晴れる日もある

 

 

 

 

 

 自分の為の特別な一つであるデザートをありがたくいただきながら、男は食後のコーヒーを啜った。
 クラスの女子の折り紙つきである洋菓子は、舌の上で絶妙にとろけ男を満足させた。
 向かいに座った朔也からの視線を感じるが、少々気恥ずかしくて目を上げられない。
 本当に自分が、そんなに綺麗な顔をしているのだろうか。
 しているのだとしたら、それはすべて朔也のお陰に他ならない。
 彼はすっかり、変わった。
 同じように自分も変わった…お互いに影響を与え合っている。
 人との繋がりとは、こういうものなのか。今にしてようやくわかったことに、心の中で笑う。男は最後のひと匙を口に運んだ。
 ごちそうさまと添えて朔也を見る。
 安心したような目が向かってきた。
 男は微笑みかけた。彼の用意してくれた夕食も、しっかり腹に収めることができた、その上特別の一つもこうして食べきった。もう心配ないだろう。
 その証に、朔也はようやく自分のコーヒーに手を伸ばした。
 すっかり冷めてしまったことだろう。
 申し訳ないことをした。
 今日も美味かったと告げると、朔也はしずしずとお粗末さまでした、と言った。
 日ごとに増えてゆく言葉に喜びを噛み締める。
 しばらく二人で、静かにコーヒーを楽しむ。

「ところで朔也、君は、高校を卒業した後どうするか、進路は考えているかい?」

 びくりと朔也の目が弾む。
 頷くように顎を引いて朔也は立ち上がった。
 目配せで何か言い付けて、自室へと向かう。
 男はその後ろ姿を見送った。
 少しして、朔也は数枚のプリントを手に戻ってきた。ちらりと見えたそれらは、彼の現在の学力を記したもののようだ。
 向かいに座り、やや置いてから男を見る。

「鷹久――支社長」

 耳にした言葉に男は小さく息を飲む。
 朔也に話したことはない。といって別段隠し立てしているわけでもない。
 聞かれないから言わなかった、というのは少々言い訳がましいが、朔也にはそういったものを知りたがるところがないので、今まで口にする機会がなかった、というだけのことだ。
 学生である彼には、特に言う必要のないこと。
 それから、彼にだけは、そういった目で見てほしくなかった、単なる一人の男に見られたかった。
 そんなささやかなわがまま。
 だから名字ではなく、名前を呼んでもらっている。
 それでも朔也は既に知っている。エルミン学園から近いのだ、自然と耳に入るものだろう。
 それに、かつてエルミン学園に通っていた。
 生徒会長を務めた。
 取り立てて大きな何かを成し遂げた覚えはないが、就任の際あいさつに寄った時校長である大石から、今でも語り草の伝説の生徒会長、と誇らしげに言われた。
 そういった噂があるなら、朔也も自然と耳にしているのは想像に難くない。
 男は居住まいを正した。
 向かってくる朔也の目は、先ほどとは打って変わって随分と緊張しているようだった。
 朔也は持ってきたプリントの束を男に差し出した。

「一人の経営者として見た場合、俺を、企業に加えたいと思うか?」

 思わないなら、何が足りない?
 幾分低い声。
 ああ、なるほどと男は思う。

「そう、君は就職を希望するんだね」

 朔也は重く頷いた。
 それで、社会人の先輩として、自分の実力を見てほしい。そのことに対する不安から、緊張していたというわけか。
 新しい世界へ向かう時は、誰でも不安と期待で緊張するものだ。
 彼ならば尚のこと、踏み出す足に力を込めねばならない。
 それでも朔也は歩み続ける。
 これまで生き延びてきたのと同じく、強い心で未知の世界に踏み込む。
 就職を選んだのは、これ以上親戚の人間に迷惑をかけたくないから…至極まっとうな、そして実に歯痒い選択。
 実の親ならば、学費や諸々の件で多少は甘えられるだろう。しかし彼は、彼が思うところの『余分』だ。不自由なく高校生活を送らせてもらっただけでも、充分感謝に値すると、朔也は敬意を口にした。
 男は複雑な思いだった。
 まだ先であるものを、今から考えねばならない…そこに自分の意思はなく選択の余地もない。不公平さ。何とも言えないもやもやが、胸で渦巻く。
 彼にはどんな資質が備わっているのだろうか。
 もし、それらが高等教育を受けることで開花するとしたら、彼はどんな世界を目指せるだろうか――男はその考えを奥の方にしまい込んだ。

