晴れる日もある

 

 

 

 

 

「どんなにひどくしても構わない。ひどくするのは、好き?」

 そう言って、彼は淫靡な微笑を浮かべた。
 しかしそれよりも目を捕らえて放さないのは、彼の笑っていない笑顔だった。

 

 

 

 本来なら、今日は休日のはずだった。予定通りに仕事が進んでいれば。
 予定が狂うのは今に始まったことではない。
 今携わっているプロジェクトが難航を極めるのは最初からわかっていたし、場合によっては家に帰れないなんてことも、承知の上だ。
 翌日にずれ込んだといっても、今回はまだいいほうだ。
 まだ、今日は始まったばかりなのだし。
 うっすらと明け始めた空を束の間見上げ、駐車場に向かう。
 家に帰ったらまずシャワーを浴びて、ひと眠りしよう。
 その後は…久しぶりにドライブでもしようか。
 そういえば、買ったのにまだ読んでいない本が随分たまっている。
 やはり家でのんびり過ごそうか。
 あれこれ考えながら車に乗り込み、エンジンをかけた。
 今日の過ごし方は、とりあえずひと眠りしてから考えよう。

 

 

 

 街はまだ活動を開始していなかった。
 通りに見かける人影もまばらで、車もほとんど走っていない。
 とはいえ駅近くの大通りはバスやタクシーがひっきりなしに往来しているが。
 歩行者の信号が点滅している。そろそろ切り替わるだろうからと、一旦停止を怠り歩道を徐行で通過しようとした時、視界に人影が飛び込んだ。
 慌ててブレーキを踏む。
 徐行のお陰で車はすぐに停止した。衝突のショックも、なかったように思う。
 相手の無事を確認しようと、すぐさま車を降りた。
 学生…歳は十五、六、いやもっと上かもしれない。
 ほんの数ミリ手前で急停止した車のヘッドライトをぼんやりと見つめ、突っ立っている。
 まるで、ここが歩道である事も、信号が赤に変わってしまった事にも気付いてない様子だった。
 いったい、何に心を奪われているのか。
 顔がただ車の方を向いているだけで、見つめているものはきっと違う。
 何故か、そんな気がした。

「……君、怪我はないか?」

 急に現実に立ち返り、車を降りてそう声をかける。
 そこでようやく、顔が上を向いた。
 けれどまだ彼の意識はここに戻っておらず、別の誰かに向けられているのであろう眼差しが、私の瞳を釘付けにした。
 強い力を秘めた両の眼に、心がひきつけられる。
 唐突に、美しいという賞賛が沸き起こった。
 姿かたちという上辺だけでも彼はきっと群を抜いて整っているのだろうが、何よりも、纏っている雰囲気にこそ威力があった。
 しばし見とれ、沈黙する。
 と、不意に彼の身体がふらりと傾いた。
 咄嗟に手を伸ばし、身体を支える。
 気付かなかっただけで、やはり怪我を負わせてしまっていたのだ。
 やや冷静さを欠いてしまい、この状況にどう対応すればいいのかすぐ思い浮かばない。
 救急車を呼ぶよりも、自分で病院に向かった方が早いというのに、なかなかそこにたどり着かない。
 二人して車道の真ん中にしゃがみ込む。
 ようやく答えがわかり、いざ車に乗せようとすると、驚いた事に彼は手を振り払って歩き出した。
 まだ赤信号のままの歩道を。
 呆気にとられる。
 幸い車の通りはなく、行こうと思えば行けるのだが、まさか放って立ち去るわけにもいかない。
 困惑しながら後を追うと、またも彼はがっくりと膝を折った。
 ほんの二、三歩見ただけだが、どうやら足を痛めたらしい。

「大丈夫か……?」
「あんたのせいじゃない」

 背中越しに声をかけると、ようやく、反応があった。
 振り返る。
 今度は、間違いなくこちらを見ていた。

「……だが、どこか怪我をしているのだろう?」

 内心、ほっとしていた。ずっと頭の片隅にあった疑惑が晴れて、気が軽くなる。

「気にしなくていい」

 顔が逸らされる。
 これ以上は話し掛けるなという、意思表示かもしれない。
 だからといって、はいそうですかと立ち去れるほど薄情な性分でもない。

「私のせいではないにしても、怪我をしている人間を放ってはおけないんでね。家まで送らせてもらえるかな」

 ややあって、再び振り返る。
 表情に変化はないが、考えあぐねているようだった。

「私は別に、怪しい者じゃ――」
「わかった」

 名前を告げようとすると、まるでそれを遮るかのように彼は口を開いた。
 私の、考え過ぎかもしれないが。

「立てるかね?」

 力を入れるとどこか痛むのか、片手を着いたまま途方にくれる彼に手を差し伸べる。

 それを無視しようとしたが、一人では立ち上がれそうもない。
 少し間を置いて、おずおずと手を握る。

 それまでの仕草から、人に触れられるのを好ましく思っていないのだろうかと勝手な推測を立てる。

「ありがとう」

 と、笑顔を向けられて、内心どきりとなった。
 まるで別人だ。
 ついさっきまでは、冷たい印象さえ与えかねない強さを見せていたのに、今は一転して人懐こそうな笑顔を浮かべている。見たら誰もが、ついかまってしまいたくなるような愛くるしい微笑みを。
 不覚にも胸が高鳴った。そんな自分に驚く。
 何か言い訳を見つけたかったが、まったく何も見つからず、焦りをごまかしながらとにかく車に乗せる。
 どうやら脚は相当痛みがひどいらしく、座るのもひと苦労といった感じだ。
 彼には申し訳ないが、そのお陰で私は冷静さを取り戻す事が出来た。

