晴れる日もある

 

 

 

 

 

 九月に入りしばらくした頃。
 その日朔也はおかえりなさいと言わなかった。代わりに開口一番こう言った。

「痩せた」

 鋭い響きと射抜くような上目遣いに、男はどきりとする。
 よく見ているものだと感心し、感謝して、素直に告げる。

「ああ……暑い季節は昔から苦手でね。いつもこのくらいの時期になると、体重が落ちるんだ」

 その上ここのところ仕事が立て込んでいるからと続け、君は大丈夫かと尋ねる。
 が、耳に入らぬ様子で朔也はどこか一点を見つめ、掴むようにして額に手を当てた。
 そのまま、さっと踵を返しリビングへと進む。
 置き去りにされた男は、どうしたのかと訝りながら後を追った。
 テーブルの傍で朔也は足を止めた。テーブルの上には既に夕食の用意が整っていた。朔也はそれらに視線を注ぎ、何やら考え込んでいた。

「食欲が、ないのか」

 見守っていると、きっとばかりに顔を上げ朔也は尋ねた。
 男は軽く肩を竦め、肯定した。
 また朔也は額を掴み、俯いた。

「それほどひどいわけじゃないから、心配しなくていい」

 しかし朔也は反応しなかった。
 少しして、何か思い付いたのか顔が上向く。

「シャワーを浴びて、少し待ってろ」

 浴室の方を指差し、朔也は自室に向かった。
 困ったように、男は後ろ姿を見送った。
 やや置いて、財布を手に朔也は戻ってきた。

「どこへ行くのかね?」
「今なら、まだ開いてる」

 使命感を帯びた目で男を見やり、朔也は足を止めず玄関へと向かった。

「朔也?」

 男も後を追った。さっぱり掴めない。何かを買いに行こうとしていることだけは、辛うじてわかった。

「外は暑い。鷹久は、待ってろ」

 すぐに戻る。
 靴をはきながら朔也は言った。

「それは、寂しいよ。一緒に行こう」

 連れていってくれるかい。
 男は肩に軽く手を置いた。
 数歩戸惑った朔也だが、すぐに心を決めたようで、男の先に立って歩き出した。
 エントランスへ向かいながら行き先を尋ねると、アーケードの中にある洋菓子店だと朔也は答えた。
 そこのプリンがとろけるようで絶品だと、クラスの女子が盛り上がっていたのを聞いたから、と理由も添えた。

