はじまる場所で

 

 

 

 

 

 淡い空色の絨毯が敷かれたエレベーターホールの前で、蘭は足をとめた。

 右を見る。ついで左を見やる。

 左右には、整然と連なる客室の扉。

 明るい照明と明るい壁の色がかえってうすら寒く見え、ため息を一つ。

 ここは、降りてきたエレベーターホールではない。

 絨毯の色は青じゃなく赤かった。エレベーターの扉も違う。壁の色も違う。天井の高さも、照明の形もみんな違う。

 それは分かる。

 ではここは一体どこなのだろう。

 ここがどこだかは分からないが、分かっている事が一つ。

 

「あーあ……」

 

 まったく人影の見当たらない廊下の壁に寄りかかり、切なくため息をもらす。

 無事にトイレに行く事は出来た。

 二階のフロントまで降りて、目印を頼りに進んで、無事たどりついた。

 用を済ませ、すっきりして、さあ戻ろうと勢い込んで歩き出した。

 それから何をどうしたのか、気付けばこの、人っ子一人見当たらない客室階で途方に暮れて立っている。

 

「……あーあ」

 

 もう一度こぼす。

 このエレベーターに乗ったら、事態は更に悪い方へいくに違いない。

 いっその事、壁を突き破って外に飛び出し、外壁をよじ登っていけたら。冗談半分、本気で想像する。

 

 迷ったと思ったら、絶対その場を動かない事。必ず迎えに行ってあげるから……

 

 コナンの言葉を思い出す。半ば浮かぶ予想に口端を緩め、手のかかる子供を見る目で見上げていたのを思い出す。

 ポケットに収めたバッジをゆっくり探り、蘭は苦々しくうなった。

 まったく、悲しくなる…自分に。

 笑われるより呆れられるより、心配させてしまう事がたまらなく嫌だった。

 

「まったくもう」

 

 天井を見上げ、腹立たしい気持ちのまま両手で足を叩く。

 こんなだらしのない事で、彼の力になれるのだろうか。助けになれるのだろうか

 

 なにが…出口よ

 

 右手をぼんやり見つめ、心の中で何度も謝る。

 その時、廊下の突き当たりで何か動くものを見た気がした。

 もしかしたらと、蘭は顔を輝かせた。

 

 

 

 もう帰ってきてもいい頃だが…エレベーターの扉が開くたびコナンは目を凝らすが、そこから蘭が姿を現す事はなかった。

 やはり迷ったかと苦笑いで小さく肩を竦め、眼鏡の追跡機能を作動させる。

 範囲を調整し光点を追うと、どうやら彼女は、近々改装予定の新館東棟へ行ってしまったようだった。

 

「……さすが」

 

 思わずもれる呟き。

 さすが方向音痴。苦笑いがますます強まる。通信してこないのは、自分に笑われるのが癪だからだろう。使い方や機能については一通り説明してあったし、その際理解出来た目の輝きは見て取れたから、使い方が分からず途方に暮れている、という事はないはずだ。

とするとやはり。

 癪だからだろう。

 そう推測し、コナンはエレベーターホールへと向かった。

 

「!…」

 

 直後踏みとどまる。

 何者かの強烈な悪意を、感じ取った気がした。すぐさま振り返り庭園を見回すが、カフェでくつろぐ数組のカップル、庭園をそぞろ歩く家族、庭園の手入れをする係員…空は青く晴れ渡り、すっかり秋の形に変わった雲が浮かんでいる。のどかな光景のどこにも、歪な部分は見当たらない。

 気のせいだっただろうか。

 確かだった。背筋に走った悪寒。強烈な雷を浴びせられたかのようなあの、息も止まる瞬間を確かに味わった。

 

 あれは――

 

 しばらくコナンはその場に立ち尽くしていた。

 浮かんだ雲の一つが、少しずつ形を変えていく。

 降り注ぐ太陽の柔らかい陽射しが、首筋に浮かんだ嫌な汗をすっかり拭い取るころ、ついにコナンはふうと息をついた。思い過ごしだったか…肩にのしかかっていた予感は跡かたもなく消え去っていた。

 知らず内に強張っていた身から力を抜き、コナンは踵を返すと、エレベーターに乗り込んだ。

 

 

 

 立ち入り禁止になっている新館東棟にどうやって入り込んだのかと不思議に思うが、彼女は方向音痴の達人、常人には考え付かない道順を見つけ出すのだろう。

 行き交う宿泊客や従業員の目を盗んでさっと立ち入り禁止を潜り抜けると、コナンは動かない光点…待っている蘭の元へと走った。

 今日は作業のない日なのか、少し進むと途端にしんとした空気に包まれ、自分の走る足音だけしかしなくなった。

 通路はやけにくねくねと曲がり角が多く丁字路も入り組んでおり、たとえ壁伝いに進んだとしても自分がどの方角を向いているか、すぐには分かりづらい造りになっていた。

 

 これじゃあ迷うのも無理ないか

 

