晴れる日もある

 

 

 

 

 

 八月の終わり頃、朝から、しとしととまとわりつく雨が降った。
 湿った空気は重く冷たく、昨日までの暑さが嘘のようで、ともすれば体調を崩してしまいそうだと男は思った。
 五階の窓から望む街並みも、どこか暗く沈んで見えた。
 秘書の女性が、雨が降ると頭が重くなりがちですねと、ため息交じりに軽く零した。同感だと男は頷いた。
 昼を過ぎて、どうしているかとまた朔也のことに思いが至る。
 日が沈み、帰るめどがついた頃、男は連絡を取った。
 いつものように三回以内で繋がる。行ってもいいかと尋ねると、珍しく…恐らくは初めてだろう、今日は何もしたくないと朔也は言った。
 力のない、囁くような声。
 そういった言葉を彼の口から聞くことに驚きはあったが、心底意外だと思うほどでもなかった。
 朝からの雨はまだ降り続いていた。

「朔也……具合が悪い? どこかおかしい?」

 聞いても、返ってくるのは沈黙だけだった。
 耳を澄ますと、少し浅い彼の息遣いが聞こえた。
 乱れたそれがまるで泣いているように思え、男は顔をしかめた。雨の降る日がこんなにも彼を苦しめる。いつまでも。
 何かを云おうとするためらいの息遣いが続いた。
 何度かしゃくり上げ、朔也はごく小さく言った「顔が見たい」
 途端に全身がかっと熱くなる。

「わかった。少しだけ、待っていなさい」

 男はすぐに行くからと答え用意する。
 車を手配し、急いでマンションに向かった。
 チャイムの音にも、鍵を開ける音にも反応しなかった朔也は、自室のベッドに服のまま横たわっていた。
 雨の日の彼を象徴する、ダイニングテーブルに置かれた黄色い野の花を横目に通り過ぎ、男は静かに部屋の扉を開けた。
 朔也は壁の方を向き、しかし眠っている訳ではなかった。
 いつも行儀よく、言うなれば隙を見せず振る舞う彼が、こんな風にどこかふてくされたような…だらしなく、無防備にしているのが、驚きであるとともに奇妙な喜びを男にもたらした。
 甘えている証拠。嬉しかった。
 幾分早い瞬きから、緊張している様が伺えた。
 男はゆっくり歩み寄り、額に手を当てた。

「熱は、ないようだね」

 朔也は何も言わなかった。
 身体を強張らせたまま、じっと横たわっていた。
 彼自身は少々だらしない振る舞いを見せているが、部屋の中は相変わらず綺麗に片付いていた。
 ここにはもう数えきれないほど訪れているが、服が脱ぎ散らかされているとか、出しっぱなしの物が床に散らばっているといった光景は一度も見たことがない。
 今日もそうだ。
 少ないながらも物はきちんと整頓されており、いつもながら感心してしまう。
 ここだけではない。キッチンからトイレに至るまで、彼の目は行き届いている。
 ちり一つ落ちていないという表現が決して大げさではないのだ。
 これも、去ってしまった母親へのアピールなのだろうか。
 自分はこれだけきちんとできる子供である、だから戻ってきてほしいという無言の訴えのように思え、少し胸が痛んだ。
 無造作に投げ出した手の先に携帯電話があった。
 連絡をここで受け、それきり動いていない様子が伺え、不思議な気持ちになる。
 男は携帯電話を机の上に置いた。
 机の上には参考書やノートの類が数冊積まれ、その脇には筆記用具が数本。それらの上に、ごくありふれた縦長の茶封筒が置かれていた。
 何も書かれていない、無地の封筒。
 中には結構な枚数の紙片が入っているらしく、随分と厚みがあった。
 それを見た途端、何故だかぎくりとした。妙に背中が冷えた。以前こんな封筒を、どこかで見た。
 食事はしたかと尋ねると、少しと朔也は言った。答えてくれたことと、少しでも食べたことにほっとする。

