晴れる日もある

 

 

 

 

 

 ベッドに腰をおろした男の前で、少年はゆっくりと跪き、熱く滾る男のそれに口を近付けた。
 触れる寸前、男はぐっと息を詰める。
 少年は慣れた動きで舌を絡め、強く弱く愛撫する。
 男は僅かに身じろぎ、口淫にふける少年の顔を見下ろした。
 柔らかな唇が、自身のそれを激しく扱いている。
 唾液に濡れてぬらぬらと赤黒く光る己のそれと、彼の朱い唇との差が言い知れぬ興奮をもたらした。
 満足させるのに充分すぎる技巧と、目にする美醜との差に、男の息が上がる。
 今まで、どれだけの人間をこうして満足させてきたのだろう。
 彼の指の動きや、舌使いの巧みさに、ちくちくした疑問が生じる。
 それをかき消すかのようにわざと音を立てて吸われ、耳の奥を擦る猥雑な響きに男は仰のいた。

「ん、ん……」

 かすかなため息をもらし、口の中へ熱いものを解き放つ。
 我ながらあっけないとは思ったが、彼を前にしてはひとたまりもなかった。
 それに。
 身体を重ねる度、彼の虜になっていく。
 あれだけ懊悩した事などすっかり忘れてしまったように。
 完全に忘れたわけではない。
 だが彼の本当の望みがまったく別のものだとしても、こうすることが、間違いというわけでもないだろうとさえ思ってしまっている。
 それだけ、のめり込んでいる。
 彼のすべてのものに。
 我を忘れるほど夢中になって、何を置いても彼を一番に考え、どうすれば喜んでもらえるかとか、何を言えば嬉しいだろうかとか、そればかり考えている。
 そんな情けない部分が自分の中にもあったのだと呆れつつも、満更でもないと思う。
 なんでもいい。
 ただ、彼の声が聞きたい。
 普段は過ぎるほど美しく整っていて、凍り付いたようにほとんど変わらない彼の表情が、この時だけは多彩になる。
 それが、見たい。
 悦ぶ様を、もっと見たい。
 あの嫌悪が気のせいだと思えるくらい、自分の中でもっと乱れて欲しい。
 薄れ掛けた眼差しを思い出した途端、男の胸にちくりと痛みが走った。
 男のものをくわえ込んだまま一滴も零さずに白液を飲み下す喉の動きが、達した事で一度は収まった男の熱を再び刺激する。
 口中で徐々に変化をはじめたそれから口を離し、先端をぺろりと舐める。
 目を上げた時、見下ろす双眸とぶつかりあう。
 腕を引かれ、素直に立ち上がって唇を重ねる。
 男は片手を少年の背中に、もう一方を下腹に伸ばし、口付けたまましっかりと抱き寄せる。
 手中に彼の熱を捕え、瞬間ひくりと反応する様に愛しさを覚える。
 触れたそれは、溢れる雫に濡れていた。
 絡めるようにして手指を這わせ、上目遣いに彼の様子を窺いながら段々と力を強めていく。

「あ、ん……あ」

 僅かに仰のき、熱い吐息を途切れ途切れ漏らす彼に、男はかすかなため息をもらした。
 与えられる刺激に翻弄され、困惑に似た表情で眉根を寄せる様は、妖しくも美しくさえあった。
 時折ふるりとわななく彼のそれはもう果てそうにかたく張り詰めて、とめどなく雫を溢れさせ男の手指をねっとりと濡らした。

