晴れる日もある

 

 

 

 

 

 運転席側の扉が閉まった途端、車内に耳障りな沈黙がかぶさる。
 鍵を取り出し、差し込んだまではいいが、目に見えない何かに咎められたように、そこから先指一本動かせない。
 ハンドルを握るもう一方の手のひらに、じっとりと汗が浮かぶ。
 そんな男の様子などそ知らぬ顔で、少年は助手席に身体を預けている。
 男は、沈黙が怖いと思っていた。
 こんな事は初めてだ。
 隣に誰がいようが、一度も自信を失う事はなかった。
 彼の何がそうさせるのか。
 自分は今明らかに、彼から何らかの威圧感を受けている。
 いや、そういうものではない。もっと別の、言葉にする事の出来ない感覚に居心地の悪さを感じている。
 そしてこれは気のせいではない。
 気まずくなって、口を開く。

「足の傷は、もうなんともないのか?」

 前を見据えていた目をぱっと向けて、彼は頷いた。

「あんたに貰った薬のお陰で、もう痛くも何ともない」

 心配はないと微笑む彼の顔を見た時、胸の奥に形容しがたい痛みが走った。
 この子が浮かべる笑顔は相変わらず嘘に満ちていて、見るだけで、嫌悪感が生じる。
 なのに、それとは別の、それよりも激しい感情が、男の胸を貫いた。
 不自然なほど長い間を置いてから、曖昧に頷く。
 時折瞬きを交えながらじっと見つめてくる双眸には、幼稚であるが故の力強さが宿っていた。
 自己抑制の幕で隠しても隠し切れないそれは男を不愉快にさせ、また慄かせた。

 離れがたい視線を無理矢理正面に向け、振り切るように車を発進させる。

 

 

 

 車中の二人はずっと無言だった。
 休日の幹線道路はこみ、あってとても快適とはいえず、目的地にたどり着くまで大分時間がかかった。
 その間、少年の顔はずっと正面を向いていた。
 シートベルトを締め、行儀よく足を揃えて助手席に身体を預けている。
 時折その姿を横目に映し、男は、頭の中でぐるぐると渦巻く自らへの疑問に追い詰められていた。
 彼を見つけ出すまで、自分はただぼんやりと『もう一度逢えたらいいのに』と思っていた。
 もう一度逢って、どうしようというのか考えもせずにただ逢いたいと望み探し出す事に没頭した。
 もしかしたら、逢えるはずはないと自らを嘲笑しながらも誰か一人を無我夢中で探す自分のひたむきさに酔い痴れたかっただけかもしれない。
 ゲームをするのと同じ感覚だ。
 再び逢える確率などないと、高をくくっていたから。
 ……そうだろうか。
 もしそうなら、人ごみの中にこの子を見つけた時のあの痛みはなんだ。
 音も、人も、空気さえも二人だけのものになったと感じたあれが、錯覚だったというのか。
 そうだ。
 それ以外の何者でもない。
 嘘だ。ごまかすな。
 いくつもの疑問に入れ替わり立ち代り追求され、言い訳じみた答えしか思い浮かばない自分にうんざりする。
 知らず内にハンドルを強く握っていた。
 どんなにもっともらしい答えを並べ立てても、自分は頷いてしまったのだ。
 この子の出した提案に、頷いてしまったのだ。

『この分だけ、俺の相手をしてくれる?』

 言い訳などしても、何の役にも立たない。
 彼の望む「相手」とは、身体を好きにしていい代わりに、金を出す人間の事。
 つまり、自分がどう思おうが彼の目に自分はそういう対象としか映っていない。
 ご大層な言葉を振りかざしても、傍目には彼を金で買った人間でしかないのだ。
 未成年者を金で買った犯罪者。
 血の気が引いていく。
 一体自分は何を考えているのだろう。
 静かに、だが確実に頭は混乱していた。

 ただ、食事をするだけだ。
 それ以外は何も、するつもりはない。
 本当にそうか?
 その後はどうするんだ?
 どうせ、抱くのだろう?
 今度はどんなひどい事をするつもりなんだ?

