晴れる日もある
宿での夕食の後、部屋に戻っていくらもしない内に朔也は半分眠るようにとろんと目を伏せた。 昼間あれだけ泣いたのだから当然だろう。旅行の疲れもある。 もしかしたら食事を残すかもしれないと考えていたが、そんなことはなかった。 泣いて疲れて、かえって空腹を感じたようだった。 具合が悪くなるような素振りも見せなかった。 ただ黙って静かに箸を口に運び、ほとんど残さず平らげた。 どうやら宿の食事は口に合ったようだ。 欲を言えば、今日一日の感想を言い合うくらいの会話はしたかったが、とてもそんな余裕がないのは一目瞭然だった。 彼は本当に疲れ切っていた。力を出し切っていた。 少々残念ではあったが、男もかなり疲れていたのでちょうどよかったといえる。 そして部屋に戻った今、朔也は座イスにもたれて静かな寝息を立て始めている。 試しに呼びかけてみたが、返事はなかった。 すっかり寝入っていた。 男は起こさぬよう静かに抱き上げ、隣の部屋に敷かれた布団へ運んでやった。 以前、熱を出して寝込んだ時に抱えた頃と比べると、幾分重く感じられた。 きちんと食べている証拠。 成長している証。 何故だが、無性に嬉しくなった。 そんな自分が少しおかしかった。 そっと寝かせてやり、すぐ横に座ってじっと寝顔を見下ろす。 そこで、朔也の目がほんの少し開いた。 数回瞬きした後、なにごとか唇を動かした。名前を呼んだのはわかったが、聞き取れたのはそこまでだった。 「どうした?」 そっと聞き返す。 俺のこと、嫌わないでくれて、ありがとう…本当に囁くような声で、途切れ途切れだったが、何とか聞き取ることができた。 男は安心させるように頷き、微笑みかけた。 「もう、何も心配しなくていい」 ゆっくりお休み。 朔也と同じだけの小声で返す。 朔也は目を閉じ、短く何かを呟いた。 おやすみ、と言ったのだろう。 それからいくらもしないで、寝息が聞こえてきた。 男は笑みを深めた。 あどけない寝顔を眺めていると、昼間の出来事が目まぐるしく頭を過ぎった。 楽しかった出来事と、衝撃的な話。 男は大きく息を吐いた。 手を伸ばし、朔也の頬を撫でる。 心なしか目元が腫れていた。 男はいたわるようにそっと触れた。 宿に向かう車中、朔也はしきりに気にしていた。 ひどい顔をしていると俯いた。 あれだけ泣いたのだから仕方ないと、男は慰めた。 それでも朔也は、ひどい顔だと呟いた。 そして、男に言った。 あの時もそうなった。 いつのことか尋ねると、もう会いたくないと言った夜のことだと朔也は答えた。 どうしようもなく辛くて、怖くなって、泣いてしまったと朔也は言った。 それから次の週末になるまで、毎日頭がおかしくなるほどあんたのことばかり考えた。 男は耳を疑った。 朔也は続けた。 本当は、次の週もその次の週も、ずっと、会いたい。 でも、お母さんのようにいなくなってしまったらと思うと、怖くて苦しくて、どうしていいかわからなかった。 そこまでのものを乗り越えて、約束の日、待っていてくれたのだ。 寒空の下、所在なげに立ち尽くしていた朔也を思い出し、胸が痛んだ。あの時、きちんと約束通りの時間に到着できていたら…今更変えようもない失敗に、また胸が疼いた。 みっともない――唐突に朔也は言った。 何を指して言ったのだろう。男はやや困惑した。 本当は、泣きたくなかった。 泣くつもりはなかった。 続く言葉を聞き、男は納得した。人に泣き顔を見られるのは、泣いているところを見られるのは、相手が誰であっても避けたいものだろう。 しかし朔也が言ったのはそうではなかった。 泣くと負けた気がするから、嫌だ。 泣くとあの頃に戻ったようで、嫌なんだ。 男は声をかけられなかった。 でも、と朔也は続けた。 今のは、少し違った。 それほど嫌な気持ちにはならなかった。 男はしばし考え、言った。 痛みや苦しさが流れ出ていくこともあるから、泣くのもそう悪くはない。 