晴れる日もある

 

 

 

 

 

 男ははっと目を覚ました。
 いつの間にか、もう一つの布団で眠りに落ちていたようだ。
 隣では、朔也が静かな寝息を立てていた。
 外は既に明るい。間もなく六時だ。
 起き上がり、両手で顔を覆う。
 すると鮮明に夢の内容が蘇った。
 最後に見たあれは、少し前までの自分。
 最後のあの言葉は、未だ拭いきれない迷い。
 深く息を吐く。

「嫌な、夢か」

 声がした。
 顔を向けると、起き上がった朔也と目が合った。

「ああ、朔也…済まない、起こしてしまったね」

 心配そうな視線にそう応える。
 朔也はひどく強張った顔になって、小さく首を振った。

「俺が昨日、あんな話をしたから」
「そうじゃない、違うんだ」

 大丈夫だということを証明するように、男は笑顔を浮かべた。
 それでも朔也の顔は晴れない。
 男はしばし考え、口を開いた。

「……確かに君の話は、かなり響いた。そのせいではないが、少し……怖い、夢を見た」

 嘘を吐くなと言った人間が、嘘を吐く訳にはいかない。
 男は言える部分だけを正直に吐露した。

「だから、もしよければ、この前してくれたように慰めてくれるかい?」

 朔也はすぐさま布団から出て、男の横にひざまずいた。

「その前に、風呂に入って昨日の疲れを落とそうか」

 せっかく温泉宿に来たのだから。
 何か云いたげに男を見た後、朔也は頷いた。
 男はにっこり笑って手を差し伸べた。

「おいで。行こう」

 朔也が気兼ねしないで済むよう、露天風呂の付いた離れの部屋をとった。
 綺麗に整えられた庭が見渡せる、石造りの露天風呂。
 それほど大きくはないが、充分手足を伸ばしてくつろげる。
 肩まで浸かり、男は大きく息を吐いた。
 少しぬるめの湯が心地良い。

「よかった」

 隣で身体を温める朔也に向かって男が言う。
 朔也は首を傾けるようにして男を見た。

「昨夜は大分疲れた顔をしていたが、今はすっかり元気そうだ」

 腫れも引いたよ。
 男は目元を軽く指差し微笑した。
 朔也は顔を正面に戻し、遠慮がちに寄りかかった。

「鷹久が話を、聞いてくれたから」

 それでも嫌わないでくれたから。
 安心して眠ることができたと、朔也は続けた。
 まだ、預ける重みは全部ではないが、寄りかかってくる朔也の仕草に男は心がほぐれるのを感じた。
 何とかなるように感じた。
 もう一人の自分に打ち勝ち、彼も、彼女も、助けられるように思えた。
 自分自身を――。
 いや、助けなければいけない。全ては自分が招いたこと。愚かな夢はもう、終わらせる時間だ。

「少しでも力になりたいと思っている」

 男は手を持ち上げ、勇敢な人の頬に触れた。指先で静かに輪郭をなぞる。
 そして自分の方に向かせ、じっと目を見た。
 朔也はその手を掴んだ。強く握りしめた。

「初めは、どうしても信じられなかった」

 赤の他人が自分に好意を向けることが、どうしても受け入れられなかった。
 親に置き去りにされた。捨てられた。つまり、自分は親にさえ愛情を注いでもらう価値の無い子。
 そんな人間が、好意をもたれる、好きだと言ってもらえるなどあるはずがない。
 心許ない声で、朔也はぽつりぽつりと語る。
 男は口を挟まず、黙って頷くにとどめた。
 傷を治してくれたこと、好きだと言ってくれたことを、憎く思ったこともある…ごめんなさいと朔也は呟いた。

「俺は、すごく……馬鹿だった」

 男は静かに首を振った。
 漠然とだが、わかる気がしたからだ。
 今まで知らなかったこと、なかったものに触れて、混乱したのもあるだろう。
 自分もかつて味わったことがあると、男は遠い記憶を手繰り寄せた。

