はじまる場所で

 

 

 

 

 

 驚きのあまり怒りの形相で駆け寄る小五郎を、蘭はどこか夢見心地で見ていた。

 何があったのか問いただす声もほとんど聞き取れず、離れた場所では、小五郎によるものか、自分を厨房に監禁した二人と、もう一人の仲間の三人が警察に連行されていくまさにその瞬間が繰り広げられていたが、見えてはいても麻痺した頭では理解までしきれず、コナンを抱えたままただただ立ち尽くしていた。

 もしもこの時コナンが見る事が出来たなら、仲間の一人は庭園の手入れをしていた係員だと、気付いただろう。

 彼ら三人は、高瀬氏の殺害の他にホテルの爆破も目論んでいた。仕掛けられた爆弾は現在、処理班が撤去にあたっていた。

 コナンがトイレで聞いたように、男たちは二時間後の爆発でホテルも高瀬氏も消し去ろうとまさに一石二鳥を狙っていた。しかし手違いにより爆弾の一つが時間より早く爆発してしまった。また、何より、蘭とコナンが偶然にも彼らの会話を耳にした事が、被害を最小限に食い止めるきっかけとなった。

 しっかりしろと声をかけながら、小五郎が毛布を肩にかける。

 それでもまだ、蘭の心は遊離していた。ようやく外に出られたというのに、父親の声を聞いても、外の風を頬に受けても、中々現実に立ち返れずにいた。

 

「コナン君……」

 

 騒ぎにかき消されるほどもろい呟きに、蘭の腕の中小さな身体がぴくりと身じろいだ。

 

「もう……だいじょうぶだよ――蘭姉ちゃん」

 

 少し低い声が、ゆっくりと『大丈夫』を綴る。ひどく聞き取りづらかったが、その一言はしっかり蘭の耳に届いていた。

 それは合図だった。

 二人…三人の大切な合図。

 眠りから覚めたように目を瞬いて、蘭ははっきりと小五郎を見やった。

 

「お父さん……」

 

 心底ほっとした顔で小五郎は何度も頷いた。

 

「よく頑張ったな。さあコナンをこっちへ」

「高瀬さんは?」

 

「ああ、無事だ。お前らが電話してくれたお陰だ。犯人も捕まった。もう心配いらねえよ」

「よかった……」

 

 少し抵抗の残る腕で、蘭はコナンを引き渡した。

 小さな身体がストレッチャーに固定される。身体だけでなく頬にまでべっとりと血がこびりついていた。流れ出た命の分だけ顔は青白く痛ましさに胸を締め付ける有様だったが、それでもコナンの目は、しっかりと蘭を見つめていた。何でもないと語る微笑にどうしようもなく涙が滲んだ。

 

 大丈夫だよ

 

 そう動いた唇を読み取り、こらえきれず蘭はその場に泣き崩れた。

 

「蘭……」

 

 小五郎はすぐさま抱えてやった。

 

「よく頑張ったな」

 

 極度の緊張から解放され、ようやく安堵した娘を優しくいたわる。

 

「コナンに、付き添ってやれるか? 無理なら――」

「……平気、私行けるよ」

 

 蘭はぐいっと涙を拭うと、気丈にも立ちあがった。

 

「俺も後からすぐに行くから」

「うん」

 

 頷いてもう一度涙を拭うと、蘭は救急車の方へ小走りに駆けた。

 

 

 

 コナンが目を覚ました時、まず見えたのは小五郎の顔だった。

 ベッドの脇に置いたパイプ椅子に座り、腕を組んで眠っている横顔が見えた。

 それから、ベッドの周りを取り囲む淡色のカーテンが見えた。真上にある乳白色の天井も目に入る。

 そこでようやくコナンは、ここが病院だと認識した。

 自分が病院にいる理由を、ゆっくり思い出す。

 と、右手に、覚えのある熱を感じ取る。

 

 これは…確か……

 

 理解して、しゃくり上げるように息を吸った時、その音が耳に届いたのか小五郎がはたと目を開けた。

 そしてはたと目が合った。

 

