晴れる日もある

 

 

 

 

 

 寒空の下、朔也はマフラーも手袋もつけず、薄手のコートだけを着てぽつんと立っている。
 男は慌てて車を降りると、回り込んで傍に立つ。
 暗くて車中からはよく見えなかったが、彼の顔には苦悶の色がありありと浮かんでいた。

「俺の事…怒ってる……」

 それは問いかけではなく、語るものだった。
 決め付けとはまた違う響き。罰を受け、何故そうなったのかを語るものだった。

「もう逢いたくないと言ったから、俺の事怒ってる……」
「いや……そうじゃない」

 男は即座に首を振った。
 余りにも憐れで、見ていられなかった。
 彼の誤解を一刻も早く解こうと説明するが、遅れた理由は単なる言い訳にしかならなかった。

「……君の事を怒っているわけじゃないんだ」

 仕方なく、この言葉だけを繰り返す。

「とにかく、車に乗って」

 背中に手を添えて促す。
 束の間ためらい、シートに身を沈める。
 扉が閉まり、二人に沈黙が降りかかる。

「手袋もなしに……冷えてしまっただろう」

 剥き出しの手を温めようと、男は身体の向きを変えた。
 直後、向かってくる手を恐れて少年は顔を庇った。

「………」

 男は驚いて手を止めた。
 剥き出しになっているのは手だけではない。
 心も、今は全て露わになっている。
 この一週間、苦しんだのは少年も同じだった。
 何が起こるかわからない場所に、自分をさらけだそうとするのだから、並みの苦しみではない。
 大抵の事は慣れていた。
 痛い思いも散々した。
 けれど気持ちだけは、どうしても慣れる事が出来なかった。
 いつも自分を脅かすのは気持ちだった。
 自分や、他人の。
 様々に絡み合う気持ちが、いつも自分を脅かす。
 頭のいかれた汚い子供までも、執拗に追ってきて脅かすのだ。
 苦しめられ、諦めを押し付けられて更に苦しみは増す。
 仕方ないのだと思う事すらなく、生まれた時から繰り返される蹂躙を受け入れてきた。
 自分の周りにはそれだけだった。
 ずっとそうだった。
 そこにある日、男が現れた。
 今まで誰も言わなかった事、教えなかった事を男は口にする。
 一番、逢いたくなかった人種だ。
 男といると、今までどうでもよかったものが次々と気になり出して、必要以上の起伏はただ不安をもたらす。
 だというのに、ここに来た。
 自分は、もう逢いたくないと言った。
 男は、もう一度だけ逢って欲しいと言った。
 こたえなかった。
 その時は、もう二度と逢わないと思った。
 けれどここにいる。
 怖くて逃げ出す。
 忘れようとする。
 どちらも恐ろしく、どうすればいいかわからなくなる。
 咄嗟に庇った腕をのろのろとおろし、胸の詰まる想いに肩を上下させる。
 自分が悪いのはわかっているが、男の車が見えた時、安堵した。
 顔を見て、よりはっきりと味わう。
 傍にいるのも恐ろしいと思う人間の顔を見て、嬉しいと思ったのだ。
 不安は消えていない。
 来るべきじゃなかったと後悔もしている。
 けれど…けれどそれ以上に逢えて嬉しいと思うのだ。

「手に触っても、いいかい?」

 男は静かに言った。
 何をしようというのか分からない。が、覚悟を決めて頷く。
 男はただ優しく、手を包み込んだ。
 とてもあたたかい手に、心のどこかがぎくりとする。

「こんなに冷えてしまって……済まない」

 ゆっくりと目を動かして男の顔を見る。
 この男は、謝ってばかりだ。
 そんな風に言われる資格もない人間に、心の底から詫びている。
 両手に包まれて初めて、自分がどれだけ冷たい空気に晒されていたかを知る。
 男の手は、とても気持ちが良かった。
 触れた場所から、自分の思い込みかもしれないが優しいものが伝わってくるそんな気がした。
 小さく、ため息をつく。
 車の中は物音一つしない。
 座ったきり前だけを見ていたが、ずっと、男の視線が向けられているのがわかった。
 互いの心臓の音、血管を流れる血の音まで、聞こえてきそうな沈黙。不快ではなくむしろ。このままでいる方が安心できる穏やかな静寂。
 ほんのわずか、男の顔が俯く。それからややあって、影を重ねるように男が覆い被さってくる。
 素直に顔を上げ、唇を受ける。
 外からの頼りない灯りに照らされた、近付いてくる男の頬に、光るものが見えた気がした。
 胸が弾む。
 心から、綺麗だと思った。
 お互い唇を閉じたままの接吻。
 顔が近付いて、口付けを終えるまで、呼吸に合わせて瞬きを繰り返す瞳を覗き込み、男は気まずそうに顔を背けた。
 遠ざかる顔を追って朔也は身を乗り出す。
 特別感情が動いたわけではない。
 極自然に身体が動いて、もう一度唇を重ねる。
 少し身体を引くと、驚いた男の顔が目に入った。
 心底驚いて、唇が何か伝いかける。

