晴れる日もある

 

 

 

 

 

 宿を出た後、男は当初予定していたコースとは別の、人けのない海辺へと向かった。
 昨日観光名所を散策した時、朔也は、何度も海の方を見ていた。
 それを思い出し、ならばゆっくり海を眺められる場所へ行こうと変更したのだ。
 今の時期、海水浴場は大賑わいだ。
 そういうところへは連れていけない。
 スケート場の二の舞は御免だ。
 あんな目を、もう二度とさせたくはない。
 それに朔也は、身体に残る古い傷跡を気にしている。
 誰かに見られるのをひどく嫌っている。
 泳ぎたいといった欲求はないだろう。服を着たまま泳ぐ訳にもいかない。
 こう考えては失礼だが、もしかすると泳げない、泳ぎは得意ではないかもしれない。
 が、海を見るのは嫌いではないようだ。
 自分も、海を見るのは好きな方だ。ここ何年も海から縁遠かった。いい機会だと、男は岩場の外れの、波が穏やかな場所に車を止めた。
 今日も朝から晴天で、朔也は行きと同じく車窓から空を見上げていた。
 宿を出発してからしばらくそうしていたが、海岸沿いの道路に出てからは、朔也の顔は空ではなく海の方へと向けられた。
 途中、何か言いたげに朔也は振り返った。
 運転中だった為そちらを向くことは出来なかったが、何かを尋ねる視線は受け取れた。
 男は、微笑んで応えた。
 それから間もなく、丁度いい場所にたどり着き、車を止める。
 全くの無人という訳にはいかず、まばらに人影が見えた。
 恐らく彼らも自分と同じ…出来るだけ人の少ない場所を探したのだろう。
 だが二人加わるくらいならば、お互い邪魔をせず海を楽しめるだろう。
 エンジンを切ると、再び朔也は振り返った。

「傍まで行って、見てくるといい」

 珍しく、大きく目を見開いて見つめてくる朔也に笑いかけ、男は荷物から帽子を取って手渡した。

「転ばないようにね」

 朔也はゆっくり下を向き、はっとしたように顔を上げた。

「ありがとう」

 その目は少し潤んでいた。
 喜んでいるように見えて、男はますます嬉しくなる。
 ドアを開けたところで、男は言い忘れていたと口を開いた。

「知っているかい、朔也」

 朔也は肩越しに振り向いた。

「海の水は、とても塩辛いんだよ」

 すると、それくらい知っているというように心持ちむっとした顔になった…ように思えた。
 男はからかったことを素直に謝り、その奥で、他愛ないやり取りができる楽しさを噛み締めた。
 朔也は最初遠慮がちに、恐る恐るといった様子で砂浜を歩いた。
 砂地を歩き慣れていないせいもあるだろう。
 段々と足取りがはっきりしていく後ろ姿を見送り、男はタオルの用意をした方がいいだろうと荷物の中身を思い浮かべた。
 男の予想は果たして当たった。
 初めは波打ち際のずっと手前で足を止めた朔也だが、少し離れた場所で、若い男女が足首まで波に浸かって楽しんでいるのを見て、自分もそうしようと思ったようだ。
 靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ジーンズの裾を何重かに折り返すと、波打ち際までゆっくり歩いた。
 一歩ずつ踏みしめる姿はまるで何か神聖な儀式に赴くように見え、男は小さく笑った。
 ついに彼の足が波に触れる。
 そこで朔也は歩みを止めた。
 少しびっくりしたように弾んだ肩を見て、男はまた口端を緩めた。
 寄せては返す、足を洗う波、波の音、足の下で波と一緒に変化する砂、煌めく水面、風、空、太陽の熱さ。
 それらを感じて、彼は今、何を思っていることだろう。
 朔也はまっすぐ水平線へと顔を向け、じっと立ち尽くしていた。
 一つの風景となった海と少年を、男は眺め続けた。
 充分海を堪能したか、あるいはさすがの彼も暑さには勝てなかったか…幾分ほてった顔で、朔也は戻ってきた。
 買っておいた水のボトルを渡すと、一気に半分ほど飲み干した。
 渡されたタオルで砂を払い、朔也は車に乗り込んだ。
 そして海に向かった時と同じく、硬い生真面目な声でありがとうと言い、長いこと男の顔を見続けた。
 心のこもった目で熱心に見つめられ、照れ臭くなる。
 大したことなどしていなのに、こんなに感謝されては返って申し訳ない気持ちになる。
 それでも男は目を逸らすことはしなかった。
 一生懸命感謝を伝える朔也に応えようと、全力で受け止めた。
 それから少し早い昼食をとり、帰路につく。
 行きと同じく幹線道路は空いており、さすがに少し疲れを感じていた男にはありがたかった。
 疲れは、身体ではなく精神的なものだった。
 いつものように会話のない静かな車中だが、そのせいで、昨日の信じられないような衝撃的な出来事ががぶり返してきたのだ。
 それを少しでも軽減させようと、朔也の希望にかこつけて海を眺めに行ったのだが、昨日の今日ではやはり難しい。数日はこうして、何かの折に過ぎっては動揺させるだろう。
 しかしこういったことは初めてではない。昨日ほどの大きさはないが、味わったことが無い訳ではない。
 対処の仕方も、ある程度は心得ている。
 男は大きく息を吸い込んだ。
 隣では、信じられぬ戦いに打ち勝ってきた人が、行儀よくシートに収まり空を見ていた。
 長いトンネルを抜けて、少し目が眩み、慣れた頃、朔也は静かに歌い出した。