「見せてもらうよ」

 断りを入れ、一枚目から順に目を通す。
 既に知っていることだが、彼は非常に優れていた。突出した頭脳を持っている。目を見張るほどだ。
 これほどずば抜けた知能を持っていながら、彼は一度として親に褒められたことがない。ろくに目を向けられたことがない。できる部分は見てもらえず、できないところばかり徹底的に責められ、罵声を浴びせられた。
 こんなところまで同じなのだなと思ったところで、男は再び思考が脇道に逸れてしまったことに気付き、引き戻す。
 学力の面では何の問題も見られない。
 唯一の欠点であった体力に関しても大分改善されてきた。
 選択さえ間違えなければ、充分通用するだろう。
 そしてまた、こう見えて彼は人と打ち解けるのも上手い。作った仮面であれ、ごく自然に行える能力は高く評価できる。自分のようなひねくれ者以外、あの笑顔を嫌うものはまずいないだろう。
 彼の口から語られるのは断片的な情報だが、それでも充分わかった。彼は、様々なタイプの人間に好かれていた。
 適性を図る為に、二、三質問する。
 コンピューターの操作も、今のところ苦労している部分はないという。基本的な操作さえできるなら、あとは実際に仕事をする中で覚えていけばいい。
 その為のサポートはするつもりだ。
 最後の一枚まで丁寧に目を通してから、男は顔を上げた。
 そして、欲しいね、と告げた。

「この調子で伸ばしていけば、どこでも通用するだろう」

 正面で結果を待っていた朔也はようやく両目から緊張を解いた。が、まだ半分ほど、疑っているようだった。
 おべっか、ある種の身内びいきではないのかと、探るように見つめてくる。
「いいや大丈夫、君はもっと自信を持っていい」裏返した書類を揃えて整える「君はこれから、自分の為の人生を生きるんだ」

 だから自信を持ちなさい。
 背筋を伸ばしてまっすぐに世の中を見なさい。

「これまではお母さんの為に、だったね」

 朔也は小さく頷いた。
 複雑な顔で少し俯き加減になったので、男は優しく笑いかけて続けた。

「これからは、自分の為にやりなさい。誰かを喜ばす為ではなく、自分に胸を張る為に何かをしなさい。自分が本当にやりたいことを、自分の為に」

 君にはそうする権利がある。
 朔也はテーブルを見つめ黙って聞いていた。何かを考え込んでいた。

「どんな選択をしても、私は傍にいて、君を応援する」

 男は書類を返した。やや置いて朔也は手を伸ばして受け取った。それから小さくため息を吐き、話し始める時そうするように口をすぼめた。
 言葉は、やや置いてから紡がれた。
 金の心配をしなくていい生活をしたいのだと、朔也は言った。

「誰かから貰ったり、今どれくらいあるのか心配したり……そんなのはもう、嫌なんだ」

 親戚の人間に頼るのはもちろん、馬鹿げたことをして誰かから貰うなんてもう嫌だ。
 自分で稼ぎ、管理し、考え、使いたい。
 たとえそれでぎりぎりの生活を送ることになるとしても、昔のような滅茶苦茶な毎日にはならないはずだ。
 いつ買ったのかわからない菓子パンを、ひと口ずつかじって何日も過ごすなんてことは。
 そこまで聞いて男は、猛烈に彼を甘やかしたくなった。
 金の心配など一切しなくていいほどの生活を、送らせてやりたい。自分にはそれができる。たやすいことだ。
 彼が望んでいるものはまったくの正反対で、それはわかっているのだが、衝動はしようもなく込み上げた。
 嫌われ、軽蔑されたくはないので、必死に飲み込む。

「君はとてもしっかりしている。自分の考えをきちんと持っている。だから、きっとその通りできるよ」

 半分はにかみ、半分探るような目で、朔也はきゅっと唇を引き結んだ。
 言葉をそのままの通り受け取ることにも、大分抵抗がなくなったようだ。
 笑顔には程遠い笑顔。無表情とさして変わらないそれはしかしとても愛くるしく、男は頬を緩めた。

「それで、一つ言っておきたいのだがね、朔也」

 男は椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んで朔也の傍に立った。伸ばした片手で顎をすくう。
「もし今度名前で呼ばない時があったら、私は拗ねて、一週間は君と口を利かないから」

