晴れる日もある

 

 

 

 

 

 不器用ながらも、慎重に包帯を巻いてくれる男の顔を、少年は胡散臭そうに見つめていた。

 どうしてこんな事をするのだろう

 さっきからずっと、その疑問がぐるぐると頭の中を巡っている。
 たまらなく不安になり、同時に、怒りのようなものが芽生えてきた。
 怒りは、恐怖と隣り合わせのものだった。
 常に彼の中にあり、頻繁に現れては彼を脅かすもの。
 目が眩む。

 どうしてこんな事をするのだろう?

 誰も、自分にこんな事をしてはくれなかった。
 みんな、自分が言うとおりにする。

『どんなにひどくしても構わない』

 そう言われて、みんな最初は驚いても、必ず自分の言うとおりにする。
 とても嬉しそうに、自分の身体を傷付ける。
 それが当たり前なのに。
 どうしてこの人は

「なんでこんな事をする?」

 え、と少し驚いたように、男の目が自分を向く。

「こんな事? 怪我の、手当ての事か?」

 頷くと、男はますます驚いたように目を瞬かせて、手を止めた。

「何故って…怪我をしたら手当てをするのが、当たり前だろう?」

 男の説明は、どこかしどろもどろだった。まるで、わざわざ説明するまでもない事をあえて口にする時みたいに。

「………」

 当たり前という言葉に、黙り込む。うまく理解できない。
 居心地の悪さを紛らそうと、部屋の中をあちこち見回す。
 きれいに片付いた、あまり物の置かれていない部屋。
 けれどここにも、人は住んでいるんだ。
 この、目の前の男。
 理解できない行動をする、男。
 ホテルで、自分の言うとおり強引に犯したというのに、この怪我を見た途端急に態度を変えた。
 傷口を丹念に洗い、手当てをしたいからとこのマンションに連れてきた。
 こんな事をした人間は、今まで一人もいない。みんな、口では同情めいた事を言うけれど、行為を始めるとそれに熱中して、誰一人「手当てをしたい」などと言う事はなかった。
 終わればさっさと支度して、金を置いて出て行く。
 ろくに振り返りもせずに。

 それでいいのに

「痛むかね?」

 今まで相手をした人間と、目の前の男とを比べる事に没頭していると、不意に声をかけられる。
 ……痛いほうが、いい
 喉まで出かかる。
 痛みは、無視されていないという証拠だから。
 たとえどんな形であれ、自分というものを認識する作業。
 それはこの男には理解できない事。

「大丈夫。おかげですごく楽になった」

 だからにっこり笑って、そう答える。

 通り過ぎるだけ。
 通り過ぎるだけと分かっているからこれ以上求めるものもないのに少しでも長く見ていて欲しいと自分は顔に笑みを浮かべる。
 矛盾しているのは分かっている。
 誰もが好感を持つ顔のつくり方を知っている。何人かは好きだと言ってくれる顔。
 同じ笑顔を浮かべたはずなのに。
 男はすぐさま目を逸らした。

 内心ぎくりとなる。

「……謝って済む事ではないが…すまなかった」

 目を逸らしたまま、男は言った。
 それにどう応えればいいのかわからない。
 そもそも、そんな言葉を投げかけられた事すらない。
 どうしてこの男は、今までの人間と違う?
 それともただ、出会いがなかっただけ?

 不安と、怒りと、恐怖の他に、何か不可解な感情が芽生えた気がした。

 長く沈黙が続く。
 男がくれた痛み止めの効果が現れて、じくじくと疼いていた傷口からすーっと痛みが消えていく。
 それに縋り付いていたい気持ちもあったが、痛みは薄れていく。
 嗚呼、どうして……

「服を着たまえ。家まで送ろう」

 手渡された衣服を受け取り、さりげなく男の顔をかすめ見る。
 そこには、今まで見た事のない表情が浮かんでいた。
 後悔ややましさに少し似ているようにも思えたが、まったく別のものだ。
 大抵は、未成年だからとか男同士だからとか不道徳とかを気にしてやましさを感じても、禁忌を犯すスリルの方が勝るのか誰一人こんな顔をする人間はいなかった。
 こんな人間は知らない。
 知らず内に、その表情に目が釘付けになる。
 いつのまにか笑みは消えてしまっていた。
 それすら忘れてしまうくらい、自分は求めてしまった。

 

 

 

