はじまる場所で

 

 

 

 

 

 屋上でエレベーターを降りて、外へのドアを開ける前から、蘭の足はうきうきと軽やかに弾んでいた。

 すぐ隣でその様子を見ていたコナンは、今にも駆け出すほど浮かれている彼女をちらりと見上げ、その顔に浮かんだ満面の笑みに堪え切れず小さくふき出した。

 

「……コナン君」

 

 気付いて蘭は、怒ったように照れたように笑って、繋いだ手を軽く振った。

 

「笑ってないよ」

「ウソおっしゃい」

 

 もう…と渋い笑みで続け、蘭は屋上庭園へと出る大きなガラスのドアに手をかけた。

 押し開けると同時に、爽やかな秋の風が全身を優しくすり抜けた。

 風に乗って、薔薇の甘く芳しい匂いが鼻をくすぐる。

 

「わあ……!」

 

 目の前に広がる、美しく丁寧に手入れされた色とりどりの薔薇に思わずため息がもれる。

 赤、白、ピンク、黄色…赤一つとっても様々で、目の覚めるような真っ赤もあれば深みのある紅、黒味がかった赤や可愛らしい赤もあった。どれもみな腰の高さに整えられ、大きな一輪を堂々と、あるいは沢山の小花を花束のように咲き零れさせていた。

 まずは、小さな池とそれにかかる橋を越え、蘭は薔薇園へと足を踏み入れた。

 コナンも後に続いた。これがホテルの屋上庭園とは、中々のものだと素直に感心する。

 正面右手には、カフェも併設されていた。かけられたのぼりには『バラのソフトクリーム』の文字。いくつか並べられたテーブルには、数組のカップルが思い思いにソフトクリームやドリンクを楽しんでいた。

 果たして蘭は、花が先か団子が先か。

 

「すごいねコナン君、とっても綺麗ね!」

 

 まだ気付いてないのか後のお楽しみか、蘭は花の一つずつから匂いを頂き、ほんのり頬を上気させてはしゃいでいた。

 

「それにとってもいい匂いよ!」

「ホントだね」

 

 形良い唇から放たれるはつらつとした声に合わせ、コナンも元気よく応えた。

 昂奮してか、繋いだ手を少し痛いくらい握られるが、まさかそこに文句などありはしない。負けじと握り返し、コナンはじっと見つめていた。

 この庭園で一番元気に健全に咲き誇る、大輪の蘭を。

 

 

 

 最初は、小五郎の言う『ホテルで豪華ディナー』に半信半疑ながらついてきたのがきっかけだった。

 そう、小五郎の仕事のついでだった。依頼人がこのホテルを指定してきたのもあって、ならば夜はここで豪華ディナーを…話は盛り上がり、しかしながらどうせまたいつかのようにビアガーデンだろうと諦め半分、納得してついてきたのだ。

 どこであろうと何だろうと、思い出に変わりはない。そう言った誰かの言葉にこっそり浮かれて、もれないようにしっかり隠して、コナンは手を引く蘭について庭園の散策を楽しんでいた。

 たとえ豪華ディナーは期待出来なくとも、今この時間は何にも代えがたい。これをくれただけで十分だ。

 

 わあ綺麗

 なんていい匂い

 

 きらきらと輝く瞳のなんと美しい事か。

 咲き零れる笑顔のなんと愛くるしい事か。

 歯の浮くセリフの一つや二つ浮かんでしまっても仕方ないと、誰か言ってくれ。

 

「あ、コナン君見てみて!」

 

 端から順繰りに一つひとつの花を楽しみながらゆっくり進み、カフェまで近付いてようやく蘭は団子に気が付いた。

 

「バラのソフトクリームだって。どんな味だろ!」

 

 屈んでいた身体をまっすぐのばしコナンを見やって、蘭はきらり目を光らせた。

 

「きっと、いい香りがするんじゃない?」

「夜までまだ時間あるし…ソフトクリームなら大丈夫よね」

 

 言葉の内容は尋ねるものだが、肯定以外は認めないぞと言外に迫る蘭の物言いに苦笑いを零し、コナンは大丈夫だよと頷いた。

 

「コーヒーおごるから行こう」

 

 言うが早いか蘭はカフェへと歩き出した。

 

「あ、たまにはボクがおごるよ」

「え……」

 

 ふと蘭の足が止まる。

 にこにこと笑って見上げるコナンをやや強張った顔で遠慮がちに見つめ、しばし考え込む。でもと言いかけた言葉を飲み込み納得して、蘭は小さく頷いた。

 

「じゃあ、私バラのソフトクリーム!」

「分かった」

 

 先導していた蘭を小走りに追い抜いて、コナンはカフェのカウンターで伸び上がるようにして注文した。

 

「はい、お待たせしました」

「どうもありがとう」

 