「……目が覚めたか?」

「うん……」

 

 喉の奥で応えると、小五郎は椅子から立ち上がり大きく伸びをした。

 

「調子はどうだ?」

「……いいよ」

 

 コナンは笑おうと試みたが、どうもうまくいかない。顔だけでなく身体中が、泥のようにべったりと重くベッドに沈んでいる。

 

「まだ声に元気がねえな…まあ、じき麻酔も抜けるだろ」

 

 小五郎はベッドを足元から回り込み反対側に立つと、向かいのパイプ椅子に座っている人物…ベッドにもたれ眠っている蘭の横に立った。

 

「あ……待って」

 

 出ない声を何とか絞り出し、コナンは言った。

 肩に手をかけ、今にも揺り起そうとする小五郎を「いいよ」と引き止める。

 

「オメーの意識が戻ったら絶対起こすって約束で、無理やり寝かせたんだ。起こさなかったら、俺が蹴り食らう羽目になるんだよ……」

「でも蘭ねーちゃん…一度寝たら、中々起きないし……」

 

「……まあなぁ」

 

 それは理解していると、小五郎はうつ伏せた身体を起こして椅子にもたれさせてみた。

 すると意外にも蘭はぱっちりと目を開けた。

 

「……ウソ」

 

 これは驚いたと二人は揃って声を上げた。

 

「あ……――コナン君!」

 

 しばし呆けた顔で目を瞬いていた蘭だが、すぐにコナンに気付き、顔を覗き込んだ。

 

「うん……」

 

 コナンは笑おうとしてみた。さっきよりは、うまく動かせた気がする。

 

「よかった……良かった」

 

 喜ぶ蘭の言葉に合わせ、右手に感じていた覚えのある熱が更に力強くなる。

 負けじと握り返すが、頭で思うほど力は入らず、指先を少し動かせただけだった。まだどこかふわふわと夢見心地で、見るもの聞くもの今一つはっきりしない。

 ただ右手に感じる熱だけが、鮮やかに身体を包んでいる。

 

「良かったねコナン君……」

「心配かけて…ごめんね」

 

 すぐさま蘭は首を振った。その拍子にこらえていた涙が溢れ、一度零れてしまったのをきっかけに蘭はよかったねと繰り返しながら泣きじゃくった。

 

「蘭ねーちゃん…なかないで、ボクは大丈夫だから」

 

 おろおろしながらコナンは呼びかけた。

 

「泣いてないよ……」

 

 そう言いながら、蘭は顔を伏せたままぽろぽろと涙を零した。

 コナンの身でも、せめて抱きしめてやりたかったが、繋いだ手を握りしめるのが精一杯だった。少し自由が戻った手で、蘭の手を包み込む。

 

「……うん」

 

 応えて、蘭は頷いた。そこでようやく瞑っていた目を開き、傍のティッシュで涙を拭った。すんすんと小さく鼻を鳴らし、恥ずかしそうにコナンを見やって笑う。

 コナンも笑みを返した。

 

「それでな、コナン。左手……なんだがな」

 

 それまで脇で静かに控えていた小五郎が、言いにくそうに口を開いた。

 

「うん」

 

 コナンは目を瞬き、覚悟は出来ていると小五郎を見やった。

 

「腕の傷の方は、何箇所か縫ったがどれも浅いものだから、残らず綺麗に消える。手の方もな、出血はひどかったが、指もちゃんと五本残ってるし、骨折の度合いもそうひどくはないって話だ。ただ……」

 

 小五郎の目がちらと蘭を見やる。視線を受け、蘭は強い顔で唇を引き結んだ。

 しばしの逡巡の後、小五郎は低い声で言った。

 

「……こっちは、跡が残るそうだ」

「……ああ、そう」

 