 そのつもりでいるように。
 言葉に朔也は困ったような顔になった。

「いいね」
「わかった」

 ぎくしゃくと頷く朔也に口端を緩め、男はゆっくり顔を近付けた。

「鷹久……」

 唇が触れる寸前、朔也が呟く。
 よろしい、と男は接吻した。
 互いの体温を充分確かめてから顔を離す。

「どんな道を選ぶのも、君の自由だ。まだまだ先の話。じっくり考えて答えを出すといい」

 傍に立つ男を充分見つめてから、朔也はありがとうと礼を言った。
 ようやく、肩の力が抜けたようだ。
 朔也が書類をしまいにいく間、男は二杯目のコーヒーをそれぞれのカップに注いだ、
 丁度空になったサーバーを見つめ、今度は自分が緊張する番だと喉の奥で唸る。
 追加分のミルクを朔也の手元に置き、男は席に戻った。

「ありがとう」

 礼に微笑みで返し、ひと口啜る。
 それでも気持ちは落ち着かなかったが、男は朔也を見やった。

「今日君に進路を聞いたのは、実は相談したいことがあったからなんだ」

 朔也は傾けていたカップをテーブルに戻し、見やった。
 旅行の最中から考えていたのだが、と男は切り出した。

「高校を卒業したら、一緒に暮らさないかい?」

 途端に朔也の目がきつい凝視に変わった。
 耳にした言葉が信じられないと言っているようだった。
 男は先を続けた。
 これまでのように、ほんの数時間、ひと晩過ごすだけでは見えなかったものが見えてくるだろう。
 お互いの譲れない部分が出てくると思う。
 他人と暮らすのは、中々大変なものだと思う。
 自分も、一人暮らしが長く、生活様式ができあがっている。
 君にも君のやり方というものがある。
 ぶつかることもあるだろう。
 それでも私は、君と一緒に暮らしたいと思う。
 一人の食事はつまらないし、独り寝は寂しい。

「今すぐ答えを出さなくていい。ゆっくり考えてみてほしい」

 そこまで言うと、朔也は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
 男に向けられた目はひどく懐疑的で、首を振り、何かを否定していた。

「物事なんて、何一つうまくいかない」

 喉から振り絞って、朔也は言った。
 こうなったらいい、と思うことほど、そうはいかない。
 震える声で続ける。

「ずっとそうだった」

 男は何と言ってよいやらわからず、ただ黙って朔也を見続けた。

「でも鷹久は、鷹久とは違った」

 こう言ってほしい時にそのままを言ってくれたり、色んなことをしてくれた。

「今だって」そこで朔也はぐっと息を飲み込んだ。何かが胸に詰まったように。
 中々次の言葉を出さない。
 言おうとする素振りは見せるのだが、中々喋り始めなかった。興奮の為か、頬がいくらか紅潮していた。唇も震えている。
 少しして、男はわかった。
 泣きそうになるのを、こらえているのだ。
 込み上げてくる涙を飲み込むのに必死になっているのがありありと見て取れた。
 いくらか経ってから、朔也は小さく息を啜り、吐き出した。
 そして口を開いた。

「今だって、そう言ってくれたら嬉しいと……ずっと思っていた言葉を、くれた」

 嘘みたいだ。
 少し混乱した様子で額を押さえ、朔也は瞳を揺らした。
 ようやく男はほっとした。肩の力を抜いた。
 朔也の気持ちはよく見えていたが、それでも不安だった。
 あんたのものだよ――そう言ってくれたが、一緒に暮らすということには賛成してくれないのではないか。それはできないときっぱり断られてしまうのではないか。その他さまざまな心配事が、胸を重くさせていた。
 杞憂に終わった。
 今回も、これまでの多くと同じく、朔也が望むものを無事渡せたようだった。
 朔也を前にするとどうしても、いつもの自分ではなくなってしまう。いつもの自信がどこかへ行ってしまう。
 けれど不快ではない。心地良い、新鮮な緊張感。

「嘘みたいだ」

 朔也はもう一度言った。
 眼差しはまだぼんやりとしていた。
 手が左耳のピアスを掴む。
 彼がよくする仕草。
 その行為は、彼にとって精神安定剤のようなものなのだろう。
 自分の贈ったものが、彼の心を平穏に導く鍵になっていることが何とも言えず不思議で、嬉しかった。
 男は立ち上がり傍に歩み寄った。