 たった今まで肌に触れていた熱は、今はもう、ない。
 あんなに激しく抱きしめてくれた腕も、去ってしまった。
 身体の深奥には、行為の名残があるだけ。
 それすらもじきに冷えてしまうのだろう。
 たった今まで、自分の傍にあったものなのに。
 ここに残されたのは、自分だけ。
 誰も見てくれる者のない自分だけ。
 嗚呼、なんて寒いのだろう…
 でもこれは仕方のない事。
 自分は、頭のいかれた汚い子供なのだから。
 誰も、見てくれるはずがない。
 本当は――
 見て欲しいのに見て欲しいのに見て欲しいのに見て欲しいのに見て欲しいのに
 自分は自分の抱える多くの問題と矛盾を理解している。
 頭のいかれた汚い子供だと理解している。
 本当に欲しいものは、一生手に入らない


 自分は、頭のいかれた汚い子供だから

 

 

 

 家まで送るという男の申し出を、断り、早く逃げ出したい気持ちでいっぱいなのをごまかしながら背を向ける。

「待って。これを……」

 引き止める声に振り返ると、不意に手を掴まれ、何かを握らされる。
 封筒だった。

「それは、その……先ほどの行為に対する――」

 言いにくそうに口ごもり、俯く。
 何から何まで違っていた。
 手にした封筒をがさりと握り締め、男の顔をじっと見つめる。
 そこでようやく、男の目がこちらを向いた。
 互いの目と目が、ぶつかり合う。

 瞬間、頭の奥が、すっとするような感触を味わう。
 そうそれを言葉で表すとしたら、雨が上がり、雲間から光が降りてくるような、心地よさに似ていた。

 ふと、この人に名前を呼ばれたい衝動に駆られた。
 あの眼差しで見つめられたまま、優しく、名前を呼ばれてみたい。
 傷付けるためではなく抱かれて、優しく、名前を呼ばれてみたい。
 心から、そう思った。
 そして同時に、その先に待ち構える喪失感が、思いを募らせる心を、脅かした。
 恐怖に動けなくなる前に、その場から逃げ出す。

「ありがとう」

 吐き捨てるようにそう告げるのが、精一杯だった。
 不自由な足を引きずるようにして、玄関を出て行く。
 けれどエレベーターホールまで行かないうちに、後から男が追いかけてきた。

「薬を渡すのを、忘れてしまった」

 小さな包みを差し出される。
 当の本人は、傷付いていようが構わないというのに。
 ……どうしても、駄目なのだろうか

「わざわざありがとう」

 微笑もうとして、はたと思いとどまる。
 自分が笑った時、男の顔に不快な色が浮かんだのを、思い出したからだ。
 ならどんな顔をするべきか、わからない。
 造ってでも笑顔でいなければ、また殴られてしまう。
 今までずっとそうだった。

「やはり、その怪我が心配だ。家まで送ろう」

 思いも寄らぬ、申し出。一度断ったというのに。
 この男は、一体何を考えているのだろう。
 何故こんなに、自分を気にかけるのだろう。
 そう思う自分も、この男が何を考えているのか、気になって仕方なかった。

 二度目は、断れなかった。

 

 

 

 そう長くはない道中、二人は言葉を交わすことなく時間を過ごした。
 けれど、目的地について、少年が車を降りようとした時、男は尋ねた。
「君の名前を、教えてもらえるかな」
 少年は今までに、何度かその問いを受けてきた。
 けれどただの一度も、応えた事はない。必ずはぐらかし、最後まで名前を告げはしなかった。
 少年にとって、自分の名前を他人に告げる事は特別なことだった。
 名前を告げるという事は、自分の中に「特別な人」を作ることに他ならない。
 そして今までただの一人も、その「特別な人」をつくりはしなかった。
 つくってはいけないのだ。
 もし「特別な人」をつくって、その人がお母さんのようにいなくなってしまったら――考えるだけでも、怖くて竦んでしまう。
 だから、「特別な人」などつくらない。
 好きなように呼んでくれて構わないと、いつものようにはぐらかせばよかった。
 だのに少年はそうしなかった。
 なぜなら、この男に優しく名前を呼ばれたいという衝動の方が勝ったからだ。
 ぶたれて怯えきった子犬のようにおどおどと肩を竦めて、少年は口を開いた。

「……日下部朔也」

 聞き取れないほど小声で呟く彼の、今の姿こそが、本当の彼自身であり、それ以外で見せる全ての振る舞いが偽りである事を、男は後になって知る。

 

 

 

 彼の身体に残る多数の傷跡に根付く、多くの問題と矛盾
 拉がれた人生を必死に生き延びている事
 そして、名前を告げる事は重要な意味を持つのだということも

 

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