「こんな日もあるさ」

 緊張をほぐそうと男は声をかけた。
 室内はエアコンが利いて程良く涼しかった。
 静かにベッドの端に腰かけ、頭を撫でる。
 その位置から伺える朔也の顔には、泣いた跡は見えなかった。
 どこか思い詰めた顔で壁の方を向いて、瞬きを繰り返している。
 男は少しでも彼の気持ちが楽になるよう、そっと頭を撫で続けた。
 聞こえるのはエアコンの稼働音と、窓越しの雨、そして朔也の柔らかい息遣い。
 何度目かの時、朔也は大きく息を吐いた。
 それからすぐに、頭を動かし見上げてきた。
 ようやく目が合い、男は微笑む。
 朔也は両手を上げ、頭に触れる男の手を確かめるように掴んだ。

「あの時、俺が熱を出した時、同じようにしてくれた」
「ああ、そうだったね」

 男も思い出す。あの頃の彼は本当に不可解で、自分は、そんな彼が知りたくて必死だった。

「気持ち良かった。でもそれが、怖かった、怖くて腹が立った」

 すぐに朔也は、そう思った自分がおかしかったのだと付け加えた。
 男はゆっくり首を振った。

「誰でも、分からないことは怖いものさ」

 朔也は男の顔から目を逸らし、唇を何度か噛んで、また戻した。

「どうせすぐいなくなるのだから、構わなければいいのにって、腹が立ったんだ」

 なんでこんなことをするんだ、って。
 男は緩く頷きながら、また頭を撫でた。
 これまで話してくれたものを集め、あの当時朔也が思ったことを、理解しようとする。
 それはさほど難しいことでもなかった。
 痛いほど、よくわかった。
 彼も自分と同じく、失うことの恐怖を知っている人間。
 だから、何も手に入れたくない。
 どうせなくなってしまうのなら、始めから望まなければいい――本当は、欲しくてたまらないのに。
 それも、今となっては。
 自分の中に入り込んでいた男の意識を、朔也の控えめな声が引き戻す。

「でも、気持ち良いと思ったのは、嘘じゃない。今ならわかる。昼間に来てくれたこと、本当は嬉しかったんだ」
「ありがとう朔也、そう言ってもらえて、私も嬉しいよ。大丈夫、分かっているから。君は決して嘘を吐かない」

 朔也の眼差しがほっと緩み、そしてすぐに悲嘆に暮れる。

「話したいことが、ある」

 微かに空気を震わせ朔也は言った。
 そういった予感はあった。男は頷いた。

「どうしても言えなかったこと。あの日車の中で……これを言ったら、今度こそ嫌いになると思う。でも――」

 聞いてほしいのだと、朔也は潤んだ目を男に突き付けた。

「聞かせてくれるかい」

 頬に手を添え、目を見合わせる。
 触れた頬はエアコンのせいか、ひんやりとしていた。
 朔也はだるそうに手足を動かして起き上がり、男の隣に座った。
 手は伸びてこなかった。膝の上でぎゅっと握られている。
 話は、親戚の人間についてだった。
 十四歳の誕生日を迎えてすぐの頃、朔也は母親の妹夫婦に引き取られた。
 それは、以前に聞いた通りだった。
 彼らはとても良くしてくれたと、朔也は顔を歪めて言った。
 おばさんも、おじさんも。
 二人には五歳になる女の子がいて、その子もよく懐いてくれた。
 吐き出すような口調で親戚の人間について語る朔也に、男は内心驚く。
 回数はそう多くはないが、これまでは静かに淡々と語ってきた。内容は、彼らがどんな風に優しいか、裕福か、そして自分をどんな風に気にかけているか。
 ここに移り住んでからも、ちょくちょく様子を見に訪れている。主に、生活雑貨を届けに来てくれるのだそうだ。
 それらを、ほのかな感謝と共に朔也は語ってきた。
 今とはまるで大違いだ。
 今は、明らかに憎んでいる顔付きだった。
 彼らは、優しさの影で朔也を虐げたのだろうか……。

「そうじゃない」

 彼らは本当に善良であると朔也は言った。
 まるっきりの聖人という訳ではなく、時には感情に左右され腹を立てることもあったが、嫌なこと、理不尽な思いなど一度もしたことはない。不当に扱われたことなど、一度だってなかった。
 それどころか本当に良くしてくれた。
 少しお節介なくらい家族同然に扱い、受け入れてくれた。