「嘘ではないよ。夢でもない。紛れもなく、君の現実だよ」
「嘘じゃない」

 呟いて、朔也はすぐ傍にある男の顔を見た。

「ああ。君に決して嘘は吐かない。君と一緒に、暮らしたい」

 男は片手を上げ、少し癖のある黒髪を撫でた。
 朔也はよろけるようにして一歩退いた。
 男は咄嗟に肘を掴んで支えた。
 俯き、朔也は首を振り立てた。

「嘘だ。夢だ」

 これは、ずっと小さい頃見てた夢だ。
 自分が安心して帰れる場所を、頭に思い描いていた。
 いつも。
 部屋の隅で小さくなって、父親の視界に入らないよう丸くなって、身体じゅうが痛いのを我慢しながら、いつも思い浮かべていた。
 ただいまと言って家に入ると、優しい人がいて、おかえりなさいと言って迎えてくれる。
 そこでは痛いことも怖いことも起こらない。あたたかくて、とても気持ちのいい場所。

「でも目を開くと、全部消える。ただの夢だから」

 低い声で呟き、朔也は目を上げた。

「夢じゃなくなるのか」
「ああ、そうだ。君のものになる。本当に」

 強く迫ってくる眼差しに何度も頷き、男は頬に触れた。
 微笑みかける男に朔也は眼を眇めた。

「俺は、頭がいかれてる」自分でもわかっている「世話になっておいて、死ねばいいのにと思うなんて、いかれてる」

 料理を習い、掃除の仕方も教わった相手なのに。

「だからあんたにもきっと、嫌な思いをさせる」

 自分でも抑えようのない怒りに振り回されて、殴りかかるかもしれない。
 自分でも気付かないところで、不愉快な思いをさせるかもしれない。
 男はにやりと笑い、斜めに首を傾げた。

「さて、君と最後に取っ組み合いをしたのは、いつだったかな」

 朔也の顔がわずかに変化する。否定から許容への揺れ動きを見てとり、男はまた安心した。

「まあとりあえず、座って落ち着きなさい」

 朔也を座らせると、いつもはテーブルを挟んだ向かいにある自分の椅子を隣に並べ、腰掛ける。
 圧迫感を与えたくはなかったので、向かい合う形は取らなかった。
 男はすこし身体を朔也の方に向け、言った。

「全て承知の上だ。それでも、君が好きなんだよ」

 君が必要なんだ。
 もう一度ゆっくりと頭を撫でる。
 朔也はきつい目で男を見た。

「俺は、普通じゃないだろ」
「まあね」男は口端を軽く緩めた「だが、誰でも大体そんなものだ。それぞれ、少しずつ普通じゃないところがある。私もだ。君だけが特別おかしい訳ではない」

 男から少し目をずらし、朔也はしばし考え込んだ。

「うまくいくと、思うか?」
「努力する。君に安心してもらえるように、快適に暮らせるように」

 すると朔也は大きく首を振った。

「鷹久はできてる。もうずっと、最初からそうしてくれてる。鷹久は、優しい」

 俺が怖くなくなるまで、傍にいてくれた。

「だから俺は、色々考えてしまうんだ」
「悪い方には考えなくていい。君はとてもよくやっているよ」

 男は穏やかに笑いかけた。
 朔也は首を傾げたり俯いたり、落ち着かない様子で頭を動かした。

「俺に、できると思うか? 今できないことが、いつかできるようになる? ふつうの子のように、作ったりしないで笑ったり、優しくすることが、俺にできると思うか? 鷹久が嫌な気持ちにならないように」
「もちろん」男は何度も、大きく頷いた「それこそ、最初からそうしているじゃないか。君は充分優しいよ。優しさを持っている。だから私は、嫌な気持ちになったことなど一度もないよ」

 いつ、どんな場面で優しさに助けられたか、男は一つひとつ挙げて聞かせた。
 今日したことも、優しさと気遣う心なければ思い付かないものだ。
 そういう意味では、彼はもう充分に「ふつうの子」だ。
 だから笑うことも、じきにできるようになる。笑っても怖くない日が、きっとくる。

「俺は、間違ってないんだな? 鷹久がいつも言ってくれるように、俺は、間違っていない」
「ああ。ああもちろん、君のしていることは、間違いではないよ。君は優しくて、思いやりのある、いい子だ」