「もう、いいなら……入れて……」

 両手でしっかりと首にしがみつき、しゃくり上げるようにして朔也はねだる。
 背筋がぞくりと震える。
 腰にまわした手をおろし、彼の小さな口に触れてみた。

「ん……」

 ただ触れただけでもたまらないのか、とろけそうに甘い声が耳に流れ込む。
 しばらく口の周りを弄繰り回し、びくびくと震える身体と、掠れた嬌声に恍惚を味わう。

「や……も、う……」
 入れて…後ろに

 また、ねだられ、男はふっと口端を緩めた。
 顔を上げ、絶え間なく吐息をもらす唇をそっと塞ぐ。

「ん、う……」

 物足りなさを訴えるように、激しく絡み付く彼をあやし、自身のそれに手を添えてゆっくりと挿入を始める。
 直後、彼の表情が苦悶のそれに変わる。
 お互い、充分に濡れているとはいえ、やはり苦痛は免れないだろう。
 男は決して、彼を傷付ける真似はしなかった。
 だがこの時も、これまでと同じように彼の方から身体を裂いていった。
 いくら慣れているとはいえ、目にする表情はとてもじゃないが痛々しくて見ていられない。
 せめて自分に出来る事は、苦痛が紛れるように彼自身を慰めるくらい。
 柔肉を圧す感触は、えもいわれぬ快感。
 胸を痛めながら味わう愉悦は、十二分に男を満足させた。
 戸惑いも吹っ飛んでしまうくらい。
 ようやく総てが収まり、彼の方も痛みに慣れた様で、そこでようやく両の目が開かれる。
 にじむ涙に濡れた黒い瞳にまっすぐ見据えられ、その弱々しい眼差しに、昏い欲望が頭をもたげた。
 彼を傷付けてはいけないのに。
 決して、傷付けはしない。
 これは彼が望んでいるもの。
 彼が喜ぶもの。
 決して、傷付けたりはしない。
 腰を掴んで浮かせ、スプリングを利用して下から激しく突き上げる。

「あ――」

 内壁を強く擦られ、朔也はたまらずに仰け反った。
 癖のある柔らかな髪が、男の動きに合わせて揺らされる。
 突き上げる度に、朔也の口から切なげな吐息がもれる。
 全身を貫く官能に、男は目の前の肌に唇を這わせ愛撫した。
 ついばむような口付けがよほどたまらないのか、朔也は男を飲み込んだそこを繰り返し小刻みに締め付けて愛撫を返した。
 強く弱く、絶妙なリズムで収縮を繰り返す朔也に男は低く呻く。
 限界が近い。
 いつも、行為の後で軽い自己嫌悪に陥る。
 彼とのセックスで我慢できた試しがないからだ。
 決して欠陥があるというわけではない。
 女を相手にする時は、彼女たちの快感を長引かせる努力を、しようと思えばできる。自分の意思で射精を先延ばしにして、ねだる言葉が出るまで己を制御できる。できたはずだ。
 それが、彼を前にすると途端に立場が逆転する。
 辛うじて、彼の後に射精を迎えているが、それはどこか、彼にコントロールされてもいるように思えるのだ。
 本当に彼は、満足感を得ているのだろうか。
 自分に抱かれる事に、悦びを感じているのだろうか。
 乱れる息を飲み込んで、男はじっと彼を見つめた。
 陶酔しきった表情で、女が上げるよりもずっと艶かしい嬌声を振りまいている。
 全身はしっとりと汗ばみ、匂いさえ伝わって。
 そして先端からは、悦びを表す涙よりも透明な雫が湧き出し、お互いの下腹を濡らしている。
 これ以上ないほどにかたく反り返り、時折ひくひくとわななくそれを、男は優しく、きゅっと包み込んだ。

「あっ……」

 びくんと全身を弾ませ、少年は甘く鳴いた。
 より強く、男を締め付ける。

「あ……い、い……」

 そうもらして自ら腰をくねらせる。
 目の前で妖しく身悶える様に、男はますます快感を募らせた。手中に捕らえたそれを弄ぶ。

「は、あ……あぁ……」

 燃えるように熱い手で優しく撫で回され、抱きしめられて、少年の不安が更に深まる。
 不安ではなく、それはもう不快感だった。
 男に抱かれている事が、ではない。
 本当は、とっくに逢う事をやめていなければならないのだ。
 それが、二度も、三度目も、逢う事をやめられなかった自分自身に怒りと不快を抱く。
 今日で終わりを告げようとしても、踏ん切りはつかず、もう一回だけ、もう一回だけと、言葉を飲み込み逢瀬の約束を交わす。
 取り返しのつかない事になると、わかっているのにどうしてもできない。
 男の手は誰よりも優しい。
 うつろな自分でもそれはわかる。
 だからもう逢いたくない。
 唐突に、腰の深奥から凄まじい快感が込み上げてくる。

「あぁ……もう、いく――」

 少年は髪を振り乱し絶頂が近い事を男に告げる。
 男は応え、誘うように力強く何度も突き上げを繰り返す。
 叫びを噛み殺し、少年は精を放った。
 間を置かず、男も果てる。

