晴れる日もある

 

 

 

 

 

「……日下部朔也」

 聞き取れないほど小声で呟いた少年の眼差し、その声、その態度が、強烈な一片となって男の脳裏に焼きついた。
 そして何かの折に過ぎっては、作業や仕事や生活を阻むのだ。
 日下部朔也という名の、できることなら出会いたくなかった存在が。
 あまりにも頻繁に思い浮かぶ彼の顔に、いつしか怒りすら湧いてくる。
 どうして放っておかなかったのだろう。
 気にせずに部屋を出て行ってしまえばよかったのだ。
 だのに何故、彼を記憶するきっかけを自ら作ってしまったのだろう。
 わざわざ名前を聞くなんて。

 身体中に多数の傷を負った少年
 あれは明らかに虐待の跡
 古い傷の上に新しい傷を重ね
 それでも足りない何かを求めてさまよい歩いている
 一体何を求めているのか
 きっと――
 自分と同じものに違いない
 苛立ち混じりにため息をつき、男は目を閉じる。
 怒りは半分自分に向けてもいる。
 出会った事を後悔し、名前を聞いたことを後悔し、一刻も早く忘れようと努めながらも、もう一度逢いたいと心密かに思っているこの矛盾。
 彼と出逢った場所に赴き、行き交う人の波をぼんやりと眺めたりする。
 ひょっとしたら、その中にあの少年の姿を見つける事が出来るかもしれないと期待を込めて目を凝らしている。

 なんという矛盾。そして愚かな考え

 もう一度逢って、どうしようというのか
 本当は逢いたくないのだろう?
 ならば何故、探す必要がある
 何故――
 心の中で自分に嘲笑を向け、男は歩き出した。
 くだらないと、馬鹿馬鹿しいと、自分自身に嘘を吐く。
 納得させようとしたのだ。
 あんな、見るからに厄介ごとを抱えた少年に関わっても何の得にもならない。
 身体の傷を見ただろう?
 彼はああいう事をされて喜ぶ性癖の持ち主なんだ。
 少なくとも自分には理解できない。
 そんな頭のいかれた子供に関わって、なんになる?
 金は払った。
 傷の手当てもしてやった。
 早く、忘れてしまえ。

 駐車場へと向かう途中、ついに男は足を止めた。
 頭の片隅に追いやった自分の本当の意思に、耳を傾ける。
 逢ってどうしようというのか、自分でもまだわからない。
 だが、逢いたい気持ちは消し去れない。
 もう少しだけ探してみよう。
 そう結論を出すと、男は振り返った。
 心が軽くなった気がする。同時に、不安と期待が入り混じったような、久しく忘れていた動揺に見舞われ、自分でもおかしくなるほど胸が苦しくなった。
 それほど、この想いは純粋なものだった。
 男はまだ、気付いていない

 週末にうかれて集まった若者たちが多くひしめき合う駅前の通りで、男は不意に足を止めた。
 信号待ちの群れの中に、彼を見つける。
 頬が熱くなるのが感じられた。胸が高鳴る。
 彼は偶然そこに立ったのではない。
 その証拠に、男が彼を見つけるずっと前から、視線を向けていた。
 祈りを込めた視線を、向けていたのだ。
 そしてやっと、男は少年に気付いた。
 信号が青に変わる。
 双方、すぐに歩き出す事は出来なかった。
 ただ互いを見る。
 世界は二人を失い、二人は二人だけになる。
 音も、人も、空気さえも二人だけのものになる。
 信号が点滅をはじめた時、男は唐突に駆け出した。
 けれど少年の前に立っても、何も伝う言葉はない。
 たった今まで忘れていたのが不思議なほど、自分の行いの一部始終が――この少年に暴行を働いた残酷なもう一人の自分を忘れていた自分が、頭を過ぎった。
 隠された真実
 自分自身を消し去りたかった。
 これが自分でなければと、常に怒りを抱いていた。
 それを全て、この少年にぶつけてしまった。
 あまりにも……自分に似ていたから――

 隠された真実

 何も言えず突っ立っていると、鞄から取り出した封筒を突き付けられる。

「……?」
「こんなに、いらない」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 鼻先に突き付けられた封筒は、先日自分が渡したものだ。

「いや…しかしこれは……」
「こんなにいらない」

 仕方なく受け取るが、再び彼の手に掴ませようとする。
 ところが、手を出した途端少年はびくっと肩を竦めて後ずさった。
 驚いて手を止める。
 避けられて当然の行為を、自分はしたのだ。
 けれど、あからさまに態度で示され、少なからず傷付いた。
 自業自得だというのに。

「これはもう、君に渡したものだ。取っておいてほしい」

 諦めず食い下がるが、無駄だった。

「もうもらった。こんなにいらない」

 どうあっても受け取ろうとしない彼に、悲しみが込み上げる。
 金で解決しようとするのかと、言われているような気がした。
 しかしそう言われても仕方ないのだ。
 悲嘆に暮れて視線を足元に落とす。
 無表情に男を見つめていた少年の顔に、人懐こいあの笑顔が浮かぶ。

「じゃあ」

 ふと口を開いた彼に、慌てて目を上げる。

「この分だけ、俺の相手をしてくれる?」

 思いも寄らぬ申し出に、きょとんとなる。

「どう?」

 少年が尋ねる。



 誘いを、断れるはずもなかった。
 男は頷き、少年は封筒を受け取った。

 

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