「でも鷹久は、そんな俺に何度も――鷹久がいれば、世界はまわる」

 世界はまわる。二度目に口にする時、朔也は目を閉じ少しうっとりした表情になった。
 彼の瞼の裏に浮かんでいるのは、どんな光景なのだろうか。できるなら、自分も見てみたいと、男は思った。
 それからしばし朔也は沈黙した。
 男は陶酔する少年の顔をじっと見つめた。
 唇に触れたいとちらりと思った時、だから、と朔也は口を開いた。
 目を開け、真っ向に男を見据える。

「鷹久はなくしたくない。鷹久だけは、行かないでほしい」

 もう、いやだ。
 何かに強く抗う、意志のこもった声が男の胸を打つ。その響きは低く、囁くようだったが、叫ぶよりもずっと深く心を突き刺した。
 色んなものを失った人。誰でも当り前のように手にできるものが、手に入らなかった人。

「朔也……」

 単純に生活の質を比べるならば、自分は恵まれており、彼はどん底だった。
 自分の周りには金や物品が有り余って溢れ返り、何一つ不自由した覚えはない。
 一方彼は、足りないものが何であるかもわからないほど、持つことができなかった。
 これほどまでに全く違った世界の住人である。
 それでいて自分と全く同じで、正反対の…男はまっすぐ向かってくる視線を受け止めた。
 もしも何かがあんたを持っていくなら、命がけで戦ってやる――そこまでの想いをはっきり浮かべた強い瞳に驚きを隠せない。
 これが、彼だろうか。人の好意にひどく懐疑的で、わからない故に気持ちを恐れ怯え、失うならば始めから無い方がいいときっぱり遮断していた彼だろうか。
 人は変わる、こんなにも変われることにどこかで否定する声が上がり、どこかで否定の声を打ち消す声がした。

「俺は鷹久が、俺も鷹久のことが……」

 朔也は顔をしかめた。
 その先を言おうとすると、どうしても声が出なくなってしまうようだった。
 言ってはいけないという呪縛からは離れられたようだが、依然根が深いことを、男はあらためて思い知った。
 朔也は悔しそうに唇を歪めた。
 好きだと告げられない自分を悔しく思う、今はそれで充分だ。

「焦らなくていい、朔也。聞こえているから」

 大丈夫だ。
 悔しさに震える唇を、指先でゆっくりなぞる。
 たとえずっと口に出せないとしても、充分愛情は伝わっている。見えなくてもしっかりと受け取っている。
 それでも朔也は嫌だ、嫌だと首を振った。こんなにしてくれる人に、何も返せないなんて嫌だ。ここにあるものは嘘ではないのだ。唇に触れる手を掴む。

「嫌だ……鷹久」

 朔也は縋るように名を呼んだ。
 男は両手で頬を包み込んだ。

「朔也……私のことが、好きかい?」

 それまで痛々しいほど張り詰めていた瞳がふと和らいだ。
 朔也はまっすぐ視線をぶつけて、同じように男の頬を両手で包んだ。
 そして目を閉じ、静かに言った。

 いつも俺を見てくれるところ。
 優しい子だと褒めてくれるところ。
 俺の料理を美味いって食べてくれるところ。
 綺麗な顔で笑ってくれるところ。
 優しく『おいで』と言ってくれるところ。
 何の見返りも求めず、抱きしめてくれるところ。
 優しくセックスしてくれるところ。
 鷹久の全てが。

「俺の、世界」

 途端に男の胸に衝動が込み上げる。
 たまらずに男はその痩せた身体を抱き寄せた。

「……鷹久」

 少し苦しさを含んだ声がした。
 けれどすぐには応えられなかった。
 とにかく、自分の腕の中に朔也がいること、それを確認するのが精一杯だった。
 耳を澄ますと、幾分早い鼓動が伝わってくる。
 聞くうちに段々と気持ちが落ち着いていった。
 間違いなく、腕の中に朔也はいる。

「好きだよ朔也……私はどこへも行かない。約束する。誓うよ。決して、どこへも行ったりしない。行くものか」

 どこへも行かない。
 男は自分に言い聞かせるように、何度も繰り返した。
 朔也は頷くように顎を引き、男を抱き返した。
 そして約束通り、怖い夢に苛まれた男を慰める為、頭をゆっくり撫で始めた。

