はじまる場所で

 

 

 

 

 

 窮屈な収納庫の中、蘭は激しい後悔に見舞われていた。やはり本当に逃げ出していればよかったのではないか。物音は全く聞こえなくなったが、それは彼らの偽装で、実際は自分が出てくるのを、扉の周りでじっと待っているのではないか。少しでも物音を立てたが最後、収納庫の扉が開けられ、引きずり出され、今度こそ殺されてしまうのではないか。

 

 大丈夫

 上手くいく

 きっと上手くいく

 

 今にも発狂しそうな心を必死に宥め、蘭は耳を澄ませた。

 と、微かに物音がした。

 足音だ。足音が近付いてくる。

 聞き間違いではない、誰かこの部屋の中にいる。

 足音の主は、まっすぐこちらに向かってきている。

 蘭は激しい後悔に見舞われた。

 やはりあの時、動くべきではなかった。

 そうすれば、こんなところで命を落とさずに済んだのだ。

 今更『動くな』というコナンの言い付けを守ったところで、もう手遅れだ。

 もはや生きて待つ事の出来なくなった自分を激しく悔やみ、蘭は最期の時の訪れに顔を歪めた。

 

 コナン君――新一……ごめんね

 

 ついに収納庫の扉は開かれた。

 真っ黒い闇は白光に照らされ、どっと汗が噴き出す。走るおぞ気に蘭は大きく身震いを放った。

 

「やっぱりここだったんだ」

 遅くなってごめんね

 

 遠退きかけた意識に一言が閃く。

 

 ――新一!

 

 蘭はうずくまった姿勢のまま小さく息を飲んだ。今、一番聞きたいと思っていた声だ。だがまさかここで聞けるはずがない。声。今際の際の幻聴だろうか。

 

「もう大丈夫だよ、蘭姉ちゃん」

「……コナン君?」

 

 名を呼ぶと、じわりと涙が滲んだ。耳に優しく響く大丈夫の一言に唇が震えて止まらない。

 

「そうだよ。さあ、早くここを出よう」

 

 手が差し伸べられる。

 目にして、蘭は弾かれたように立ちあがった。

 ようやく顔を確認する。目が合う。

 

「コナン君……!」

 

 直後、コナンの顔が恐ろしげに強張った。

 

「どうした…奴らにやられたのか!」

 

 蘭の頬や口元にこびりつく血に目を見開き、コナンは呻くように言った。

 思いがけず強い力で頬を押さえ込まれ、蘭は息を詰まらせた。

 

「あ…ち、違うの。これ……慌てて隠れる時に…ここにぶつけて……鼻血が……」

 

 右手で鼻を隠し、左手でぶつけた個所を指差し、蘭は恥ずかしさに俯いた。

 恐る恐るコナンを見やると、眼差しに浮かんでいた恐怖はなくなっていたが、代わりに心配げな強張りがあった。

 

「もう止まった……」

「ごめん。ちょっと見せて」

 

 小さな手が顔を上向きにし、隠す手を除けるよう促す。

 蘭はしばしためらい、素直に手を下ろした。

 間抜けな様を見られるのはたまらなく恥かしかったが、それ以上に、彼に委ねたい気持ちが強くあった。

 

「多分折れてない……」

「ああ……大丈夫」

 

 丹念に確認し、ようやくコナンはほっと肩を落とした。

 その様子に蘭は胸が苦しくなった。こんなに心配させてしまった、こんなに迷惑をかけてしまった。

 どうして自分は、こんなに出来ないんだろう。

 と、コナンが動いた。

 頭を強く抱き寄せられ、髪が撫でられる。

 

「ゴメンね蘭姉ちゃん……あの時一緒に行ってれば……ゴメン…ゴメンな」

 

 苦しげに混じる新一に蘭は大きく喘いだ。

 

「ちがう…私が意地を張ったのが悪いの……来てくれてありがとう」

 

 ぎゅっとしがみつく。小さくとも、誰より頼りになる唯一の人。

 

「……そうだ! あの二人!」

 

 蘭ははっと目を見開いた。

 

