナンは目を閉じた。

 

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