 そしてコナンは思った。

 明かりは煌々と降り注ぎ、蘭の嫌う『お化けの雰囲気』とは全くの正反対だが、やたら明るいだけで無人という状況も、彼女には不安を掻き立てる要素となるだろう。

 光点に動きはない。

 屋上での言葉を守り、このうすら寒い場所で一人待っている彼女を思うと、自然走る勢いが増す。

 コナンは急いだ。

 と、次の曲がり角の向こうから、微かに人の話し声が聞こえてきた。

 改装に携わる作業員か、ホテルの従業員か。ちょうどいい、蘭の事を聞いてみようと思い付くが、足はぴたりと止まった。

 頭の隅で警鐘が鳴る。

 こちらへと近付いてくる話し声に背を向け、コナンは咄嗟にすぐ傍のトイレへと駆け込んだ。

 個室の扉の陰に隠れるだけでは安心出来ず、何かに後押しされるかのように、通風口の中へと身をひそめる。

 直後二人の男が入ってきた。

 コナンはぎりぎりまで息を殺し、男たちの言葉に耳を澄ませた。

 一人は携帯電話で誰かと連絡を取り合い、もう一人も交えて会話しているようだった。

 

「……そうだ。今日が奴の命日になる」

 

 耳に届いた単語にコナンは目を見開いた。

 どうやら、今日、誰かを殺害する予定らしい。一体誰が標的なのかと、両の耳に神経を集中する。

 

 ――爆弾は仕掛け終わった

 ――ああ、ちゃんと二時間後にセットした

 ――さっき厨房に閉じ込めた女はどうする?

 ――顔を見られた

 ――わかった、うまく始末する

 

「!…」

 

 続けて聞こえた会話の断片に、衝撃が走る。

 まさかと打ち消すも『女』のひと言に蘭の顔しか浮かばなかった。

 呼吸もままならないほど強張った手足を叱責し、コナンは厨房目指して通風口を這った。

 左のレンズに明滅する光点まであとわずか。

 

 蘭…間に合ってくれ!

 

 光点だけを頼りに、暗く狭い通風口を進む。気ばかり急いてうまく動けず、何度頭をぶつけたか分からない。肩やわき腹もいつの間にか痛みを放っている。しかし構っている余裕などなかった。取るに足らないものだ。

 蘭を守る為ならば。

 腕の一本や二本、惜しくはない。

 ようやく厨房の明かりを目にする。

 走れない中を走り、金網に顔を押し付けるようにして内部の様子をうかがおうとしたまさにその時、先程トイレで目にした男たちが慌ただしく厨房に駆け込んできた。

 全身がかっと燃え上がる。

 二人だけなら倒せると金網を掴んだ手に力を込めるが、頭の中で待てと静止の声が上がった。

 今にも飛び出したい衝動を辛うじて飲み込み、コナンは目を凝らした。

 

「やっぱりいない! 逃げたんだ!」

「あのドア蹴破るなんてマジかよ!」

 

 二人は顔を見合わせ、ひどくうろたえた様子でまさか、信じられないと続け様に言葉を吐いた。一人が怒りにまかせて、床に散乱する空の段ボール箱を蹴散らす。

 男たちの暴れる姿を見ながら、コナンはぐっと息を飲み込んだ。

 逃げた…ドアを蹴破った…蘭ならば出来ない事ではない。

 四角の狭い窓からでは見える範囲は狭く、全体の様子は把握出来ない。しかし男たちの言葉通りならば、蘭はすでにここから無事逃げた後のようだった。

 ほんの少し安堵する。

 だが。

 左のレンズ中央で明滅している光点にはたどり着いているのだ。にもかかわらず蘭がいないという事は、逃げる際、バッジを落としたのか…しかし、この部屋の散らかりようがどうにも気になり、コナンは動けずにいた。

 不必要に物が散乱しているのがひどく気にかかった。

 ドアを蹴破る際、弾みで物が散らばったとは考えにくい。どうやら厨房の床全体に、空の段ボール箱や調理器具やらが散乱しているようなのだ。

 コナンは一段冷静になって、状況把握に努めた。

 一見するとそれらは、閉じ込められ、恐怖のあまりヒステリーを起こした蘭が手当たり次第に物を投げ放ったように見える。

 だが、蘭は恐怖にパニックを起こしても、こんな風に取り乱した事は一度もない。

 それに、妙に綺麗なのだ。恐怖のあまり錯乱し、手当たり次第に棚の物を投げ放ったにしては散らかり方がいやに作為的で、大きな敷布が床に広げて置かれているのも、不自然と言えば不自然だ。

 まるで何かを覆っている…隠しているようではないか。

 

「!…」

 

 まさかと息を飲む。

 

「仕方ない、探すぞ!」

「まだそう遠くへは行ってないはずだからな!」

 

 苛立ち紛れに近くの鍋を蹴飛ばし、二人は厨房を飛び出していった。

 二人分の足音が完全に聞こえなくなるのを待って、コナンは慎重に通風口から這い出した。

 

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