「今日も、来てくれた」

 雨の中、わざわざ来てくれた。
 いつものように、足りない物はないか、学校の方はどうか、訊いてくれた。
 今日の夕食は、彼女が持ってきたシチューを食べたと、朔也は言った。

「本当に、いつも気にかけてくれる……」

 誕生日も、みんなと同じように祝ってくれた。
 名前の書かれたプレート、年齢分のロウソク、豪華なケーキ…ずっと小さい頃から、何年も憧れていたもの。
 贈り物も、本当に考えて選んでくれたのだということがよくわかる、素晴らしい品だった。
 だから。

「死ねばいいのにって、思った」

 男は息を止めた。探るように朔也を見やる。
 朔也もまた、真っ向から男を見た。
 誰かを死ねと呪うにふさわしい、異様な光が宿った眼差しをしていた。
 男はわずかに喉を震わせた。

「それは、なぜ?」
「なぜ?」朔也の目付きがますます険しくなる「なんで? なんで俺は違った? なんで俺だけ、どうして……どうして俺も、あそこに生まれなかった?」

 何故自分も、この家に生まれなかったのだろう。
 いわれのない暴力や、罵倒の声に怯えたり、毎日の食べるものの心配をしなくていい家。
 そこで暮らしているのは、お父さんとお母さんに一杯愛されている女の子。
 四歳の誕生日を過ぎても捨てられる心配なんてまったくなくて、お前なんかいらないとぶたれることもなく、ましてや、口にするのもおぞましいことをされるなんて絶対にない。
 妹が思い出された。
 妹も、どこかでお母さんと一緒に、こんな風に暮らしているのだろうか。
 そう思ったら憎くて憎くて、自分を迎え入れてくれた人たちが本当に嫌で、死んでしまえばいいのにと思った。
 一気にまくし立て、朔也は肩を落とした。
 男の顔からゆっくり視線をずらし、俯く。

「その日の夜は、眠れなかった」

 発狂しそうなほど怒りが渦巻いて、どうにかなりそうだった。

「本当に、ずっとほしかったんだ。ずっと。一度でいいからふつうの子供と同じようにしてもらいたい……」か細い声で呟き、朔也は浅い呼吸に肩を上下させた「ずっとそう思っていたのに」

 いざ目の前に差し出されたら、何もかもが憎く思えた。
 愕然とした目が忙しなく動く。

「良くないことをしたのは、それからすぐ」

 夜遅く町をふらついて、声をかけてきた人間についていって、そして――。
 彼の口からついに零れた良くないことの発端を聞き、 男は奥歯を噛み締めた。
 今日まで色々な話をしてきた朔也だが、それについてはほとんど触れることをしなかった。
 あの日車の中で話した時、そのことをひどく後悔しているのは読みとれたが、それ以外、いつ、何故始めたのかは一切口にしてこなかった。
 彼のあの行動は、もがいた末の結果だったのだ。男は胸が重く軋むのを感じた。
 か細い声が続く。

「その……封筒に入っている分だけ、俺は――……」

 男は、朔也が指差すものがなんであるか、何を意味するか、全て聞かずとも理解した。

「見ても、構わないかい?」

 顔を向けて尋ねるが朔也は反応しなかった。
 ひどく怯えた目が、痛々しかった。
 男は立ち上がって封筒を手にした。
 案の定、中に詰まっていたのは高額紙幣だった。
 また腹の底が冷える錯覚に見舞われる。
 これが何なのか、聞くまでもない。
 彼がある手段で得た、彼の価値を表すもの。
 自分は結局突っ返されてしまったが、それ以前に受け取った分が、ここに全部詰まっているのだろう。
 いささか乱れる呼吸を強引に飲み込み、男は再び封筒を置いた。