 夕焼け小焼けで日が暮れて……

 男は心底驚いた。耳を疑ったほどだ。
 しかし間違いなく、歌っているのは朔也だった。
 今までほんのちょっとの鼻歌さえ、口ずさんだことがない彼が、声に出して歌い始めたのだ。
 少年らしい、素直で伸びやかな歌声。
 思わず顔ごと向けてしまいそうになる。
 運転中なのが本当に悔やまれた。
 何か云った方がいいのだろうか。
 しかし目の端に映る姿には、それを寄せ付けぬ空気が漂っていた。
 自分だけの世界で、朔也は小さな声で歌い続けた。静かに淀みなく続く歌声は、夢の中から聞こえてくるようだった。
 特別思い入れはないが、自然と、少し、涙が滲んだ。
 男は邪魔をせず、最後まで黙って聞いていた。
 車内は再び静寂に包まれた。
 あれは幻だったのだろうかと思い始めた頃、朔也は顔を向けて言った。

「一つだけ、持ってるんだ」

 一つだけ覚えている、まだ幸せだった頃の記憶。
 朔也は軽く目を伏せ、語り始めた。
 男は耳を傾けた。
 男はしばしの間、朔也自身となって思い出をたどった。
 夕暮れの路地を歩く、仲の良い親子。
 大きなお腹をしたお母さんと、沢山の買い物袋を片手に軽々と持って歩くお父さん、そして元気な男の子。
 子供を間に三人手を繋ぎ、みんなで童謡を口ずさみながら家へと帰る――

「本当は、捨てたい」

 こんなものだけ、あったって。
 男は反対した。
 今は、辛いだけかもしれない、けれどいつかは変わるだろう。その時に悔やんでしまわないよう、大切に持っていなさい。
 自分が言うには相応しくない言葉を内心嘲りながら、押し隠して朔也に言う。
 朔也は口を噤み、長いこと考え込んだ。
 それから遠慮がちに尋ねた。

「鷹久は、あるか?」

 痛いけど、懐かしく残る思い出。
 男はわずかに眼を眇めた。
 少し考えてから首を振る。
 自分にはない。
 正直に吐露する。
 本当は一つ二つあるのかもしれないが、覚えていない。
 忘れてしまったのか、そもそも持っていないのか、それすら覚えていない。
 朔也はしばらく男の顔を見た後、外を向いて俯いた。
 その背中は痛みに耐えているようだった。左耳のピアスを掴み、じっとそのままでいる。
 男は唇を引き結んだ。
 そういう反応をするだろう、悲しんでくれるだろうと予想はしていた。
 その通りになって、ひどく胸が痛んだ。
 たとえ一つだけでも、持っている朔也に嫉妬してしまった。
 そう、妬んだのだ。
 本当は嬉しいはずだ。たった一つでも残っているなら幸せだと、何故思えないのだろう。
 醜い自分に心底嫌気がさす。彼を助けたい、力になりたい…そう思っても、所詮こんなものなのだ。
 朔也の反応に、男は手遅れながら後悔した。
 なんて惨いことをしたのか。
 言葉もない。
 それからまた、気まずい沈黙が流れた。
 大分経って、朔也は男を振り返った。
 はっきりそちらを向くことができないので男には目の端でちらりと見るしかなかったが、それでも分かるほど、朔也は真剣な顔をしていた。
 少し怖いくらいだった。

「俺が歌ったら、駄目か?」

 ひどく震える声。
 はじめ、何を言っているのか上手く理解できなかった。
 朔也はこう言いたかったのだ。
 自分が歌う場面が思い出になったら、いけないか、と。
 そういったことを、今にも消え入りそうな声で言ってきた。
 男は目を瞬いた。
 まさか、そんな風に言ってもらえるとは思ってもいなかった。彼がそんな気持ちを向けてくれるなんて、思ってもいなかった。だから男は、すぐには喜びを表せなかった。

「おれ、じゃ……」

 駄目かと沈みかける朔也に何度も首を振る。
 ようやくのこと、喜びが追い付いてきた。
 あの、痛い背中は、悲しんでいるだけではなかったのだ。
 自分の為にできることを一生懸命、考えていてくれたのだ。
 そして、口にした。
 どれだけの勇気を振り絞って、言ってくれたか。
 夢のようだった。
 口を開くが、中々言葉は出なかった。喉の奥で詰まって、出せなかった。
 やっとのことで紡ぎ出す。

「本当に、私にくれるのかい?」

 もちろん嬉しい。しかし夕焼け小焼けは、朔也にとって特別の、大事なものだ。そこに本当に自分を加えていいのか。
 彼の思い出を妬んだ自分が、加わっていいのだろうか。
 朔也は躊躇せず頷いた。

「鷹久が、大事に持ってろって言うから」

 ならば、一緒に持っていたい。
 男はやや置いて、それからありがとうと言った。
 胸がつかえて、それだけを言うのが精一杯だった。
 今度こそ涙が零れそうになる。
 大事にする。
 男は声に出して誓った。
 朔也はしばらく男を見つめた後、正面を向いた。それから小声で、歌い始めた。
 さっき思い浮かべた光景が、再び男の中に広がる。
 自分のものではない思い出が、ごく自然に自分の中に溶け込んでゆく。
 その向こうから、朔也の悲痛な叫びが聞こえてきた。
 なくしたくない。
 行かないでほしい――もう、いやだ。
 自分が朔也にとって大切な存在であることを、男はあらためて思い知る。
 決して奪ってはいけない。
 彼が自分の生きる意味であるように、朔也にとって自分もまた彼の生きる意味なのだ。
 奪われるつらさはもうたくさんだ。うんざりするほど味わった。そのことを恐れて目を背けるのも、まっぴらごめんだ。
 男は目を開きしっかりと正面を見据えた。

 

 

 

 ようやく、心が決まる。

 

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