はじまる場所で

 

 

 

 

 

 コナンは黙ったまま、蘭に寄り添い泣きやむのをじっと待っていた。

 時折冷たい風が吹き抜けたが、コナンには蘭がくれたマフラーがあった。お陰で、寒さはこれっぽっちも感じる事はなかった。

 時折吹き抜ける冷たい風に蘭が寒い思いをしていないだろうかと、ただそれだけを心配する。

 激しかった泣き声は少しずつ鎮まってゆき、ついに深いため息の繰り返しとなった。

 そしてそれも、いつもの穏やかな息遣いに落ち着く。

 小さな児童公園は、また元の静けさに包まれた。

 眦の涙を残らず拭い、蘭はぽつりと口を開いた。

 

「わたしね……嫌だったの」

 

 コナンは星空を見上げたまま喉の奥でそっと頷いた。

 

「あの日…ホテルでコナン君が大怪我した時、ただおろおろしてるだけなのが、嫌だったの」

 

 ただ喚いておろおろして、何も出来なかった自分が心底嫌だった。

 蘭は続けた。

 きっかけを作ったのは自分なのに、何もしなかった…何一つ役に立つ事が出来なかった。

 コナンは軽く目を閉じ、見開いて、正面を向いたまま静かに言葉を渡した。

 

「……それで、眠る間も削って勉強を始めたんだね」

 

 見たのかと的確な言葉に蘭は息も止まるほどに驚いた。

 

「!…コナン君なら…分かるか……」

 

 コナンは瞬き、星空から少し下へと目を移す。

 

「うん、まあ。……蘭姉ちゃんならそう考えるかなって思って。でも、これに気付いたの、随分経ってからなんだ」

 

 蘭は手の中のハンカチを握りしめ続けた。

 

「でもね…やればやるほど、分からなくなって……何の覚悟もなしに勝手についてきて、今更やったって遅いんじゃないかとか、どうせまた同じことの繰り返しになるんじゃないかとか…そんな事考え始めたら、何が何だかわけが分からなくなっちゃって……せっかくコナン君が気遣ってくれたのに、大声出してごめんね。本当にごめんね。心配して言ってくれたのに……」

 

 苦しそうに謝る蘭に軽く首を振り、コナンは気にしてないとそっと告げた。

 

 嗚呼、なんて優しく、勇気のある女だろう。

 だから自分はこんなにも――。

 

 コナンはかたく口を引き結び、笑みほどに緩めて言った。

 

「もう、これだから蘭姉ちゃんは目が離せないんだ」

「ほんとに…ごめんなさい……でももう、あんなの嫌だから…コナン君があんな…だから」

 

 これ以上ないほど身を縮め悔いる蘭に身体を向けると、コナンは励ますようににっこり笑った。

 

「この前も言ったでしょ、ホテルで。迷ったと思ったら絶対その場を動かない事! 必ず迎えに行ってあげるから!……って」

 

 聞いた途端蘭はぐっと息を詰めた。

 

 ああ…そうだった……

 

 また少し涙が滲み、蘭はすぐさまハンカチを押し当てた。

 小さく頷く蘭に微笑みかけ、コナンは繋いだ手にもう片方の手も添えようとした。両手で握りしめたかったが、片方はギプスなのを思い出しこっそり苦笑いして左手を戻す。

 代わりに繋いだ手の親指で女のほっそりした指をさすってやり、言葉を続ける。

 

「しょうがないなあ、もう……しょうがないから、協力してあげる。蘭姉ちゃんの勉強がはかどるように、ボクが教えてあげるよ」

「え……?」

 

 言葉の意味を掴み切れず、蘭は呆けた顔でぱちぱちと目を瞬いた。

 止められる予感があったのだ。

 そこまではしなくていいと、こちらに来てはいけないと。目には見えないがはっきりとした境界があり、そして彼は絶対、そこへ踏み入れさせなかった。

 そのものずばりの言葉を言われた事はない、けれど感じ取ってはいたから、告げる事はせず、隠して進めていた。

 彼はその境界を取り去った。

 もしかしたら、始めからなかったのかもしれない…分からない。

 そして今、二人…三人は新しい道に踏み込んだ。 

 

「ボクが知ってる事は何でも教えてあげる。こう見えてボク、結構すごいんだよ。だから一緒に勉強しよう。一緒に頑張って行こう。蘭姉ちゃん、うんと甘えていいからね」

「ほ…ほんとうに……?」

 

 信じられないと、蘭の瞳が揺れる。

 しっかり目を見合わせ、コナンは頷いた。嘘偽りなどない。自分はこの女を連れていくと決めたのだ。もう引き返せない。この道を進もう。

 ここにいる三人で。

 

「だから、これだけは約束して。ボクは絶対蘭姉ちゃんの傍を離れないから、蘭姉ちゃんも、ボクの傍を絶対に離れないで」

 

 おどおどと揺れ動いていた蘭の瞳がはっと大きく見開かれる。

 これが愛の告白でなくて何だろう。

 蘭は厳かに頷いた。

 

「もう絶対…離れないわ」

 

 隠し事なんてしない。

 星空の下誓う。

 

「じゃあ、乾杯しよっか」

「そうね」

 

 そして二人、晴れ晴れとした顔でそれぞれの缶ジュースを手に取る。

 が、コナンはギプスで払う形で膝から取り落とした。問題なく使えるつもりで手を伸ばしたのがいけなかった。今は掴むどころか、乗せるのも危ういのだ。

 しまったと思った時には、ごとりと膝から落としていた。

 砂まみれになったオレンジジュースを慌てて拾い、二人はくすくす笑いながら近くの水道で洗い流すと、改めてベンチに腰掛けた。

 蘭は自分で、コナンのは蘭が代理で蓋を開け、それぞれ手に持つ。

 

