晴れる日もある

 

 

 

 

 

「おかえりなさい」

 どこかぎこちなく、たどたどしい発音だが、間違いなく朔也は言った。
 おかえりなさい、と。
 そう言って、いつものように尋ねてきた男を迎え入れた。
 男は表情も変えられないほど驚いたが、おかえりなさいと言われて反射的に『ただいま』という言葉が口から出た。
 それもまた驚きだった。
 単なる習慣の一つに過ぎないものも、彼と交わすと途端に特別になる。
 何より、嬉しかった。
 あの旅行を終えて、朔也は変わった。
 相変わらず見送りは嫌がりそっぽを向くが、男がやってくると、ただ玄関のドアを開けるだけでなく『おかえりなさい』と言って迎えるようになった。
 ようやく一つ、壁が取り払われたようだ。
 初めは、どう表現していいかわからないくらい嬉しくなった。
 数回経ても、やっぱりまだ嬉しかった。慣れて気持ちが落ち着くどころか、より大きく膨らんでいくようだった。
 他の誰に言われるよりずっと、格別の喜びだった。
 ただいまと言って家に入ることは、こんなに心を幸せにするものだったのか。
 回数を重ねるごとに幸福感が募ってゆく。
 感謝や愛慕、無くしたくない気持ちが、どこまでも高まってゆく。
 男はあらためて、自分の中の朔也の存在を思い知った。
 旅行後、もう一つ変わったものがあった。
 あの日から、朔也は話をするようになったのだ。自分に関する色々なことを。
 ぽつりぽつりとではあるが、自分がこれまでどのように生きてきたか、どんな時にどんなことを思ったか、表に出すようになった。
 男は話を聞く為に、時間が許す限り朔也の元へ足を運んだ。
 といって、テーブルに向かい合って座り、さあ聞こうか、ということはしなかった。
 それまでと同じ過ごし方を通した。
 話は、セックスの最中乱れた息の下から突然に紡がれる…似た状況下におかれ記憶が過ぎったからだろう…こともあれば、その後のソファーでの休息中、長い長い静寂の後にふと始まることもあった。
 男はどんな言葉にもよく耳を傾けるようにした。
 聞く意思があること、その用意ができていること。その空気を作り上げることに努めた。
 自分の中に溜め込んで腐らせるよりは、出せるものは出した方がいい。
 嫌な、つらい記憶も、そうしていく内にいずれ収まるところに収まるだろう。
 無かったことにして見て見ぬふりを続けていくと、どうなるか…わかっている男は、徹底して聞き役に回った。
 話を聞くこと自体はさして苦でもなかった。いくらでも受け止めてやりたいと思う。こちらを信用して話してくれているのだから、受け止める義務がある。
 ただ、朔也の口から出てくる悲惨な数々の言葉に、込み上げる怒りを抑えるのにひどく苦労する。正直に言って、耳を塞ぎたくなる時もある。
 何故なら彼が体験した否定や罵倒はかつて自分も味わったことがあり、どうしても切り離して考えることができないのだ。
 そのせいで余計に怒りが渦巻き、同情が募る。
 けれどそこで過剰に気持ちを口にするのはためらわれた。
 漠然とだが、一回ずつああ可哀想に、大変だったね、などと安易に憐れみを向けるのはかえってよくないことのように思えたからだ。
 男は意識して反応を抑えた。
 そして本人が話したい以上のことを詮索するのも禁じた。誘導もしなかった。
 ようやくできあがったばかりの絆ゆえにまだ脆いところがあったからだ。朔也の態度からも、こんなことを聞かせていいのか、これ以上話したら、今度こそ本当に嫌われてしまうのではないか、そういった恐怖に縛られているのが見てとれたので、男は、少しずつ少しずつ、深く潜っていくことにした。
 その代わり、というべきか、彼が努力したこと、獲得したものに対して、大げさにならない程度に賞賛の言葉を贈った。
 彼が身に付けたほぼすべてのことは、母親に捨てられたという思いからくるものだった。より難しいことを覚えれば、そしてできれば、母親は行ってしまわなかったかもしれない。家族揃って暮らしていられたかもしれない…わかった今でも、どうしても拭いきれない欲求。そのことにより強く縛られていた頃、朔也は混乱した生活の中色んな物を吸収していった。
 そしてある時、そんなものは幻想にすぎないと、気付いてしまった。
 何をしようが、母親は帰ってこない。
 結局自分は頭のいかれた汚い子供。
 そんな風に絶望して、放棄した。
 散々否定され、隅に追いやられ、踏みにじられた人。
 だから男は、代わりに彼を認めることをした。
 あなた自身が頑張った証だと、そのものを褒め称えるように努めた。
 してきたことは、無駄ではない。
 獲得したものは、間違っていない。
 かつて自分がほしかったものを、今そうされたい子供に惜しむことなく与えた。彼の為に、そして密かに、自分自身の為にも、自尊心を満たした。なにより『否定をしないこと』は、思いの他気持ち良かった。
 できて当り前のこと、たったそれだけではなく、できたことそのものを認めるのは、本当に気分が良かった。
 よくやってきたと驚くと同時に、どうやって身に付けたのだろうかと不思議になる部分もあった。
 あまりに貧しく混乱した子供時代を送ったにしては、彼の行動に卑しい部分がちっとも感じられないのは不思議だった。
 見送りの言葉引いては行為自体を頑として拒む…生い立ちに因む特殊な部分を除けばいつも行儀がよく、礼儀作法についても、まずおかしなところは見当たらない。無理に装っている不自然さも、ないのだ。以前、こういった事情を知らなかった時――まだ、彼とは金で繋がっていた時、何度も食事に誘ったあの頃、彼のテーブルマナーはほぼ完璧だった。不慣れだったり、使い方を知らなかったりといったところはまったく見受けられなかった。
 きちんと躾けられた育ちの良ささえ感じられた。
 実際は、全く正反対だというのに。
 その点について朔也は、見て覚えたのだと答えた。しかし、いつ、どこで、といったことは記憶があやふやだった。考え込むと、嘘だと疑われていると思ったのだろう、ひどく不安な顔になって、本当にそうだと言った。
 もちろん、彼の言葉を疑うなんて、これっぽっちもありはしない。
 ただただ不思議だった。
 彼はもう一度、本当だと繰り返した。
 朔也は、全部を男に預けようとしていた。そしてそのことに戸惑いと疑問を感じていた。
 距離の取り方に苦労しているのだと、すぐにわかった。
 だから男は、前にもまして朔也をよく見て、自分に出来る手助けに心を砕いた。
 聞いてもらえること、受け入れてもらえることに喜びを感じてもらえるよう努める。
 二、三の制約はあるが、他人と友好を結ぶのと何ら変わりはなかった。
 難しく考える必要はない。
 彼も自分も、一人の人間であること。
 お互いをよく知りたいと思っている人間同士であること。
 それを今一度噛み締めて、男は、夜に朔也と並んでソファーに座り、彼が今日まで生きる為にどんな道のりを辿ってきたかに耳を傾けた。
 一つひとつ手探りで、より良いものを選ぶ。
 医者気取りかと、自分自身を揶揄する。
 そんなつもりはないと、言い訳をする。
 ただ、彼のことをもっとよく知りたいだけだ。