 受け取ったコーヒーとソフトクリームを手に振り返ると、空いたテーブルで待つ蘭がすぐに目に飛び込んだ。笑いかけ、落とさないようゆっくりと慎重に運ぶ。

 今にも手が出そうになる自分を何度も飲み込んで抑え、蘭は待っていた。

 自分が誰を見ているのか分かっているつもりでも、目に映るものの距離感とバランスはこういう時にせめぎ合う。

 ここにいるのは『コナン君』で『蘭姉ちゃん』だけど、あともう一人。

 間違いなくいるから、待っている。

 

「お待たせ。はい、蘭姉ちゃんのソフトクリーム」

 

 声はあどけない子供のそれだが、すっと差し出す仕草はやっぱり彼で、たったそれだけで胸が高鳴ってしまう。そして思う。命にかえても守らなければ…と。

 

「ありがと。じゃあ遠慮なく、いただきます」

 

 少し苦労しながらコナンが隣に座るのを見届けてから、蘭は待ちに待った薄いピンクのソフトクリームをひと口味わった。

 

「……おいしい!」

 

 ほのかに香るバラは上品に口の中で溶け、それ以上に甘い時間に蘭は感嘆の声を上げた。

 その様子を、コナンはただ嬉しそうに眺めていた。こうして穏やかに見守る事の出来る時間は砂糖よりも甘くコーヒーに溶け、ただのブレンドなのに今まで味わったどんな珈琲よりも美味いと思わせた。

 青く澄み渡る秋の空が彼女の微笑みによく似合い、忘れられない一枚となってコナンの心に刻まれる。

 と、見惚れているさなか蘭がすっとソフトクリームを差し出してきた。

 

「ねえ、せっかくだからひと口食べてみてよ」

「え…ボ、ボクはいいよ!」

 

「遠慮しないで、ほら。こっちまだ食べてないから、ひと口どうぞ」

 ほら、早くしないと溶けちゃうよ

 

 にこにこ笑う顔は、少し遊んでいる部分も見受けられた。戸惑うのを分かっていてからかってくる小憎らしい彼女の、無邪気なすすめ。コナンは何度もためらった末、ぶつかるようにしてソフトクリームに口を付けた。

 

「ね、美味しいでしょう!」

「う、うん……」

 

 上唇についたバラの香りを慌てて舐め取り、コナンは俯き加減に頷いた。のぼせているのか、正直味も何も分かりゃしない。すぐ傍では、くすくす笑う彼女。嗚呼まったく、この女にはほとほと敵わない。

 まるで彼女の匂いを食べているようで落ち着かず、コナンは慌ててコーヒーを流し込んだ。ほっとする頭のもう一方で、もったいないとの声が上がる。

 そうこう騒ぎ立てている横で、蘭はソフトクリームを平らげ満足そうに深呼吸した。

 

「……ああ美味しかった。ごちそうさまでした」

「どういたしまして」

 

 律義な蘭に合わせてコナンも頭を下げ、一緒に笑う。

 

「お父さん、まだかかる――」

 まだかかるかな

 

 蘭がそう言いかけた時、タイミング良く小五郎から電話がかかってきた。

 出てみると、やはりまだ時間がかかるとの連絡で、しかし夕食の豪華ディナーは約束するからホテル内で待っているようにとの事だった。

 

「――だって。どうしようかコナン君」

 

 携帯電話をしまい、コナンへと意見を求める。

 

「蘭姉ちゃん、まだ全部見てなかったよね。ボク付き合うから、一周しようよ」

「いいの? ありがとう」

 

 空に負けぬほど晴れ渡った笑顔に瞬きも忘れ、コナンは見惚れた。彼女が見せる一瞬はどれも本当に素晴らしいと、心をとらえて離さない。

 

「その前に…ちょっと行くとこ行ってくる」

 

 さりげなく視線を逸らして蘭は立ち上がると、ショルダーバッグを手に小声で告げた。

 行先は聞かなくても分かり、コナンも同じくさりげなくよそへ目をやって頷いた。

 

「あ、待って」

 

 しかしすぐに思い直し、呼び止める。

 

「ごめんね……、これ持ってって」

 

 ポケットから探偵バッジを取り出し、手渡す。

 

「お守り代わり。このホテルちょっと入り組んでるから、迷わないように」

 

 コナンの言葉に一瞬むすっと唇を尖らせた蘭だが、突っぱねるには自分には前科があまりに多過ぎた。

 

「……ありがと」

 

 そっぽを向いたままぼそぼそと呟き、受け取ったバッジをポケットにしまう。

 

「いい、蘭姉ちゃん……もし迷ったと思ったら、絶対その場を動かない事。必ず迎えに行ってあげるから」

「はいはい分かりました」

 まったくもう

 

 零れた悪態は、彼に向けてか自分に向けてか。

 

「すぐ戻ってきますよーだ」

 

 憎たらしく言って、強気に笑って、蘭は足早にエレベーターホールへと向かっていった。

 乗り込むまで見届け、それからゆっくりコナンは残りのコーヒーを口に運んだ。

 

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