「うん、ボクも半分聞いた。誰かを殺すって……蘭姉ちゃんは、何を聞いたの?」

「あの二人が狙ってるのは、高瀬信彦…今日、お父さんが会ってる依頼人よ!」

 

 蘭は床下収納庫から這い上がると、厨房に閉じ込められるに至った経緯を話し始めた。

 

「とにかく、おじさんに連絡しよう」

 

 コナンは厨房の水道でハンカチを湿らすと、それとなく鼻を隠している蘭に手渡した。

 

「……ありがと」

 

 恥ずかしそうに顔を背けて隠すと、蘭はこびりついた血を拭った。

 

「痛かった……?」

 

 心配そうな声でコナンが訊く。

 

「ううん、無我夢中だったから…でも、よく分かったね」

 私があそこにいるって

 

「あの敷布だけ、ちょっと不自然だったからね」

 

 クリーム色の敷布を指差し、コナンは言った。これで床下収納庫の扉を隠し、布を目立たなくさせる為に物を散らかしたのだ。

 

「蘭姉ちゃんこそ、やるじゃん」

 

 部屋から逃げたように偽装しその実部屋にとどまり、追跡者の目をくらます。よくある手だが、有効だ。

 コナンは携帯電話を取り出すと、小五郎に連絡を試みた。

 

「前に映画で見たの。上手くいくなんてびっくり……」

 

 蘭は、未だに信じられないとほっとした顔で首を振った。

 

「それに…動くなって、コナン君が」

 

 言ったから、守った。揺るがぬ信頼の言葉にコナンはいたわるように微笑んだ。

 

「……あ、おじさん――」

 

 電話が繋がった直後、真上で爆発音が轟いた。

 

「なに……!」

 

 なんだ、どうした…仰天する小五郎の声を聞きながら、コナンは頭上を振り仰いだ。蘭も同じく顔を上げる。

 建物全体が激しい揺れに見舞われ、立っているのもままならない。

 がたがたと棚の戸が音を立てる中、二人はそれぞれに支え合い足を踏ん張る。

 爆発音のした方を見やり、コナンは眼を眇めた。あの時トイレで、男たちは、二時間後と口にしたはずだ。まだその時刻にはなっていない。恐らくタイマーが誤作動でも起こしたのだろう。あるいは……。

 コナンは携帯電話を握り直し、安否を問う小五郎に大丈夫と返し言葉を続けた。

 

「蘭姉ちゃんも無事だよ。おじさん、よく聞いて。おじさんが今会ってる高瀬さんを狙ってる奴がいるんだ…多分三人。そいつらが仕掛けた爆弾が爆発したんだ。ボク達が今いるのは新館東棟の二階――」

 

 そこで異変が起きた。

 ようやく揺れが収まったと安堵したのも束の間、床が一部崩落し始めたのだ。

 ひび割れが厨房の床を一直線に走り、まるで何かの冗談のように呆気なく崩れ落ちていく。

 厨房内で一番重量のある冷蔵庫が、寄りかかっていた壁からその身を前へと傾かせた。

 

「早く廊下へ!」

 

 コナンは携帯電話を手放すと右手で蘭を押しやり、左手で、自分の身も忘れ無謀にも冷蔵庫を支えようと掴んだ。

 しまったと目を見開いた時には、すでに左手は冷蔵庫の下敷きになっていた。

「!…」

 指の潰れる音が身体の内部で生々しく響いた。

 壁に体当たりする勢いで廊下に飛び出した蘭は、背後から聞こえたコナンのくぐもったうめきにすぐさま振り返った。

 しかしそこにコナンの姿はなく、倒れた冷蔵庫が見えるだけだった。

 

「こ…コナンく……」

 

 完全に冷蔵庫の下敷きになってしまったのかと、もつれる舌で蘭は名を呼んだ。嘘だ。そんなはずは。血の気が一気に下がり、今にも意識が途切れそうになる。

 

「大丈夫だよ……」

 

 その時ふらりとコナンが姿を現した。

 

「コナン君!」

 

