晴れる日もある
「………」 ぎこちなく首を動かし、少年を見つめる。 何故と問い掛ける事も出来ず、ただ見つめるしかなかった。 「もらった金は、返すから」 ほとんど抑揚のない声で言い放ち、肩から下げた鞄から封筒が取り出される。 付き返されるのはこれで二度目だ。 男は受け取ろうとしなかった。 構わず朔也はダッシュボードの上に置く。 そしてシートベルトを外し、ドアを開けた。 一刻も早く、男の前から消え去りたかった。 「ま……待ってくれ」 辛うじて声を絞り出す。 引き止められて、素直に動きを止める。そんな自分に内心驚く。 男は言葉に詰まった。何か伝う言葉があったわけではない。 二度と逢えなくなるのが怖くて、反射的に引き止めただけだ。 動きを止めた背中へ、男は途切れ途切れに言葉を綴った。 もう一度だけ逢ってほしい と。 こんな事を言う自分自身に目眩がする。 今までは、その台詞を言われる側だった。 まさか自分が言う側になるとは、夢にも思ってもいなかった。 それも、十以上離れた少年になんて。 それだけ、求めるものがあった。 情けないと思ったが、それ以上に必死だった。 この気持ちが激しさが想いがどこからくるのかわからない。 ただ、ただひたすらに離れたくないと思った。 彼はこたえない。 沈黙が長引く前に、少年は車を降りドアを閉めた。そして振り返らぬまま、人込みに紛れ改札へと消えていった。 男は深く息をつき、ダッシュボードに置かれた封筒に一瞥をくれ首を振った。 片手で額を押さえ、シートに身体を預ける。 低く呻き男は笑った。 |
男は日常に戻った。 戻ろうとした。 今までと同じ生活を繰り返す。 思いのほか簡単な事だった。 出会いや内容はどうあれ、金の絡んだ行為は、また別のものを見付ける事が出来る。 相手は別に、誰でも構わないのだ。 もちろん、好みはまた別の問題だが。 とにかく、全力を傾けねばならぬほど困難なものではなかった。 彼を忘れるという事は。 あっという間にはがれ落ちた記憶を吹き飛ばし、男は日々を過ごした。 一日、また一日と。 男自身気付かぬ想いを重ねて。 週の半ばを過ぎた頃、びっくりするほど些細なミスを繰り返す自分に気付き苦笑する。 どれも直前で気付きまた容易に修正できるものだったから実際には支障をきたさないものの、自分とは思えないほど単純な過ちに苛立ちが募る。 耳の奥で、何かがうるさく囀っている。 男はそれをあからさまに無視した。 完全に消し去る事など出来はしないのに男は何度も何度も繰り返し声を追い払った。 苦しかった。 忘れたくてやっているのではないからだ。 翌日。 朝から、晩まで。 眠る直前まで。 男は朔也の事を考えていた。 救いたいとか、力になりたいとかそんなんじゃない。 ただ傍にいたいのだ。 声を聞きたいのだ。 積極的に話をしてくれた事はない。 それどころか、目線すらまともに合わせた事はない。 それでも傍にいたいのだ。 あの、少し落ち着かないような、言葉に出来ない淡い感覚に、ゆったりと浸っていたいのだ。 ただ、傍にいてそれだけをする。 これは、一体なんだろう。 ここまで、誰かを欲した事はない。 何でも、意識するより前に傍にあった。 真剣に、心から、何かを欲しいと思った事がない…今この瞬間まで。 そして今この瞬間、真剣に、心から、朔也が傍に居てくれればいいと思った。 棚のガラス戸を開けて、中にある琥珀色の酒を取り出す。 水で割らず流し込んでも、喉がひり付くだけで酔えはしなかった。ひどく不快な頭痛に苛まれるだけで、感覚が麻痺する事はなかった。 逆に声が鮮明になっていくだけだった。 散々拒んだ声に、男は素直に耳を傾けた。 そうすると不覚にも目の奥がじわりと滲んだ。 バスルームにこもり、男は声を殺して泣いた。 翌日。 約束の日。 リビングのテーブルに、昨日の醜態が丸々残っているのを見やり、男は苦笑を浮かべる。 その眼差しは昨日に比べ落ち着いていた。 色々な想いが、胸の中で渦巻いている。 彼は、返事をしなかったのだ。 恐らく、来る事はないだろう。 もし、逢えても今日で最後になる。 覚悟は出来ている…嘘だ。 逢えなくてもいいとは思っていない。 どうしても逢いたい。 けれどもし逢えなくてもそれでも、終わりを確かめるだけの覚悟は出来ている。 そうだろうか。 時間になれば、嫌でも答えはわかる。 男は家を出た。 心を決めかねた男に罰を与えようというのか、その日は予期せぬトラブルの連続だった。 修正する作業は単純で、しかし殊の外時間を要した。 それでも、何とか時間内に終わる兆しを見せ始めた頃、同様の問題が起こった。 耐え切れず時計を見やる。 明確な絶望感に見舞われたのは、これが初めてだった。 無意識に首を振る。 ミスを修正し、今日中に取るべきデータをまとめ終えた頃には、既に待ち合わせの時間を三十分も過ぎていた。 退出の挨拶もそこそこに会社を飛び出し、車を走らせる。 憐れにも、週末に浮かれいつもの倍以上道は混み男の行く手を阻んだ。 即座に裏通りを選んだが、そこもやはり渋滞していた。 絶望感が心に重く圧し掛かる。 駅に通じる直線道路に出た時、男は、何の為に車を走らせているのかわからなくなった。 少しだけスムーズになった流れに乗って車を走らせ、いつも停めている場所に車を寄せる。 だが、窓から外を見る事は出来なかった。 待ち合わせの時間から、既に二時間が経過している。 いるはずがない エンジンを止めたことで静まり返った車内で、男は笑い、小さくため息をついた。 と、誰か人影が近付いてくるのが目の端に映った。 違反を咎められるのかと、キーに手をかけ顔を向ける。 男は目を見開いた。 ドアの前に立っていたのは朔也だった。 |