 

 

 

 雨の日に起きたことや、雨の日に何を思うのか、知ることができた。
 身体のあちこちに残る古い傷跡が、どんな時に刻まれたのかも、彼は語った。
 想像するのが難しいほどの凄惨な状況。貧しさなどは自分には縁遠いからというのもあるし、詳細に思い浮かべることで怒りが込み上げ、目が眩みそうになるのを食い止める為、抑えるからというのもあった。
 そういった怒りをどうにか飲み込んだ後に思うのは、彼が生きていて良かった、ということだ。
 受ける謂われのない暴力に負けて、死ななくて良かった。
 良くないことに溺れていた時、死んでしまわなくて良かった。
 今、自分の日々に彼がいないなんて想像できない。
 だから男は、会話の合間や締めくくりに、出来る限り心を込めて想いを告げた。
 朔也はそれに穏やかな表情で応えた。
 未だ言葉は出せないようだが、少し潤んだ熱っぽい視線を送られ、男は幸せな気持ちになる。

 

 

 

 そうやって夜を過ごすようになった頃から、朔也は男の空いた方の手を自分の手と組み合わせておくようになった。
 ただ組んでそのまま膝においておくこともあれば、もう一方の手で包むようにしたり、言葉に詰まった時や考え込んだ時、次の言葉が出せるまで口元に持っていく仕草をしてみせるようになった。
 それ以前は、行為の時以外滅多に朔也の方から触れてくることはなかったのだ。
 接触することで何らかの安心感を得ているのは一目瞭然だった。
 自分の中身をさらけ出すのだ、生半可な勇気ではなせないだろう。
 また、どこにも行ってしまわないように繋ぎとめている意味もあるだろう。
 何にせよ自分の手が、こうして彼の役に立っていることは、男の心を大いに安心させた。
 男は握り返すだけで特に何も口にせず、朔也の自由にさせた。
 内心、とても嬉しかった。
 話をする際、朔也は驚くほど感情を露わにした。表情もそれに合わせて変わる。といっても大半は、怒りや嘆き、憎しみといった少々暗い激しいものだが、憎々しげに吐き捨てたり、睨んだりと、きつく歪む唇や眼差しを見るのはそう悪い気はしなかった。
 話の内容には気分が沈む。が、表情を隠さない様は、正直嬉しく感じる。
 彼の中で長い間淀んでいた澱が、話をする度ごとに、唇を一つ歪めるごとに、消えて無くなっていくように思えたからだ。
 それらを見ていてふと、男は、こういった暗部をさらけ出すのが嫌で、徹底して表情を消していたのではないか…そんなことをぼんやり思った。
 こう言ってはおかしいかもしれないが、整った顔を怒りに歪め、感情をむき出しにした朔也もまた、美しかった。
 そうして夜更けまで朔也の物語に耳を傾け、日々は過ぎていった。

 

目次