 必死に語りかけてくる眼差しを受け止め、男は頷く。

「君は自分がどういう人間かよくわかっているし、そんな自分を変えようと、一生懸命努力している。誰でもできることではない。君は本当に勇気がある。君のそういうところが、私は特に好きだよ」

 時々瞬きを交えながら、朔也は黙って聞いていた。
 男は続けた。

「どこにも行かないでほしいと、君は言ったね。私も同じ気持ちだ。どこにも行かないし行きたくない。ずっと君の傍にいたいんだよ」

 男は右手の人差指で朔也のピアスを指した。

「君は『私のもの』だろう? 駄目かい?」

 目を見合わせる。彼をモノ扱いするのはさすがに抵抗があったが、それが一番効果があった。彼の望みにぴったりと当てはまった。
 朔也は、睨むような鋭さで男を見つめ返した。それから眼差しを和らげ、ごく小さな声で、駄目じゃないと答えた。

「あの日見たものを」身体ごと男の方を向く「今でもはっきり、覚えてる」

 何を思ったのかも、はっきりと。
 朔也は、男の目の奥にその風景がくっきりと浮かんでいるとばかりに、瞳をじっと見つめた。
 あの日というのがいつを指すのか、すぐには思い浮かばなかった。
 込み上げる困惑を飲み込み、朔也の目を見つめ返す。
 彼は時々、こんな話し方をする。いつもは一から順に話すが、時に順番構わず欠片を投げてよこす。
 内側で渦巻くものの激しさを、一秒でも早く口に出したい時によくこうして話した。
 全部聞き終えて初めて、全体の形が見える。
 もうわかっていたので、男は黙って頷き耳を傾けた。
 朔也は片手を上げ、迷うことなく男の頬に触れた。
 手のひらから伝わるあたたかい何かが、男の骨身にまで沁み込み広がる。
 たまらなく心地良かった。

「あの目は本当に、綺麗だった」

 頭の奥が、すっきりと晴れた。
 まっすぐ向かってくる少年の淀みない眼差しに、男は戦慄すら覚えた。
 朔也の見ている風景をどうにかして自分も見られないものかと、男は言葉に集中した。
 こんな自分の中に、彼は一体何を見てくれたのだろう。
 朔也は聞き取れないほどの小声で何ごとか呟くと、すぐにしかめっ面になって違う、違うと首を振った。
 目を逸らし、考え込む。

「……そういうのじゃなくて」

 喉の辺りを指で押し、もうあと少しで出てくる言葉を手繰り寄せようとする。
 逸らされていた視線が戻る。
 男は半ば無意識に息を止めた。
 うっとりと浸る口調で朔也は言った。
 大嫌いな雨が止んで、重たい雲の隙間から、光が降りてくるようだった。
 だから、優しく名前を呼ばれたいと思った。
 男は目を見開いた。
 これまでの話から、彼にとって名前を呼ばれることは特別なことというのがわかっていた。
 雨の降る日は殊更に心が苦しめられ、だから青空をこよなく愛する。特別なものとして敬愛しているのを知っていた。
 名前を呼ばれること。
 空が晴れ渡ること。
 朔也にとって、それらは何よりも大切なものだった。
 その特別なことを、ずっと前から、彼は切望していた。
 それが芽生えたのはいつのことなのだろう。

「初めて、鷹久の部屋に連れて行かれた時に、見たんだ」

 男は震え上がる。
 あの時――あれは、彼にひどい仕打ちをした直後ではないか。
 男は浅い呼吸を繰り返し、朔也をじっと見つめた。
 朔也はもう片方の手も男の頬に添えた。

「どうして鷹久はこんなに、俺のほしいものをくれるんだ。どうして、わかる」
 鷹久は神様なの?

 思いもよらない言葉に男は喉を鳴らした。

「……いや」

 何とか声を絞り出す。
 自分はただの人間に過ぎない。彼のことにまっすぐ心を注ぎたいと思っている、一人の人間に過ぎない。
 自覚が心に沁み渡る。

「あんた……おかしい」

 どこか嬉しそうな声で朔也は言った。
 今まで聞いた中で一番、柔らかい響きをしていた。
 泣きたくなるほどの喜びが、胸の中で膨れ上がる。
 衝き動かされるまま、男は抱き寄せた。

「おかしい者同士、上手くいくと思わないかい?」

 朔也は答えなかった。
 ただ、腕の中で深呼吸した。
 安心しきった様子で大きくゆったりと。
 それが答えだった。
 男は安堵し、微笑んだ。

 

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