 自分を追及する自分の声に、男は目を見開いた。
 最後の言葉に、何度も何度も否定の声を浴びせる。
 そうやっていくつも積み重ねて、この子に乱暴を働いた自分を消せたらどんなにいいだろう。

 

 

 

 男が向かった先は、港近くの高級ホテルの最上階にある展望レストランだった。
 逆らわず、後について来たはいいが、まさかこういうところに連れて来られるとは思ってもいなかった。
 男の意図するところがわからず、不安で一杯になる。
 だからといって、口を開く事はしないが。
 今まで出会った人間と違うところがあっても、自分は言われるままに行動すればいいだけだ。
 今日は少しだけ、違っているところがあるが。
 朔也自身気付いていないが、心の奥底であることを密かに期待していた。
 それこそ、目に見えないほどひっそりと。

 海が臨める席に案内され、向かい合わせに腰をおろす。
 初めて触れる空気、居心地の悪さに肩を強張らせた。
 だが、朔也の周りに漂う雰囲気は、少しの違和感もなくまわりと調和する。
 自分がどれほど、魅力を持った人間であるか朔也は知っていなかった。
 ただ黙ってそこに座っているだけでも、充分回りの目を引き付けるほど強烈な存在感を持っていることなど、知っていなかった。
 今までただの一度も、それを知る機会がなかった。
 知る必要もなかった。
 ただ一時のぬくもりが得られればそれで良かったし、永久に、変わらず、続くものではない事をわかっているから相手にしてもらえるだけでも感謝すべきもので、相手にしてもらえるならどんなひどい事でも我慢できた。
 自分はただ、彼らの慰み者でしかなかった。
 けれどそれは一方的ではなく、自分の利害と一致するからなんら思うところはなかった。
 それぐらいの事しか、自分は思い付かない。そして役に立たない。
 自分は頭のいかれた、汚い子供だから。
 本当は、やってはいけないのだという事を知っている。
 でも、理解できない。
 こんな自分が、どれほどのものなのか、よくわかっているつもりだ。
 狭い世界で、歪んだ大人の誤った言葉のみを浴びせられて育った朔也は、徹底的に自分を卑下していた。
 けれどそれは朔也が悪いのではない。
 幼い頃は、親だけが真実で、その親が狂っていた。
 ひたすらに蔑まれてそれでも生き延びてきた朔也の拉がれた魂は、あるものを一途に望んでいた。
 決して手に入らないとわかっていて尚望むからこそ、捨て去る事が出来ないものを持っているからこそ、彼はなによりも高貴で美しいのかもしれない。
 やがて料理が運ばれてくる。
 ほとんど会話もないまま食事は進められた。
 お互い、相手の真意を推し量る事に執着し、会話をする余裕もなかった。
 男は主に、誰に対するものかわからない言い訳で心の中が埋め尽くされて、朔也は朔也で、こうした行為をどう受け止めていいのかわからなくて半ば途方に暮れていた。そして段々に膨れ上がる不安に、身を竦ませる。
 どうしてこの男はこんな事をするのだろう。
 何を考えているのだろう。
 こんな時、自分のいる場所がとても脆く感じられる。
 ここにいるのが怖い。たまらなく怖い。

 こんな事をされるくらいなら、泣く事も出来ないほど殴られる方がまだましだ。
 こんな思いをするくらいなら、血を流して倒れている方がまだ……。
 息をするのも苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。
 二人は黙々と食事を進めた。

 やがて食事は終わり、それぞれ、運ばれたコーヒーに各々の嗜好で口をつける。
 結局、会話らしい会話は一言も交わされなかった。
 男は、ミルクも砂糖も入れないコーヒーを一口啜る。
 一方朔也は、ミルクだけをたっぷりと注いだコーヒーに手を伸ばし、熱が身体の奥まで届くようゆっくりとカップを傾けた。
 そのままカップを両手で支え、少しずつ視線を上げて男の顔を見る。

「この後は……どうするの?」

 問われて、動きが止まる。
 男はおずおずと目を向けた。
 本来なら決して見る事を許されない高貴な存在に対して、目を向ける時のように、畏怖と高揚感がない交ぜになった心を必死に落ち着かせながら。
 やっとの事で二人の目と目が合う。
 互いの目に緊張が走る。
 問い掛けた方も必死なら、答えを促されている方も意識を保つので精一杯だった。
 先刻まであんなに何度も、それこそ死に物狂いで繰り返していた言葉は、少年の両目に色濃く浮かぶ訴えに一瞬で消し飛んでしまった。
 この時はただ純粋に、少年の望みをかなえてやりたいと思った。
 それだけで頭の中が一杯になる。
 たとえ方法が間違っているのだとしても、そうする事で事態がより悪い方へ向かってしまうとわかっても、彼が今望んでいるものを与えてやらねばならないと思った。
 多分…こんなにも強く誰かに望まれた事がないからだろう。
 言葉にこそしないが、あなたが必要だと、強く求められたからだろう。
 自分はそれを、嬉しいとさえ思ったのだ。