 互いの息が整うまで、二人は繋がったまま抱き合っていた。
 行為の最中とはまた違った至福感が、優しく二人を包み込む。
 男は、できるならこのままずっといたいと思っていた。
 無論、少年も同じだった。
 けれど、先に腕をほどいたのは少年の方だった。
 ゆっくりと腰を上げ、静まった男のそれを身体から引き抜く。
 一つだったと思い込んでいた部分が急速に冷えていく。
「先に、シャワーを浴びてくる」
 男は頷き、少年の首に腕を回し今一度口付けを求めた。
 少年は拒む…出来なかった。引き寄せられるまま身体を寄せ、初々しい恋人同士のように接吻する。
 何の前触れもなく、目の奥が熱くなった。
 少年は狼狽し、慌てて身体をはなした。
 驚く男の眼差しに耐え切れず、早足でバスルームに向かう。
 思い切り栓をひねり、冷水を全身に浴びる。
 そしていつものように、身体の奥に残った熱の残骸をかき出した。
 無造作に指を突っ込んで、男が吐き出した熱をかき出す。
 指を伝って流れ出た、どろりとした白液がタイルの上に滴る。シャワーの雫に急かされ排水溝へと追いやられるそれを、少年はじっと見つめていた。突っ込んだ指先に、もう残っていない男の熱を感じた気がして、少年は微かに呻いた。
 今の今まで、ここに男を迎え入れていた。
 もう二度と感じる事はない。
 それを、少年は恐ろしいと思った。
 こんな気持ちが芽生えるまで行為を繰り返した自分を激しく罵るが、何の意味もなかった。
 もう、気持ちは生まれてしまったのだ。
 どうやっても、殺す事は出来ない。
 恐怖のあまり呼吸が乱れる。
 がっくりと膝を折り、少年はタイルの上に崩れた。
 涙も、声も出せず、少年は嗚咽に肩を震わせた。
 どうしたらいいかわからない。
 こんな気持ちになった事はない。
 何かに縋っていたい。
 どこかに落ちていきそうになる自分を強く抱きしめてもらいたい。
 そうして、どこにも行かなくていいと言ってほしい。
 朔也は首を振った。
 全て、自分が望んではいけない事だろう。
 ああ駄目だ。もう、気持ちは生まれてしまった。
 消すには遅過ぎる。
 きつく目を閉じ、声にならない声を上げる。

 車中の二人はこれまでと同じく無言だった。
 けれど男はそこに、いつもと違う違和感を嗅ぎ取る。
 少年の顔はいつも以上に強張り、ともすれば嫌悪を浮かべてさえいるようだった。
 やはり、気のせいではなかったのだ。
 男の表情が険しくなる。

 

 

 

 昼に待ち合わせをし、レストランで食事をする。
 本当ならそこで、他愛もないお喋りをするのだろう。
 けれど自分達は、お喋りをしながら食事を進めた事がない。
 いつもこちらが一方的に喋り、少年はほとんど口を開かず頷いたり首を振ったりするだけ。
 そんな素っ気無い風景。
 他人には、とても楽しいものとは思えないだろう。
 正直、自分も楽しいと感じるものはなかった。
 人が聞けば鼻で笑ってしまうだろうが、ただ彼と過ごすだけで満足なのだ。
 笑う事はおろか、口を開く事さえ滅多にない彼と過ごすことが。
 彼はほとんど表情を変えない。
 美しく整った顔。
 目の前から消えてほしくなくて、あらゆる言葉で彼を繋ぎとめ過ごす時間を少しでも長くする。
 ほとんど表情を変える事のない彼の前で。
 それが今日は、少し違った。
 私が、不快を表すのを感じ取ったのか、彼は自ら笑う事を極力抑えていたが、今日に限って何かの折にふっと笑顔を浮かべるのだ。
 その瞬間を思い出すと、背筋が寒くなる。
 彼の笑顔を嫌う者はきっといないだろう。
 巧みに作られた、無邪気な笑顔。
 けれどその時は、嫌悪を表しているとしか思えなかった。
 この場にいて、自分と話しているのが不快だと訴えているようにしか受け取れなかった。
 腹の底が凍り付く思いだった。
 食事を終え、少年から誘われて更に混乱は増す。
 それでも、全裸で抱き合えば不安はいっぺんに吹き飛ぶ。

 

 

 

 一度は忘れた恐怖が、ここにきて蘇る。
 男はハンドルを強く握り締めた。
 どこにもたどり着かなければいい。
 この時がこのまま続けばいい。
 どうか、何も変わらないでほしい。
 虚しく祈る。
 路地を通り抜け、大通りに出る。
 いくつか信号を過ぎれば、目的地にたどり着く。
 もう、前方に見えている。
 渋滞もなく、車はスムーズに進む。
 駅前の、右折の信号前で一旦停まる。
 ややあって、再び発進した時、少年はおもむろに口を開いた。

「もう、逢いたくない」

 車は滑らかに右折し、ガードレールの途切れた位置で停車する。
 いつものように、いつもと違う。
 車中には、無表情で俯いた少年と、呆然と前方を見つめる男が乗っていた。

 

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