はじまる場所で

 

 

 

 

 

 翌日、昼食が終わった頃を見計らって蘭が病室を訪れた時、コナンの姿はベッドになかった。

 もしやと思って廊下に出ると、ちょうど向こうの曲がり角から、水野に首根っこを掴まれて戻ってくる姿が見えた。

 目が合った途端えへへとばつが悪そうに笑うコナンにひと睨みくれ、蘭は慌てて駆け寄った。

 この時も水野は、優しく叱るにとどめてくれた。

 

「コナン君、本当にいつもはとっても聞き分けいいのに」

 サッカーの事となると目の色変えて

 

 サッカーだけじゃないですが済みません…蘭はナースステーションに戻っていく水野に重ね重ね頭を下げた。

 ひと息ついて、蘭は廊下の端にコナンを立たせると、腕を組んで見下ろした。

「で……今日は何したの?」

 頭上からの低い声にコナンはびくびくと蘭を見上げた。案の定、おっかない顔で立っている。

 

「あの、その……」

 

 隠しても無駄だと観念して、洗いざらい白状する。

 

「もう……」

 

 それを聞いて、蘭はこめかみの辺りに指を当てた。

 怪我をしていなければどうという事のない内容だが、やはり今はまずいだろう。

 

「さ、最初はホントに、ちょっとのつもりだったんだよ……」

 

 言い訳にもならないかもしれないが…コナンはおっかなびっくり笑いながら付け加えた。

 

「ダメなものはダメです!」

「はい!……ごめんなさい」

 

 途端に神妙な顔で俯く。

 

「もう、何が『絶対傍を離れない』よ。こんな風に、ふらふらっとどっか行っちゃうくせに」

 

 蘭は唇を尖らせ、ぶつぶつと文句を零した。

 

「ごめんなさい…ホントに悪いと……」

「……でも!」

 

 蘭は一転して明るい声で言った。

 

「約束したもんね」

 

 そして指先でちょんとコナンの唇に触れる。

 

「!…」

 

 途端にコナンは何事かうめき、耳まで真っ赤に染めて俯いた。

 

「あれれー、コナン君顔赤いよ。熱でもあるのかな」

 

 その顔を下からのぞき込み、蘭はどうしたのかなと問いかけた。

 

「ら……蘭姉ちゃんだって真っ赤じゃん!」

「だって嬉しいんだもん。悪い?」

 

 むきになって言い返せば、さらりと返される。

 

「……わ、悪くないよ。ボクも…うれしいし……」

 

 負けじと言い足すが、言葉は惜しくも半ばでかき消えた。

 

「なーに、聞こえなーい」

 

 わざと意地悪く耳に手を当て、蘭は小首を傾げた。少しくすぐったい幸せに頬がどこまでも緩む。

 

「そ――そうだ蘭姉ちゃん、今朝腕の包帯取れたから、もう二、三日もしたら退院出来るよ」

 

 コナンは強引に話題を変え、満面の作り笑顔で蘭を見やった。

 

「ホントに! 良かったねコナン君! そっか、そうか。……じゃあ、これはいらないかな」

 

 蘭はショルダーバッグから本を一冊取り出すと、ぞんざいに振り回した。

 手で隠れて、探偵佐……までしか見えなかったが、表紙のデザインで、それが先日買ったばかりの探偵左文字シリーズの最新刊だとコナンはすぐに気付いた。

 

「そろそろ読みたいんじゃないかなーと思って持って来たんだけど、……いらないよねー」

 

 顔はよそに、目だけコナンに向けて、蘭はにやにやしながら手にした本を右に左に振った。

 

「あ、あ……蘭姉ちゃん!」

 

 途端にコナンは切ない声をもらし、ぎりぎり届かない高さで釣り上げようとする蘭に踊らされる形で、ぴょんぴょん飛び跳ねた。

 

「蘭ねえちゃ……ジャンプするとまだ痛いよ!」

 

 気付いた事実に泣き笑いで顔をしかめ、それでもコナンは諦め悪く飛び跳ねた。

 それはさすがにまずいと、蘭は慌ててコナンに本を渡した。

 これでまた彼が水野に叱られてしまっては可哀想だ。何より、これ以上水野に迷惑をかけてはいけない。

 

「ゴメンねコナン君」

 

 ようやく本を手にしてほっとするコナンの肩を、蘭は痛む左手の代わりに優しく撫でさすった。

 

「ううん、大丈夫」

 

 上向いて、コナンはにっこり笑った。

 輝く顔を嬉しそうに見つめ、蘭は釘を刺した。

 

「でも、あんまり遅くまで読んでちゃダメよ。無理して熱でも出たら、入院が長引いちゃうから」

「うん、気を付ける」

 

 自信たっぷりコナンは言い放つが、見つめる蘭はあまり信用していない。

 構わない、それでこそ推理オタク。それでこそ彼だ。

 けれど。

 

「……早く帰ってきてくれないと、教えてもらえないし…甘えられないし!」

 

 照れ隠しに少しむきになって言い放つ蘭をまっすぐ見つめ、コナンは頷いた。

 

「……うん、頑張って、一日も早く帰るよ」

「待ってるからね」

 

