はじまる場所で

 

 

 

 

 

 小五郎の高らかないびきを壁越しに聞きながら、蘭は机に向かってじっと座っていた。待っていた。机の両脇、山のように積み上げた分厚い専門書の間、谷間になった机の上に置いた携帯電話が鳴り出すのを、じっと見つめて待っていた。

 片目で電話の時刻表示を、片目で置時計をそれぞれ見やる。

 家に帰り付いてすぐ、部屋の時計を秒に至るまで正確に合わせた。

 

 11:59:45…46…47…

 

 どちらもぴったり、夜中の十二時に向かって進んでいた。

 一秒ごとに鼓動は高まり、耳の奥がぼうっと腫れ上がる。それでいて物音には敏感で、窓越しの些細な風の音さえ聞き取った。

 

 11:59:56…57…58…

 

 今にも心臓が止まると息を飲んだ瞬間、軽やかに電話が鳴りだした。

 

「!…」

 

 蘭は目を見開いた。すぐさま指をボタンにかけるが、不意に怖くなって動けなくなる。

 この瞬間をずっと待っていた。

 食事を飲み込むのが難しくなるほど。

 何度も動作が止まってしまうほど。

 時計ばかりを気にして、瞬間が訪れるのを待っていた。

 ただ声が聞きたい。

 声を聞きたい。

 ついにボタンが押される。

 

『あ、蘭姉ちゃん』

「……うん」

 

 間を置かず聞こえてきた愛くるしい声。全身が瞬く間に熱くなる。蘭は目を閉じ喉の奥で頷いた。

 

『悪いんだけど、ちょっと下までおりてきてほしいんだ。あそうだ、あったかい恰好、してきてね。外は結構寒いよ』

「……え? こ、コナン君?」

 

 聞こえてきた言葉に耳を疑う。

 

『コートとマフラー、絶対だよ。じゃあ下で待ってるね』

 

 念を押し、コナンは通話を切った。

 呆気なく切れてしまった通話を聞いても電話を耳から離せず、蘭は唖然としたまま正面を見つめていた。

 唐突に我に返り、まさかそんなと疑いながらも身支度を整え玄関を飛び出す。

 半ば無意識に手に取ったマフラーを乱雑に首に巻きながら階段を駆け下りると、そこに、コナンの姿があった。

 

「コナン君……」

 

 当り前のような顔をして立っている少年に目を見開き、蘭は呆けたように名を呼んだ。

 右手を小さく上げ、ガードレールに寄りかかるようにしてコナンが立っている。ジャケットの袖口から、入院患者の証であるグリーンのネームバンドがちらりと見えた。

 

「何してるのこんなところで!」

 

 慌てて駆け寄りしゃがみ込むと、蘭は両肩を掴んだ。

 マフラーにジャケット、ズボンもきちんとはいている。これなら多少寒くても大丈夫だろう。

 しかし問題はそこではない。

 

「病院抜け出してきたの?」

 

 信じられないと裏返った声で目をむく蘭の剣幕をものともせず、コナンは左腕に抱えるようにして持っていた二本の缶ジュースを蘭に見せた。

 

「蘭姉ちゃん、コーラとオレンジジュース、どっちがいい?」

 

 のんきな物言いに更に目を見開く。

 

「……はあ?」

 

 もう、何が何だかわけが分からなかった。

 

「コーヒーはさすがに怒られちゃうと思って、やめたんだよ」

 

 えらいでしょうと、コナンは笑った。

 呆れて物が言えないとは、まさにこの事だ。蘭はぐるりと目を回し、がっくりとうなだれた。

 そんな蘭の肩を優しく支え、コナンは静かに口を開いた。

 

 

 

 真夜中の町は、しんと静まり返って人影も見当たらず、まるで別の世界を歩いているような錯覚に見舞われる。

 昼間はひっきりなしに車の通る道も今はひっそりと横たわり、街灯のおぼろげなあかりと自動販売機の眩しい光だけが行く先を照らし出しているそんな中を、蘭とコナンの二人は手を繋ぎ歩いていた。