「許してもらえるなら、何でもする」

 それを遮る形で朔也は告げる。
 不安は消えていない。
 けれど、不安を押しやるくらいの強い感情が、今はある。
 きっと一生、不安が消える事はないだろう。
 いつか後悔する日が来るかもしれない。
 嗚呼この瞬間でさえ、後悔は渦巻いている。
 恐怖と共に。
 だからといって、繋いだ手を自ら振りほどく事は出来ない。
 目を伏せ、束の間の沈黙の後、男は口を開いた。

「済まない……」

 何を謝っているのかわからず、じっと目を見る。
 それからまたしばらく沈黙が続いた。
 何を伝うべきか迷っていた。
 男の内面で激しく揺れるこころは、朔也に理解の出来ないものだった。長い間貪欲で純粋な欲望ばかりが向けられ、崇拝にも似た目に晒されてきた。間違いや歪みをそれと知る機会もなく生きてきて、わかれと言う方が無理がある。
 今までなら簡単に切り捨てる事が出来た。
 脅かし、煩わすものから身を守り切り捨てる事が出来た。
 感覚を麻痺させようと意識する事無くごく自然に。
 だから、拉がれた人生でも生きてこられた。
 もしこの、余りにも無防備で無垢なひとがそれまでとはがらりと違う生活を送るとするならば、誰かの護りは絶対必要だろう。
 教え、導かれ、守りたいものを見つけるためには。
 目の前の、男の手が必要だろう。

「私には出来ない」

 わずかに涙を含んだ声で男は伝った。
 朔也に告げ、自分に言い聞かせる。

 もし、この手を、離さなければならないとしたら、それにつりあうだけの代償を差し出すから、この手が離れない為に出来る事は何でもするから、どうか許してほしい

 他人に背負わせるにはあまりにも大きすぎるものを男は差し出す。
 自分勝手な発言だと自覚している。
 一時の揺れで口にするには随分と無責任な言葉だ。
 自らをも縛る重い鎖を男はろくな覚悟もなく差し出す。
 一人の人間を決めるには、余りにも希薄な覚悟。
 朔也は、男の両手に包まれた自分の手を見た。
 顔を見た。
 両の眼が、苦痛をたたえじっと見つめる。

「この手を離したくない」

 男は呻くように言った。
 決めるのは朔也だ。
 返事を待って、男は口を噤んだ。
 その顔は、まるで初めて好きな人に告白し、返事を待っている初心な少年となんら変わらなかった。
 不安で胸が潰れそうになり、たった一瞬の沈黙さえ怖くてたまらない。
 躊躇っていたのはほんの数秒もなかった。
 けれど、男には永遠にさえ勝る苦しい数秒だった。

「名前を聞いてない」

 何の前触れもなく、口を開く。
 余りに唐突で、また予期せぬ言葉に、男は一瞬何を聞かれたのか正しく理解できず、答えるのに数秒かかってしまった。
 その間、じっと目を見つめたまま黙って待つ。
 身体を重ねた回数は、決して少なくない。
 なのにまだ、男は名乗っていなかったのだ。
 相手の名も知らず少年は身体を開き、名前しか知らない少年を男は抱いていた。
 思えば、奇妙なつながりを続けていた。
 男はそれをやめたかった。
 本当はどうなのだろう。
 金を渡せば済むならそれはそれで構わない。望むままに出そう。しかし、少年は小遣い銭欲しさに要求しているわけではない。
 誰かが始め、勘違いしたまま続いているだけを男は知らない。男に会うまで、相手は誰でも良かった。そして別段金が欲しいわけでもなかった。ただ、誰かが始めて、そういうものだと思い込んだ。それだけだ。
 出せるだけでいい。
 始めにそう告げる。
 からかい半分に同姓を抱いた者、最初から少年目当てだった者、皆が、行為の後、思った以上の満足感に気をよくし出せる以上の金を少年に握らせる。
 本当は金が欲しいわけじゃない。
 ただ、うつろな身体を満たしてほしい。
 相手は誰でもいい。
 誰でもよかった。
 でもこの男は違う。
 うつろな身体を満たしてくれなくても、名前を知りたいと思うだけの揺さぶりをかけてきた。
 だから、自分にとって特別な人を、あれだけ恐れたというのに自ら望んでつくろうとする。
 並大抵の決意ではない。
 その事をまだ知らない男は、少し言いよどみながら自らの名を口にする。

「神取…たかひさ……」

 耳から滑り込んだ名を、そっと呟いてみる。
 何も起こらなかった。
 あたりまえのように身体中に広がり、心を満たして、溶けていった。
 そしてもう一度、心の中だけで繰り返すと、そこで初めて変化があった。
 動揺は真っ先に眼差しに表れた。
 説明のつかない感情の起伏に胸が痛んでも、黒く澄んだ瞳はじっと男を見つめていた。
 表情はほんのわずかも揺るがなかった。
 けれど、包み込んだ手には力がこもる。
 それは、男の気のせいではない。
 手を離したくないと言った男に明確な言葉は告げられなかったが、勘違いかと思えるくらいささやかに力が込められた手が、答えの全てだった。
 仄かな笑顔が少年の顔に浮かぶ。
 ただ頬を緩めただけに過ぎないかもしれないが、男には、笑顔に見えた。
 瞬きする間に消えてしまった笑顔に、男は口端を上げた。
 どちらからともなく顔が近付く。
 直前で少年が何か囁く。
 自分の名前を、囁きを、男は寄せた唇で飲み込んだ。


 今ではなくなった別れの恐怖に涙が一粒零れる。

 

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