 また誓うコナンの言葉を胸に刻み、蘭も同じくまっすぐ見つめた。

 そして同じタイミングでにっこり笑う。

 

「ねえ、ちょっと売店に行ってみない?」

 

 そう言って蘭は左手を差し出した。

 

「うん。何か面白そうなのあった?」

 

 コナンは本を左脇に挟むと、差し出された蘭の手を掴んだ。

 そしてまた、同じタイミングでぎゅっと握る。

 

「そうねえ、コナン君の好きそうなヤイバースナック、あったわよ」

「また蘭姉ちゃんは、もー……」

 

 片方は楽しげに、片方は少しむくれて、けれど笑う時は同じタイミングで、二人は手を繋いで一階の売店へと向かった。

 

「ところでコナン君、ちょっと怨念こもってそうはどうだろ」

「ご、ごめんなさい!」

 

「怒ってないよ。実際そうだもんね。もしかしてそのお陰であったかいのかな」

 

 繋いだ手を軽く振り、蘭は茶目っ気たっぷりに言った。

 

「うん……でも本当にね、蘭姉ちゃんのマフラーあったかいよ」

 ありがとう

「……ああもう、コナン君早く帰ってきて。寂しいよ」

 不意に眉を寄せ、蘭は素直に気持ちをぶつけた。もう我慢出来なかった。具体的な数字を聞いた瞬間から、心が疼いて仕方なかった。

 

「うん……もうすぐだからね」

 

 コナンは励ますように手を握りしめた。

 その一つで泣きそうになる自分を抑えて、蘭はくすんと大げさに鼻を鳴らし続けた。

 

「お父さんもね、何だかつまらなそうなの。やっぱりコナン君いないとダメ。全然ダメ!」

 

 やだやだと、蘭はわざと駄々っ子の振りをした。

 

「ら、蘭ねえちゃ……ホントに、もうすぐだから」

 

 必死に宥めると、蘭はぴたりと動きを止めた。

 

「あ、甘えるって……何だか難しいね。恥ずかしいし……」

 

 人の行き交う廊下の真ん中で何をしているのだろうとふと我に返り、蘭は身を縮ませた。寂しいのも我慢出来ないのも嘘ではないが、それをありのままを見せるのはどうも苦手だ。気のせいでなく頬が熱い。

 

「でも可愛かったよ」

 

 コナンは正直に感想を述べた。

 

「もー、大人をからかうんじゃありません!」

 

 少し赤い顔で蘭は言った。

 

「……ごめんなさーい」

 

 コナンはそっぽを向いてぞんざいに謝った。

 

「あー、嫌々言ってるでしょ」

「……だってさ」

 

 その通りだと、コナンはむすっとした声で答えた。

 

「あっそう……さあて、売店で何買おうかな。コナン君の大好きな、レーズンサンドは売ってるかなー」

 

 入口から、伸び上がるようにして中を覗き込み、とんでもない事を言い出した蘭に慌ててコナンは謝罪を繰り返した。それこそ必死の形相で踏ん張り、今にも中に入り込む蘭の手を引っ張って止める。

 

「冗談よ。ゴメンね」

 

 冗談に聞こえないから怖いんだ…泣きそうに怒って睨み付け、それでも女の笑顔一つで許してしまう自分を恨みながらも、コナンは仕方ないと肩を竦めた。

 蘭は、出入りする人の流れを邪魔しないよう脇に寄ると、足をとめた。

 どうしたのかとコナンが見上げると同時に、蘭は口を開いた。

 

「ね…コナン君」

「なあに?」

 

 何か忘れものでも、あったのだろうか。次の言葉を待つ。

 ややあって、蘭は正面を見つめたまま言った。

 

「本当に…教えてくれる?」

 

 何を…聞くまでもない。

 

「ああ…もちろん」

「ついて行っていいって…事だよね」

 

「そうだよ」

「本当に……あ、甘えても…いいの?」

 

「全部受け止めてあげる……二人でね」

「……ねえ」

 

「ん?」

「すごい事言ってるって、自覚ある?」

 

 見上げる蘭の顔は、びっくりするほど赤く染まっていた。

 

「うん、まあ……ちょっとは」

 

 そんなもんかと笑いながらも、コナンの頬も同じくらい赤くほてっていた。

 

「コナン君顔赤いよ……」

「蘭姉ちゃんも赤いね……」

 

 お互いそっぽを向いて言った途端、無性におかしくなり、どちらからともなく吹き出した。

 

「さあ、何か美味しそうなもの見つけよう。コナン君が元気になりそうなもの。早く帰ってこられるように」

 

 蘭は改めて手を握りしめると、売店へと入って行った。

 

「蘭姉ちゃんの選ぶ物なら、何でも嬉しいな」

 

 にこにこと見上げ、コナンは言ってから即座に息を吸った。

 

「じゃあ――」

「――はナシね!」

 

 分かっていると先回りして、大慌てで付け加える。

 

「あ、バレたか」

「お見通しだよ!」

 

 楽しげに笑い合う。

 あと三日もすれば帰れる。

 帰ってくる。

 浮き立つ気持ちそのままに、二人は軽やかに足を弾ませ楽しい物を求めて売店の奥へと進んでいった。

 

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