「喧嘩でもしたのかね?」

 立ち入ったことかもしれないと思いつつ、質問をぶつける。

「違う」

 肩に掴まっていた彼の手が離れて、ふとそちらを見ると、何かで強くこすったように手首が赤く染まっているのが目に入った。
 見るからに痛々しい様子に顔をしかめる。

「いつもとあまり変わらないよ」

 彼の言う「いつも」をさも私が知っているかのように、彼はたったそれだけの言葉で答えた。

「でも、噛まれたのは久しぶりかな」
「え?」

 耳を疑った。がすぐに、飼っている犬か猫とじゃれていて、引っかかれでもしたのだろうと推測する。
 それを尋ねてみるが、

「ううん、違うよ」

 彼はあっさりと私の推測を否定した。
 次いで出てきた彼の言葉に、今度こそ我が耳を疑った。

「あんたも俺を抱きたい?」

 同性からそんな言葉を投げかけられるのは、もちろん、今日が初めてだ。
 瞬きも忘れて、長い事彼の顔を凝視していた。

 

 

 

 気付いた時には、ホテルの一室で彼と向かい合って立っていた。
 どうやってここまで来たのか。
 まるで、その間の出来事全てを一瞬の内に飛び越えたかのように、きれいさっぱり記憶が抜け落ちている。
 夢でも見ているような気分だが、これは間違いなく現実だ。
 ということは、この少年の言葉に自分は是の答えをしたということだ。

『あんたも俺を抱きたい?』

 自分はこの少年を抱きたいのか?
 ここまで来たのは自分の意思に違いないだろうが、私はひどく混乱した。
 何一つまともに考えられない。
 上目遣いにこちらを見つめる彼の視線にとらえられたまま、身動き一つ出来ず突っ立っていた。
 と、少年は動いた。
 見惚れてしまいそうに優美な動きで腕を絡め、寄り添ってくる。
 ただの商売女よりはもう少し品のある、娼婦のようなしなやかさだった。
 安心しきった様子で胸に顔を埋める仕草に、痛いほど心臓が高鳴った。
 棒立ちのまま、なんとか首を動かして顔を見下ろす。
 同時に少年は顔を上げた。
 お互いの、目と目が合う。
 次の瞬間、彼は信じられないようなことを口にした。

「どんなにひどくしても構わない。ひどくするのは、好き?」

 そう言って、彼は淫靡な微笑を浮かべた。
 しかしそれよりも心を捕らえて放さないのは、彼の笑っていない笑顔だった。

「俺を見てよ……」

 言われるまでもなく、私の目は釘付けになる。
 唇は確かに微笑を浮かべているのに、両の目に自己抑制の幕を下ろし自分以外を拒絶している。
 ともすれば小馬鹿にされているような印象も受けるこの表情。
 人形が笑っているのとそう変わらない貌。

 どこかで見た事がある……

 そう思うと同時に、はっきりと理解する。
 理解して、私はかっとなった。
 唇には微笑を浮かべているのに、目だけが笑っていない。
 そうじゃない。
 本当は笑いたいんじゃない。唇に浮かんでいるのは偽りの表情。
 ひたむきに相手を瞳に映しながらも、自己抑制の幕を下ろし他人を拒絶する。
 でも、本当は、心の底から望んでいる。
 この子は私と同じ。
 私と同じ事をしている。
 この子の薄っぺらな微笑みは、私自身のもの。
 込み上げる怒りを抑えきれず、感情のままに少年を床に組み敷いた。
 どんなにひどくしても構わないという言葉どおり、彼は一切の抵抗を見せない。
 それが余計、怒りを煽る。
 乱暴に下衣を剥ぎ取り、後ろに指を突き立てる。

「う……」

 わずかにうめく。

「どんなにひどくしても構わないのだろう?」

 痛みに耐えながら、彼はかすかに頷いた。
 それが気に入らなかった。
 だが、彼は悪くはない。
 嘘は言っていない。
 それでも、怒りはおさまらない。
 男性同士の性交渉にはお粗末な知識しか持ち合わせていないが、それでも、自分の方法がかなりの苦痛を与えているのはわかる。
 あえてその方法を取る自分の残酷さに、酔い痴れているのかもしれない。
 あるいは、彼に悲鳴を上げさせたいのか。
 目の前が真っ白になって、自分で自分が分からなくなる。
 怒りに任せて、二度は身体の奥に、一度は彼の口の中に放った。
 結局最後まで、彼はわずかなうめき以外、声を上げることはなかった。

 

 

 

 荒い息をつきながら、私は立ち上がった。
 蹂躙されてぐったりと床に横たわる少年に一瞥もくれず、バスルームへと向かう。
 一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
 まだ、理性は麻痺したままだった。
 手早く身支度を済ませ、部屋に戻ると、そこでようやく少年は起き上がった。
 なるべく彼の方を見ないようにして、財布から数枚の紙幣を取り出す。
 こういったものの相場など、知るはずもない。
 妥当だと思うより多めに抜き取り、テーブルの上に置く。
 そしてそのまま、最後まで彼を見ずに部屋を出て行くべきだった。
 特に、彼の身体に残る多数の傷痕など。

「!…」

 背筋に冷たいものが走った。
 行為の最中はまるで気付かなかった痛々しい痣や火傷の跡は、この子が虐待を受けている事を明白に物語っていた。
 頭を強かに殴られたような衝撃に、言葉を失う。
 腿の内側に、つけられたばかりと思われる噛み跡が、生々しい傷口をさらしていた。

 

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