 冷蔵庫を回り込んでよろよろと近付く少年にすぐさま駆け寄り、蘭は顔を覗き込んだ。視界の端に血まみれの手が映る。ぎょっとして見やれば、右手で覆い隠す左手は無残にも赤く染まり、怪我の度合いは計り知れない。さらに目を凝らすと、腕全体にも無数の傷を負っているらしく、あちこちから血が滲み出していた。

 

「コナン君…これ、これ……」

 

 あまりに惨い状態に顔を歪め、蘭は喘ぎ喘ぎ尋ねた。

 

「ちょっと……切れただけ。蘭姉ちゃんは…怪我はない?」

 

 聞かれても、コナンの怪我に目を奪われ言葉が頭に届かない。切れただけなどと、とても信じられない。こんなに血まみれで、まだ溢れてきて、床にまで滴っているというのに。

 蘭は唇をわななかせた。

 

「どこか…怪我したの?」

 

 コナンは繰り返した。答えない蘭に恐怖が募る。

 左腕から全身に広がる毒々しい痛みに目を眩ませながらも、必死に踏ん張り、コナンはじっと見つめた。

 

「ない…ないよ! 私はへいき……。ちょっとほこり被ったくらいで、かすり傷一つない!」 

 

 ただ一心に気遣うばかりの眼差しにおののき、蘭は何度も首を振った。

 

「よかった……」

 

 肩を大きく上下させ喘ぎ、コナンはそれでも笑った。

 

「はやく…行こう……蘭姉ちゃん」

 

 今にも零れる悲鳴を必死に噛み殺し、コナンはよたよたと歩き出した。一歩ごとに激痛が駆け抜け、少しでも気を抜けば膝から崩れてしまいそうだった。

 左腕は肩から先が麻痺したように動かしづらく、力も全く入らない。指の何本か潰れた感触がある。冷蔵庫の下敷きになったのだ、ちぎれなかっただけでも幸いというべきだろう。思い出した瞬間背筋におぞ気が走り、身震いが止まらない。

 しかし今休むわけにはいかない。何としてでも殺人を阻止せねば。助けられる者は助けねば。

 

「や…奴らが高瀬さんを……殺す前に…、早く」

 

 その言葉に蘭はそうだと目を見開いた。先を歩く彼が何者かを思い出す。まったく懲りない、探偵というもの。でも…顔が歪む。自分はまだうまくついていく事が出来ない。

 

「また…崩れてくるかもしれない……早く、蘭姉ちゃん」

 

 ああ、彼はこんなにもしっかり歩んでいるというのに。たとえどんな傷をその身に負うとも、前ばかりを見て。

 

 だのに自分は……

 

 蘭は小さく唇を噛むと、コナンの前に回り込みその小さな身体を抱き上げた。

 

「行こう、コナン君」

 

 案内してと前を見据える。

 

「蘭ねえちゃ……お、重いでしょ……」

 

 苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながらも、コナンは気遣う言葉を口にする。

 蘭は強張った顔で首を振った。

 

「平気よ……その時出来る方が、出来る事をするんだから」

「そ…そうだね」

 

「それに……」

 

 蘭の脳裏に夏の一日が過る。

 あの時は背にいた彼。

 守ってくれると聞いてきた。

 絶対死なせないと誓った。

 

「コナン君……」

 

 誓いの強さの分だけ、蘭はきつく抱きしめた。

 大丈夫だと、コナンも腕に力を込める。

 

「行こう蘭姉ちゃん……突き当たるまで…、まっすぐだよ」

「……うん」

 

 傷に障らぬよう走らない足取りで懸命に走り、蘭は外へと急いだ。触れ合った箇所からコナンの鼓動が伝わってくる。絶対に死なせない。けれど…彼の身体から流れ出る命が服を濡らし、冷たく貼り付いて、心を脅かす。

 

「コナン君……!」

 

 堪えても零れる涙を何度も拭い、蘭は前へと進んだ。

 

「大丈夫だよ…だいじょうぶ……ちゃんと三人…いるから……大丈夫……」

「そうよね、大丈夫よねコナン君」

 

 必死に明るく頷くが、弱々しくかすれたコナンの声に震えが止まらない。

 外へ、早く外へ。

 

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