 

 

 

 カードキーをテーブルの上に置き、振り向こうとした瞬間、しなやかに伸ばされた腕に抱きすくめられ、驚く間もなく唇を塞がれる。
 薄い皮膚が触れた瞬間、頭の芯が一気に熱くなるのが感じられた。
 力強く抱きしめられ、初めて、少年の身体が細く頼りない事を知った。
 無遠慮に抱き返したらそれこそ折れてしまうのではないかと思えるほど。
 つま先だって、恋人に甘えるように両手を回し口付けてくるのに、愛しさを覚える。
 頭の隅に残っていた言い訳は、完全に姿を消していた。
 今はただ彼と繋がりたいとだけ思う。
 それは、先日のような非道なやり方ではなく、仮定でもなんでもいいから恋人として慈しみ、快楽を与え合う為に抱き合う。
 とめる手立ては無かった。
 やめようとすら思わない。
 お互い唇を重ねたままベッドに乗り、尚も熱を求める。
 少し乱れた吐息に胸を喘がせながら男は衣服を脱ぎ捨て、
少年の服に手をかける。
 一つ一つ外されていくボタン。
 コートの下に一枚だけ着たシャツは脱がされ、下着すらも取り除かれる。
 束の間互いの目を覗き込み、またキスをする。
 それだけで達してしまいそうな、異常ともいえる昂ぶりが男の腰を強く噛んだ。
 この男と繋がりたがる女は数え切れないほどいて、今まで途切れる事無く続いて男の方もまんざらではなく、どう扱えば彼女らが満足するか充分に心得ていたから誰しも虜になった。
 何度もまじわってそれでも尚求めてくる彼女らを、疎ましいと思いつつも肉欲を満たす為に関係を続ける。
 勿論、彼女らにそんな素振りは微塵も見せないが。
 繰り返す行為に慣れていくだけ。
 時折、手の位置を変えるお遊びをするくらいで、結局は同じ事の繰り返し。
 欲求のはけ口と感じてしまうのは、彼女らの一人にも思いを向けていないから。
 そしてそれは向こうも同じなのだ。
 彼女らの誰一人も、本当の意味で自分自身を求めてはこなかった。
 皆ただ、男の地位にひかれただけ。
 自分はここにいるのに、誰もそのものを見ようとしなかった。
 だからだろう。心が置き去りになるのは。
 そんな、これまでと比べるのも馬鹿馬鹿しいくらい、そして恥ずかしくなるくらい、心は興奮していた。
 初めてセックスをした日だって、こんなに混乱したりはしなかった。
 意識を失わないよう必死に自分を引き止める。
 ともすれば流されて、無我夢中で彼を貪る。
 彼が声を上げるたび、目の前が白く霞んだ。
 耳に届く甘い喘ぎに蕩かされ、何度も愛撫を繰り返す。
 もっと声を聞きたい。
 彼の中を、自分の与える悦びで一杯に満たしたい。
 一杯に――
 先端が触れた瞬間、朔也の身体がひくりと強張る。