 繋いだ手、その反対側には、少し季節外れの冷えた缶ジュース。

 無言のまま、薄ぼんやりと伸びる道を進む。

 真夜中の散歩。

 言い出したのは、コナンの方だった。

 

 ――ねえ、ちょっとお散歩しようよ

 

 何を馬鹿な事と叱り飛ばして、病院に送り返すべきなのだろう。勝手に抜け出した事が分かったら大騒ぎになる。

 しかし気付けば、引かれる手に連れられて歩いていた。

 この数日離れていた手が、繋がって、伝わってくるぬくもりを感じた途端、あらゆる感情が一気に込み上げてきて離せなくなった。

 自分の事だけを一心に考えていてくれる人のあたたかい手は、ただただ心地良かった。

 蘭は何度も握りしめ、夢ではない事を確かめた。

 同じ数だけ握り返し、コナンは応えた。

 人も車も、誰も見ていないのに規則正しく繰り返される信号の移り変わりを不思議に思いながら歩道を渡り、いくつか越えて、二人はやがて小さな児童公園にたどり着いた。

 予感が現実になった事に蘭は小さく息を飲んだ。

 細かな玉砂利を静かに踏みしめて、コナンはブランコの前にある木のベンチへと進んだ。

 そして先に腰かけると、蘭が座るのをじっと見守った。

 待つ視線に申し訳なさそうに静かに、蘭も同じく腰を下ろした。

 静寂を壊さぬよう、コナンは慎重に口を開いた。

 

「今日も、綺麗な星空だね」

「ホント……だね」

 

 おずおずと蘭は答えた。

 かつてコナンが、ある覚悟を胸に口にした言葉。

 真実を隠し、真実を明け渡したきっかけのひと言。

 

「余計な心配させてごめんね。乾杯したらすぐに帰るから」

 

 だから大丈夫だよと、コナンは明るく笑いかけた。

 

「遅くなっちゃったけど、やっぱりしとくべきだと思って。ここで」

 

 コナンはぐるりと辺りを見回した。

 三人で歩き出したはじまりの場所を、ゆっくり見回した。

 

「まだ…ちゃんと三人揃わなくて申し訳ないんだけど、今回の事があったからさ」

 

 蘭は小さく首を振り、膝に置いた片手の缶ジュースに目を落とした。

 

「なにに…乾杯するの?」

 

 聞かずとも答えは分かっていた。

 

「もちろん、生きてる事に」

 

 軽やかに紡ぎだされたそれを聞いた途端、蘭はかたく目を閉じ息までも詰めた。

 

「……蘭姉ちゃん、ここなら大丈夫だよ」

 

 どこまでも優しい囁きにしゃくり上げ、蘭は強く首を振った。

 

「今はボクたちだけしかいないもの」

「こ、コナンく……」

 

 女の目から、こらえにこらえた涙がひと粒零れ落ちた。

 コナンは左腕に抱えた缶ジュースを膝の上に転がすと、胸ポケットに入れたハンカチを左手の薬指と小指で何とか挟み、引っ張り出した。そしてギプスの手に乗せて蘭に差し出す。

 

「はい、使って」

 

 こくりと頷いて受け取る。

 

「ごめんね…ちょっとだけ……」

 

 奥歯を食いしばり、蘭は呻くように言った。

 

「ゆっくりでいいよ」

「でも……コナン君が困るから……」

 

「うん、でも…我慢されるともっと困るんだ。だから……」

 ゆっくりでいいよ

 

 耳にするりと滑り込んだひと言がきっかけとなり、涙が溢れる。

 

「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん」

 

 痛いほど強く手を握りしめてくれるコナンに縋って、ついに蘭は声を上げて泣き出した。

 

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