「俺はやっぱり、頭のいかれた汚い子供なんだ」

 父親の言う通りに。
 だから、恐ろしいことを平気で思い付く。
 良くないことも平気でできる。
 男は口を噤んでいた。
 違うというのは簡単だ。
 君はいかれてなどいない、汚くなんかない。
 本当にそう思っている、心からだ。
 彼は少し変わったところがあるけれど、どうしようもなくおかしい訳ではない。
 むしろよくやっている方ではないか。
 汚い部分だって、人間ならば誰でも抱えているものと、そう大差ない。
 彼はいかれてなどいない。汚くなんかない。
 けれどそれは朔也の望んでいるものではない。欲しいものとは違う。

「俺のこと……嫌いになった」

 平坦な声は、そうなっても仕方ないと諦めているからだろう。
 本当は嫌われたくないけれど、仕方がないのだと受け入れている響き。

「いいや」

 朔也と向かい合い、男はきっぱりと首を振った。
 実のところ、もっと恐ろしい告白を予想していた。それこそ、誰かを殺してしまったことがあるとか、重大な裏切りを隠していたとか。
 これは朔也に言えないが、正直なところ彼にもそうやって、人を妬む部分があったことが嬉しかった。誰かを恨むことすらできないほど心が萎れてしまったのかと、悲しく思うことがあったからだ。
 死ねばいいと思うほど誰かを憎む…確かに恐ろしいことだが、それはきっと誰の心にも秘められているもの。
 自分自身にも。
 ほんの昨日までそうだった。
 失望し、自暴自棄になった彼が行き着いた先は自分とは違う、が――嗚呼まったく、彼はどこまでも心を揺さぶる。
 それでも自分は。

「君が好きなことに変わりはないよ」

 跪き、朔也を見上げる。
 朔也はきつく眉を寄せ、喉の奥で唸った。獰猛な獣を思わせた。実際、彼は心の中に獣を飼っている。我を忘れるほどの恐ろしい、けれどだからこそここまで生き伸びることができた、勇敢なもう一人の彼。
 優しく慈悲深い時もあれば、驚くほど冷淡な時もある、彼の中にいる彼。
 声の中に信じられないという感情が込められているのを聞き取り、男は少しばかり恐ろしいことが起こる予感に身構えた。
 少しばかり恐ろしいこと、殴りかかる前触れ。
 しかしこの時の朔也はそうしなかった。

「こんな人間だから」

 低い声が続く。
 平気で恐ろしいことを思い付く人間だから、母親は自分を置いて行ってしまったんだ。
 自分は捨てられてもしようがないほどの頭のいかれた汚い子。
 男は瞬間的に湧き起こる怒りを抑え、そうではないと首を振った。
 怒りは、小さな男の子を置いて行ってしまった母親に対するもの。
 彼を不当に扱い、傷付けた父親に対するもの。
 かっと熱くなった頭はすぐに冷え、どうしたらわかってもらえるか、どう説明すれば…物事は全くの逆で、置き去りにされ傷付けられたから、彼は怒りに囚われ良くないことをしてしまったのだ。それは彼のせいではない。彼には、どうにもしようがないことだった。
 どうすればわかってもらえるだろう。

「朔也……朔也、聞くんだ」

 朔也は喘ぐように息をつき、瞬きもせず男を凝視した。
 荒々しい目付きだが、ひどく怖がっているのが見てとれた。
 男はゆっくり両手を伸ばし、包むように頬に触れた。

「確かに恐ろしい考えだろう。けれど君は、それが恐ろしいことであるとわかっている。きちんと抑制できている。私はそこを評価したい。君は色々と大変な思いをしてきた。だから、人とはちょっと違うところがあっても、それは当然なんだ。大事なのは、それを自覚して、コントロールすること。君はそれができている。私はそれを、素晴らしいと思う」