ありきたりな言葉しか口にできないのが、申し訳なかった。 朔也は思った通り、胸の内では様々なことを考え、立ち向かっていたのだ。 少し間を置いて尋ねられる。 泣くことはあるか、と、 男は口ごもった。 隠すのは卑怯だ。彼は、話してくれたのだ。 だから男も素直に白状した。 君と同じだったと。 自分も君と同じように辛くて悲しくて、泣いたと。 もう二度と会えないことが、本当に怖かった。 だから、と続ける。 だから、決して君を嫌うなんてことは、起こらない。 思い返すと少々恥ずかしい自分の言葉に苦笑して、男は眠る朔也の頬を優しくさすってやった。 自分がどこまで彼の傷を癒すことができるか、わからない。 自分にはそこまでの力はない。 無力だ。わかっている。 それでも彼の力になりたい。 彼は、自分の生きる意味なのだ。 彼が求めるものに全力で応えたい。 この世界で、このままの世界で一緒に。 朔也はよく眠っていた。 男は嬉しそうに頬を緩めた。 「君が好きだよ……」 どこへも行かないよ。 そして、寝顔に語りかける自分に笑う。 脈絡もなく、彼の為に怒りを抱いた瞬間が頭を過ぎった。 怒りそのものよりも、怒りを抱いた自分に少し驚いた。 誰かの為にあれほど激しく一つの感情を滾らせたのは、初めてのように思う。 自分の為にだって、あれほど力を注いだことはない。 本当に腹が立ったのだ。 頭に血が上り、目の前が真っ白になった。もし自分の前にその原因が現れたなら、躊躇せず罵倒し怒りを叩き付けたことだろう。 それほど激しく心を揺さぶられた。 それまでの自分の怒りといえば、隠した奥底の方でどろどろと蠢く陰気なものだった。恨みを静かに募らせ、しかし決して表に漏らさぬ、鬱々としたものだった。 それが、朔也のこととなるとまるで正反対になる。 怒りだけではない。 好きだという気持ちも、喜びも、どれもみなまっすぐに心から飛び出してくる。 そんなものが自分にもあったのかと、自分自身驚くほど強く、まっすぐに。 朔也といることで、それらが解放されたのだ。 彼はかけがえのない人、自分の生きる意味。 男は深く息を吐き、もう一度心の中で好きだと繰り返した。 気恥ずかしく、それ以上に心地良かった。 「本当に、朔也……」 男は飽きもせず、朔也の寝顔を眺め続けた。 ある時不意に背後から声がした。 「自分だけ逃げるのね」 少し責めるような少女の声。 男は顔を上げた。 眼前には、果てしのない砂漠が広がっていた。 男は即座に、夢だと理解した。ここ数ヶ月何度か見る、夢の中だと。 振り向くと、奇妙な白い神殿の円柱に半分姿を隠すようにして、少女が立っていた。 彼女に向かって男は言った。 「違う。逃げるんじゃない、立ち向かって先に進むんだ」 「私を置いていくんでしょう?」 「そんな事するものか」 心細い声が朔也に重なり、男はすぐさま首を振った。 「君に大切に思う人がいるならば。君を大切に思う人がいるならば。私は君を置いていきはしない」 彼女もまた、救いを求める者の一人。 「自分の脚で歩こうと思う意志があるのなら、私はできる限りの事をしよう」 傍まで歩み寄り、手を差し伸べる。 少女も同じく手を差し出した。ひどく恐々と。まるで、触れたらすぐに消えてしまう幻に苛まれてきた人のように、びくびくしながら手を伸ばした。 男はその手をしっかり握った。 少女の顔に安堵の笑みが広がる。 しかしすぐに、何かに慄いたように歪んだ。 「……無駄よ。やっぱり何もかも無駄。私はここから出られない。それにあなただって、ほら……逃げられない」 諦めきった少女の声がすると同時に、身体を砂地に押し付けられる。 凄まじい力で押さえ付けてくる手から逃れようともがきながら、男は相手の正体を見極めようとした。 そこには、冷たく邪悪な目付きで嗤っている自分自身がいた。 「自分が誰かを助けられると、本気で思っているのか」 |