「っ……」

 息を詰めて痛みに耐える姿に、心がざわめく。
 他の何も考えられない。
 声が聞きたくて、強引に腰を進める。

「あ、ん……!」

 力一杯しがみついてくる身体を抱き返し、耳元をくすぐる熱い吐息に恍惚となる。
 誰かに抱きしめられるというのは、こんなにも心地良いものだったのか。
 手のひらに感じる朔也の熱をあやし、自らも高みを目指す。
 一度目のように声を殺そうとはせず、ともすれば演技ではないかと思えるほど彼は絶え間なく嬌声を上げる。
 切なげな、悲鳴にも似た喘ぎに胸を痛めながら、男は熱を貪った。
 別人ではないかと思えるほど、彼は激しく身悶え、悩ましい声で男を翻弄した。
 触れれば触れた分だけ響く反応に言いようのない満足感を得る。
 もう何度目かもわからない接吻を、互いの目を見合わせながら交わす。
 絡み合う舌の熱さに、目眩がした。
 手の中に捕えた滾りが、甘えるような仕草でその身を震わせ、白い雫をほとばしらせる。
 髪を振り乱していっそう強く男にしがみつき、悦びに喉を震わせた。
 身体をしなやかに反らせ、飲み込んだ男のそれを強く締め付ける。
 強く弱く繰り返される愛撫に、痺れるような快感が脳天を直撃する。
 かすかに呻き、また、彼の中で絶頂を迎える。
 劣情に濡れた瞳が、うっすらと開かれ、まだ息の荒い男をおずおずと見上げた。
 苦しそうに胸を喘がせ、何か伝うでもなくただじっと見つめてくる朔也に、目が釘付けになる。
 力を失い一度はシーツに落ちた彼の手が、再び男の頬に触れる。
 しっとりと汗ばんだ手をそっと握り、指先に唇を押し当てる。
 彼の手がぴくりと震えた。
 たったそれだけなのに、痛いほどの熱がぶり返して彼の深奥を強く擦る。
 慄いたように全身を震わせ、声を漏らす。
 両の目に一瞬走った色は、気付かれる事無く消え去った。
 それは恐怖だったのだけれど。

 

 

 

 いくら慣れているとはいえ、立て続けに達した身体はさすがに疲れきり、真っ直ぐ歩く事さえ覚束なかった。
 ふらつく足でバスルームに向かう彼から目を逸らし、男は顔を強張らせた。
 先刻までの激しさは嘘のように消え失せ、残ったのは果てしのない後悔だけだった。
 かすかに聞こえてくるシャワーの音に、目を閉じる。
 今更ながらに、自分のした事に嫌悪感を抱く。
 いくら相手が望んだ事とはいえ、こんなこと、どうあっても許されない。
 こんな卑劣な行為……。
 違う。
 朔也の望んでいるものは違う。
 違う違う違う。
 嗚呼でも――
 彼の目に見つめられると、どうしても拒めない。
 彼の求めるものを自分はわかっているのに。
 こんな上辺だけの、脆いものなんかとは全然違う。
 自分はわかっているのに。
 彼の腕が、あまりにも心地良かったから。
 そんなもの言い訳にもならない。
 わかっている。それでも自分は……
 男は両手で顔を覆う。
 非難の声から自分を守るように。

 

 

 

 勢いよく降り注ぐ雫を、俯いたまま全身に浴びる。
 浴槽の縁に片足を乗せ、深奥に何度も放たれた熱の残骸を自分の指でかき出す。
 内股を伝って流れ落ち、排水溝に吸い込まれるそれをぼんやりと見つめ、小さく息をつく。
 一つの傷も負わず行為を終えたのは、数えるほどもない。
 大げさに言えば今日が初めてだ。
 どんなに酷くしてもいいと告げると、初めはみな驚いた顔をするが、すぐにそんな事忘れて傷付ける事に没頭する。
 溜め込んだ何かしらの鬱憤を吐き出すように、手近なもので傷を付ける。
 そうでなければ快感が得られないというわけじゃない。
 けれど、そうでもしなければ、誰もこんな頭のいかれた汚い子供を相手になどするわけない。
 本当は、死にそうなほど怖い。
 殺されるかもしれない恐怖に耐えてまで人の腕やぬくもりを求めても、自分の本当に欲しい物は手に入らない。
 そんな事、わかっている。
 でも、自分は他に方法を知らない。
 だからこんな事しか出来ない。
 けれど、あの人はそれをくれる。
 そんな気がする。
 だから――嫌だ。
 欲しくない。
 いらない。
『お母さん』はもういないのだから。
 あの男は、なんてひどい事をするんだろう。
 殴られて無理矢理犯されるほうがずっとましだ。
 何故、他の人間と同じようにしないのだろう。
 繰り返す矛盾が朔也を苦しめる。

 もし、二人がもっと言葉を交わしたなら、お互いになくてはならない存在だという事を知る事が出来るだろうし、そこここにぽっかりと開いた穴を埋めるまでには至らなくとも、今まで否定する事にのみ拘りそれ故囚われていた深い奈落ともしかしたら共存できるかもしれないし、認めて乗り越えるくらい強くなれるかもしれない。

 

 

 

 二人は、驚くほどよく似ていた。

 

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