「食欲がなくても、甘いものなら、食べられるだろ」

 無理してでも食べろ。
 苦しそうな顔で朔也は言った。

「君までそんな顔をすることはないよ。済まなかったね、私のせいで心配かけて」

 険しかった顔付きをいくらか緩めて、朔也は首を振る。
 反対に男は幾分顔を引き締めた。そうでもしないとだらしなく笑い出してしまいそうなのだ。
 だって、嬉しいだろう。
 申し訳ないとは思うが、嬉しいだろう。
 こんなに自分を第一に考えてくれる人間がいるなんて、嬉しくてたまらない。信じられない、現実だ。
 純粋に好きだという気持ちからくる想いが、たまらなく、嬉しい。
 アーケードへの道すがら、朔也の横顔をさりげなく観察する。
 そこでふと、もう何週間も、彼の特徴の一つであったあの沈んだ眼差しを見ていないこと、どうしようもない怒りに振り回されてしまう事態が起きていないことに気付く。
 先月開かされた、親戚の人間への恐ろしい殺意と良くないことの関係…あれがもし以前の朔也だったなら、それでも『嫌わない』と答えたことで混乱して、その果てに殴りかかってきたことだろう。
 あるいは物事を遮断して、暗く沈んだ瞳を見せたかもしれない。
 あの、自己抑制の幕が下りた眼差しは一種独特で、底冷えがし、あきらかに人を拒絶していた。己さえも。
 今の朔也からは、とても想像ができない。
 夜毎に話をすることが彼の感情を段々と落ち着いたものにしていっているのか。
 過剰に抑えて、自分を卑下して、そんなやるせない世界から、ようやく抜け出したのだろうか。
 彼がそのように落ち着きを取り戻した原因は、一つではないのだろう。
 旅行中、思いがけず彼の幼少期の大きな傷に触れたことや、それがきっかけで今まで誰にも言わずにいたその頃の生活を人に話したこと、もう二度と捨てられたくないこと、嫌われるのが一番恐ろしいこと、それが嫌で泣いたこと…様々なことが絡み合って、もう自分を抑え付けなくてもいいとわかった。
 そして先月のあの話。
 醜い自分をさらけ出しても嫌われることがないとわかった。
 その安心感が、ようやく現実味を伴い彼に根付いて、今の落ち着きに繋がっているのだろう。
 精神的な安定は、日々の生活にも変化をもたらした。
 彼の身の周りに、少しずつ色の付いた食器や雑貨が増えていっているのだ。
 これまでは白無地で無難な形の食器ばかりが棚を埋めていたが、日を追う毎に、薄い木の葉色の皿やくっきりとした青と緑の模様で縁取りされた小鉢が置かれるようになった。
 同じ柄のタオルが洗面所にかかっているのも見た。
 ようやく、暮らしている人間の息遣いが感じられるようになってきたのだ。
 朔也ははっきりした白や黒よりも、森の中を思わせる落ち着いたグリーンが好みのようだった。柄も同じく自然の物が多く、たとえば木の葉の連なりや枝が伸びた物といった具合だ。
 素材も、プラスチックやスチールよりは、木製を好んだ。
 彼は、よく晴れた青い空が好きだ。
 青い空の下には、なるほど、緑の木々が広がるというわけか。
 一人感心する。
 彼は果たしてどんな顔でそれらの雑貨を買っているのか…そういったところから心の余裕が感じられ、男はしようもなく楽しく嬉しくなった。
 何年も抑えに抑え暮らしてきた後遺症か、普段見せる表情は未だに硬い。
 眼差しは随分と感情豊かになったが、実際顔に表すのは、やはり苦手なようだった。怒りや嘆きに歪むことはあっても、笑顔は遠かった。
 がしかし、笑おうとする片鱗は見え始めていた。きゅっと少し、唇を引き結ぶのだ。
 解放される行為の最中はあれだけ自然に笑えるのだから、表情の作り方がわからない訳ではない。
 楽しさや嬉しさで笑う彼の顔は、一体どんな風なのだろうか。
 想像すると妙に緊張して胸が高鳴った。
 アーケードの中は、どの店もまだ営業中だった。明るく賑やかで、人で溢れている。
 朔也が向かった洋菓子店にも、数人の客の姿が見えた。
 目当てのものは、残り一つだった。
 朔也はその一つを買い求めた。
 品物を受け取って振り返り、男と目が合った時、朔也はその目に満足げな微笑みを過ぎらせた。
 男もまた微笑んだ。

「半分ずつ、するかい?」

 店を出た後、男が言う。
 案の定朔也は首を振った。それはもうきっぱりと。
 答えは始めからわかっていた。
 愛情をまた感じて、頬が緩む。
 少し考え、男は口を開いた。

「では今度、何かでお返しをしよう」

 すると朔也の歩みが一瞬ぎくりとしたように乱れた。

「何か希望があるんだね。教えてくれるかい」

 彼の性格から、答えが出るまで少々かかるだろうと、男はのんびり待つことにした。
 予想に反して、朔也は思いの他早く希望を口にした。

「また、食べたい」

 今度は、迷惑かけないから。
 そう言って顔を向けられ、男は理解の一瞬を置いてから笑顔になった。
 いつか振る舞ったあのパエリア…食べ過ぎて胃薬の世話になったのを思い出す。

「そんなに気に入ってくれたとは、嬉しいね」

 うきうきと、声が弾んでしまう。彼は迷惑をかけたくないと言うが、やはり今度もまた一杯まで苦しくなるほど、手が止まらない物を作り上げたくなる。それを迷惑だなんて、とんでもない。こんなに嬉しいことはない。

「……俺も、嬉しかった」

 思いがけないひと言に男は束の間目を見張り、ますます笑顔になった。

「では来週にも、早速招待するよ」

 朔也は少し唇を引き結び、頷いた。
 コンビニエンスストアの前を通り過ぎ、アーケードの出口へと向かう。
 二人の後ろ姿が大通りに差し掛かる頃、店内から一人の少年が大急ぎで飛び出してきた。
 長身で、どこか荒々しい雰囲気をまとった彼は、今し方自分が見たものが信じられないとばかりに眼を眇めた。
 追いかけようとして足を踏み出した時、また一人店内から現れる人影が、少年に向かって声をかけた。
 玲司、帰るわよ、と。
 呼ばれた少年は、大通りと、呼んだ人物とを二度三度見た後、頷いた。断ち切るように踵を返し、歩き出す。

 

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