 あっさりと、コナンは了承した。面食らう二人に軽く頷く。

 まだすっきりと頭が晴れていないせいもあるかもしれないが、小五郎の態度からもっとひどい状態を予想していたので、指が五本残っているなら何も問題はないと割り切れた。完治して、残った傷がどれほどのものか目にしたら考えも変わるかもしれないが、利き手ではないのだから、少々見てくれが悪くとも構わない。業務用の冷蔵庫に潰され、崩れた床の間から引き抜いたのだ、それくらいで済んだのは幸いとも言える。

 さっぱりした顔で横たわるコナンと正反対に、蘭は暗く俯いた。

 

「私のせいで…私が……」

 

 自分を責める蘭に、頭の芯がかっと熱くなるのをコナンは感じた。

 思わず遮るように叫ぶ。

 

「ちがうよ! 蘭ねーちゃんのおかげで、殺人を阻止できたし、ホテルの被害も、最小限ですんだんだよ。ねえ、おじさん」

 

 長く話すのは舌がもつれてまだ苦しかったが、コナンは懸命に想いを伝えた。願いを込めて小五郎に目配せする。

 果たして願い通り、小五郎は言葉を継いだ。

 

「ああ、そうだな。だからそう気に病むな」

 

 肩を叩く父親の手にためらいがちに頷き、蘭はちらりとコナンを見やった。

 

「だいじょうぶだよ……だから」

 お願いだから

 

 心を込めて、より強く手を握る。一度は力を失いほどけかけた蘭の手が、再び熱を込めて握り返すのを、コナンは安堵の笑みで受け取った。

 区切りの頃合いに小五郎が口を開く。

 

「……あとな、コナン」

 

 わずかに首を動かして見上げる。

 

「たんこぶ、出来てたぞ。二個も。それと打ち身であざが何箇所か」

 

 記憶をたどり、恐らく通風口でぶつけた分だろうと推測する。あちこちぶつけたのはぼんやりと覚えているが、たんこぶとは冴えない。苦笑いを一つ。

 

「怪我はそんなもんだ。ゆっくり休んで、早く治せよ」

「うん。……あ!」

 

 突然コナンは素っ頓狂な声を上げた。

 

「どした?」

「……ごうかディナー」

 ダメにしてごめんなさい

 

 言いにくそうに、もごもごとコナンは口を動かした。

 

「何だ、んな事か。しょうがねえ、治ったらつれてってやるよ。その代わり、オメーも半分出すんだぞ」

 

 からかい交じりに言って、小五郎はふんと鼻で笑った。

 

「えへへ……あ!」

 

 再びコナンは素っ頓狂な声を上げた。

 

「今度はなんだ?」

「蘭ねーちゃんの服……ボクのも。汚しちゃった……」

 

「いい、いい。ったく、病人がんなあれこれ心配してんじゃねえよ」

 

 面倒がる口ぶりだが、その奥には気遣いがはっきりとあった。感じ取ったコナンは、もう一度ごめんなさいと謝った。

 

「まったく、ガキは手がかかる」

 

 小五郎はふてぶてしく鼻を鳴らすと、コナンの頭を乱暴に撫でた。たんこぶがあるというのに…痛いじゃないかとコナンは抗議を込めてわずかに顔をしかめた。それでも、良く頑張ったなといたわる父親の手はとても心地良かった。

 

「じゃ、俺達は一旦帰るから、ゆっくり休め」

「後で、入院の荷物持ってくるからね」

 

 そう言って蘭はいつかのように、コナンの手をそっと…まるで壊れ物を置くようにそっと離し立ち上がった。

 コナンも同じく、ぬくもりが去って少し寂しさを感じる手に目をやり、蘭を見上げた。

 

「おじさん、蘭姉ちゃん、ありがとう」

「しばらくは病院のウマーい流動食だろうが、残さず食べろよ」

「はいはい、意地悪言わないの」

 

 からかう小五郎の背中を笑いながら軽く押しやり、蘭は病室を後にした。戸口で一旦振り返り、また後でと手を振る。

 名残惜しそうに見やる蘭の瞳に、ある一つの決意が揺らめく。

 手を振る代わりに首を曲げて斜めに見上げるのが精一杯のコナンが、二人の見送りに目を向けた時、それはすでに消えていた。

 

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