 それができなかった身近な誰かを思い浮かべながら、敬意を込めて男は言った。
 黙ったまま、朔也は瞬きを繰り返していた。

「また一つ君を知ることができて、嬉しいと思っているよ。聞かせてくれてありがとう」

 向かってくる強い眼差しを受け止め、男はもう一度想いを告げた。

「君が好きだよ、朔也」

 猜疑心に満ちた眼差しがその言葉でふっと和らぎ、みるみるうちに涙が盛り上がってきた。
 朔也はうろたえた様子で顔を背け、立ち上がった。
 額を押さえ、何とか涙を引っ込めようとしている。
 男はあえて声をかけず、見守った。
 泣くとあの頃に戻ったように思えて、負けたように思えて、嫌なんだと朔也は言った。
 だから見て見ぬふりをする。
 息を潜めてじっと待つ。
 どうか、零れ落ちませんように。
 願わくは、今の涙が嫌なものでなければいい。
 何度か息を啜り、ようやく落ち着いたのだろう、朔也は手を下ろした。
 それから少しして、背中を向けたまま何か食べるかと聞いてきた。
 どうやら『何もしたくない』気分はどこかへ行ってくれたようだ。
 男はほっとため息をつき立ち上がった。
 隣に並び、しばし様子を伺う。それから慎重に肩に手を置く。

「少しは、楽になったかい?」

 朔也は即座に首を振った。駄目だったのかと男が落胆する寸前、小さいがはっきりした声で言う。

「とても」

 少し濡れた睫毛を震わせ、朔也はまっすぐ男を見た。
 要らぬ力が抜け、安心しきっているのが伺えた。
 男は微笑し、抱き寄せた。
 すぐに朔也も腕を回し抱き付いた。まるでしがみつくような勢いだった。
 話をすることがよほど怖かったのだろう。男はしっかり受け止め、少し強めに背中をさすってやった。
 胸の内側に溜まっていた悪い何かを吐き出すように、朔也は大きく息を吐いた。
 男はまたぎゅっと抱きしめた。
 少しして名前が呼ばれる。
 男は腕をほどき応えた。

「俺は、あの金を、どうしたらいい?」
「どうも。難しく考える事はないさ。多少…良くはなかったが、盗んだ訳じゃないんだ、普通に使えばいい」金は金だ、変わりはない「貯金に回すのも、普段使う分にするのも、君次第だ」

 朔也は考え込む顔で二度、三度頷いた。

「ただ、無駄に使ってはいけないよ」

 心に刻むように、また重く頷く。
 ありがとうと、心底ほっとした声で朔也は言った。

「……鷹久は、俺を怒らない」
「だからといって」男は両手でしっかり頬を包み込んだ「君が怒るに値しない、どうしようもない子だという訳では、ないんだよ」
 それはわかっているね?
「君が、物の道理をよく理解しているからだよ。だから怒る必要がないんだよ」

 朔也の眼差しが強張り、落ち込む。自分は何一つとして理解などできていないと、語っていた。
 男は微笑みを向けた。

「されたことが大きいと、失敗もそれだけ大きくなってしまうものだ……重要なのは、失敗をただ過去に流すのではなく、学んでいくこと。まだ許される年齢だ、失敗を重ねて、学んでいけばいい。君もそうしている。大変な思いをしてきたのに、驚くほどよくやっている。だから私は、君を怒らない」

 それでも朔也の眼差しは落ち込んだままだ。
 良くしてくれた人らを、死ねと呪ったのだ。その衝撃はそう簡単には晴れないだろう。
 唐突に、頭の中で結び付くものがあった。
 朔也が良くないことに逃げ、ひどい事を望んだのは、そうすることで自分を見てもらいたいという欲求の他に、恐ろしい考えに飲まれた自分を罰する意味もあったのではないか…ふと、そんな推測が過ぎる。
 男は朔也の頬をこするようにして手を動かし、頭を撫でた。

「君はまだ、彼らが死ねばいいと思っているかい?」

 思っていないと、朔也はきっぱり首を振った。

「まだ、ひどい事をされたいと思っているかい?」
「もう、二度としない」封筒を見やり、男に目を戻す「あんなこと」
「そう、それでいいんだ。そこから始めよう」

 朔也の目が、ほんの少しだけ上向く。
 男は笑いかけ、肩を抱き寄せた。
 朔也は伏せていた顔を上げ、男の頬に自分の頬をくっつけた。そして形良い唇から、ささやかにため息を吐いた。
 雨はいつの間にか止んでいた。

 

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