「……ありがとう」

 男はもう一度、愛しい少年の名を呼んだ。

 

 

 

 湯上り、脱衣所の壁に追い詰めるようにして朔也は男を慰めた。
 温泉でほのかに上気した頬を更に赤く染め、うっとりと喘ぐ顔を見せられ、男は抑えが利かなくなる。
 互いのものをひとまとめに手淫に耽る朔也の手を掴んで止め、口付ける。
 唇を重ねたまま右脚を腕に抱え、奥にあてがう。
 途端に朔也は慄いたように腰を引いた。
 彼が行為を拒むのは、初めてのことだった。

「部屋に移るかい?」

 尋ねる声に俯き、朔也は口ごもった。

「まだ……してくれるんだな」

 顔を伏せたまま言う。

「……え?」

 朔也は顔を上げた。
 少し泣きそうな顔だったが、悲しみとは異なって見えた。

「セックス……俺と、まだ……」

 一拍遅れて、朔也の言いたいことを理解する。
 昨日の話を聞いてもまだ、自分を抱きたいと思ってくれるのか。
 笑いかける。
 本当はもう少し邪気のない顔をしたかったが、肉欲が痛いほど疼いているせいで余裕がない。汗が背中を流れる。湯上りのせいかそれとも。

「したいよ」男はゆっくり腰を進めた「君が好きだからね」

 戸惑いがちな嬌声が零れる。
 彼の中はうろたえた分だけ狭かった。
 男はできるだけ苦痛にならぬよう注意した。
 深くまで入れて、一度動きを止める。
 いつもならすぐにしがみついてくる朔也の手は、未だ男の肩で躊躇していた。
 男はその手を片方ずつ首にまわさせ、しっかりと抱きしめた。
 熱い肌が奥の方まで重なり合う。
 少しして、ようやく彼の口から力の抜けた吐息が零れた。

「君を嫌ったりなどしない。安心しなさい」

 一度や二度口にしたくらいでは、長年抱えてきた苦悩は消えない。態度で示さなければ伝わらない。何だってしよう。
 だから男は、自分の証で朔也に触れる。

「……ごめんなさい」朔也は片手で顔を覆い、啜り泣くように息を荒げた「俺は、いやな奴だ……」

 悔しさが滲む声。

「そんなことはない。大丈夫、大丈夫だ」

 男は宥めながらゆっくり床に座り、いつもの歓喜の姿勢を取った。
 朔也はためらいがちに足を絡めた。

「もっとしっかり抱いて、いつものように……そう。大丈夫だ、朔也。私はここにいる」

 男はゆっくり頭を撫でた。
 しばらくそうしていて、やっと、朔也は頷いた。

「君が私を信じようと努力しているのを、知っているよ。人を信じ切るのはとても難しいのに、君は本当に勇敢だ。だから、いいかい、君が気に病むことは何もない。自分を責める必要はないんだ」

 今すぐでなくても、少しずつ、わかっていけばいい。
 全身でもたれかかってくるのを受け止め、男はもう一度、好きだよと囁いた。
 朔也はまた息を啜り、深く吐き出した。右手を自分の背後に持っていき、繋がっている個所に触れる。

「入ってる……」
「……ああ」

 低く呻き、男も同じように触れた。
 途端に朔也は全身をびくんと跳ねさせた。
 合わせて締め付けてくる反応を楽しみながら、男は一杯まで拡がった縁を指先でそっとなぞった。
 朔也の口からかすれた嬌声が漏れ、男の背筋を震わせた。

「鷹久……動いていい?」

 あんたと、気持ち良くなりたい。
 耳たぶを軽く噛まれる。
 それだけで暴走してしまいそうになる。一気に鼓動が早まる。

「……おいで」

 男は目を眩ませながら、高みを目指した。
 朔也は甘い声で仰け反り、いっそう強く男にしがみついて、深く飲み込んだものを愛撫した。

 

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