「さ、乾杯しよっか」

 と蘭

 

「何に乾杯するの?」

 とコナン。

 

「もちろん、生きてる事に」

 コナン君と新一と私

 

 二人は揃って缶を掲げ、生きている事にお互い感謝してひと口飲み込んだ。

 そしてどちらからともなく目を見合わせ、またくすくすと笑い合う。

 

 

 

 ひと口…ふた口…何も話さない方が返って心地よい静寂と一緒に、缶ジュースをゆっくり味わう。時折ほっと小さくため息を交えながら、蘭は穏やかに星空を眺めていた。

 そんな中、ふと些細な疑問が頭を過ぎった。

 

「……そういえばコナン君、どこから電話してきたの?」

「ああ……ボクの携帯電話からだよ。この前高木刑事が持ってきてくれたんだ。厨房にあったの、見つけてくれてね」

 

 一旦缶を脇に置いて、コナンはポケットから取り出して見せた。

 

「まあ……」

 

 差し出されたそれに蘭はわずかに顔をしかめた。

 全体にまんべんなく傷が走って、見るも無残な状態になっていた。

 

「咄嗟に放り投げちゃったからね…問題なく使えるだけマシだよ」

 

 ストラップはどっかいっちゃったけどね…結構気に入っていたのにと、コナンは少し残念そうに言った。

 

「そっか……じゃあ退院したら、一緒に買いにいこうか」

「うん、楽しみにしてる」

 

 にっこり答えて、コナンは再び缶ジュースを手に取った。残りはもうあとわずか。飲み終えたら、すぐに病院に戻らねば…分かってはいるが、このまま蘭と一緒に『居候先』に帰りたい気持ちが切なく募る。

 今は考えまいとコナンは即座に頭から追い払った。

 あと数日もすれば帰れる、間違いなく帰れるのだ。

 あとほんの少し、待てばいい。

 コナンは残りをひと息に飲み干すと、そう言い聞かせ頷いた。

 

「……ごちそうさまでした」

 

 ほぼ同時に、蘭もコーラを飲み終える。

 コナンはちらりと見やった。

 蘭も同じく、目配せした。

 しかし、どちらも動き出す気配はなかった。

 騒ぎにならない内に、気付かれる前に、戻らなければならないのはわかっていてもしかしどうしようもなく離れがたかった。

 じゃあ…やけに喉に絡む声をどうにか絞り出し、コナンは振り切るように明るく言った。

 

「ボク…戻るね。夜中にゴメンね、蘭姉ちゃん」

 

 ベンチからおりたコナンを追うように、蘭も立ち上がった。

 

「私は大丈夫……コナン君こそ――本当にありがとう」

 

 双方、少し泣きそうな笑顔で名残惜しく見つめ合う。

 今日もまた、後で会える。

 

「じゃあお休み」

 

 だから何でもないと潔く踵を返す。

 

「あ…待って」

 

 と、間際に蘭が引き止めた。

 どこか切羽詰まった声。

 

「どうしたの?」

 

 コナンは行きかけた足を即座に止め、蘭の傍に戻った。

 

「うん、あの……」

 

 少しためらいながら、蘭はその場にしゃがみ込んだ。一瞬だけコナンを見やりすぐに俯く。

 

「あの…あのね……、今日からちゃんと寝るから、もう心配かけないから…その、コナン君……」

 

 そしてひどく照れながら額を指差す。

 何を言いたいのか、どうしてほしいのか。その仕草で理解したコナンは、ふと笑いかけると一歩進み出た。

 

「ずっと蘭姉ちゃんの傍にいるよ……」

 

 そして誓いの言葉を口にする。

 

「え……」

 

 予想していたのと違う言葉を耳にして、蘭は俯いた顔を上げた。

 同じタイミングでコナンは唇を寄せ、小さく開かれた女の唇をそっと塞いだ。

 

「!…」

 

 蘭は驚いて目を見開いた。

 一度大きく見開かれた瞳は静かに閉じられ、コナンが顔を離すと同時にまたゆっくりと開かれた。

 

「これでもう大丈夫。二人分だから、よく利くよ」

 

 赤い顔で言っても、間抜けなだけだろうが…開き直る態で、コナンは自信たっぷりに告げた。

 蘭は半ば無意識に唇に手をやり、少しのぼせた少し呆けた顔でうんと頷いた。

 

「じゃあまた明日…あ、今日だね。お休み、蘭姉ちゃん」

「……お休み、コナン君」

 

 手を振り去っていくコナンに振り返し、よろけるようにして蘭は立ち上がった。

 その後しばらく、蘭は夢現の中にいた。

 やがてぶっきらぼうな足取りで帰路に着く。

 唇に残る柔らかくあたたかく甘い感触は、夢ではない。

 

 オレンジジュースだ……

 

 小難しい顔でようやく突き止め、ならば向こうはコーラかと一転して顔中とろけさせる。気を抜くと今にも叫んでしまいそうで、蘭は慌てて指先で口を押さえた。

 それがまた思い出すきっかけになり、家に帰り付くまでの間、蘭は顔をしかめたり緩めたり忙しなく百面相を繰り返した。

 それを見下ろして、呆れたように祝福するように星空が煌めいていた。

 

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