晴れる日もある

 

 

 

 

 

 異変は、十分ほどで収まった。少なくとも外見上は、そのように見えた。
 もう歩けるという朔也を気遣いながら男は駐車場に向かい、後部座席に並んで座った。
 そのまましばらく、黙って過ごす。
 まだ少し息遣いが乱れていたが、吐き気を催すといったことはなさそうだった。
 注意深く様子を見守った後、男は声をかけた。

「落ち着いたかい?」

 深く息を吐いて、朔也は頷いた。

「こんなものが残ってたなんて、思ってなかった」
「こんなもの、とは?」
「電話、邪魔して悪かった」
「気にしなくていい。用件は済んでいたから大丈夫だ」

 証明するように、男は笑って首を振った。
 朔也は正面を向いたまま険しい顔付きになった。

「昔の記憶。ずっと小さい頃の」

 酷似した状況に置かれ、幼少時の記憶が過ぎったのだ。
 男は小さく息を飲んだ。初めて触れる彼の記憶にどきりとする。胸がずきりと痛む。
 聞きたい気持ちが膨れ上がる。
 同時に、より深く踏み込むことに対する怖さも込み上げる。
 男は心を決め、言った。

「朔也、話せるものだけでいいから、話してごらん。少しは気が楽になるかもしれない」
「聞いて楽しい話じゃない」朔也は首を振った「きっと、気分が悪くなる」

 男は頭にそっと手を伸ばした。

「朔也は本当に、優しい子だね」

 嗚呼、なんて胸が痛い。

「それでも私は、君のことをもっとよく知りたいと思っているんだ」

 男は真剣な眼差しで、愛しい人を見た。優しい人を見た。

「私のことなら心配しなくていい。君より少し長く生きている分、見てきた物も多い。少々のことではびくともしないよ」

 だから、話せるものだけでいいから吐き出すといい。
 男がそう言うと、どうして、と朔也は呟いた。

「こんな、赤の他人の為に、どうして」

 施設の人間でも、親戚でもない、赤の他人なのに。
 独り言のように呟き、朔也は横目で男を見た。
 男はそれを聞き、ようやく、合点がいった気がした。
 朔也がこれまで何度も口にしてきた言葉――なんでこんな事をする?
 施設の職員でもなく、血の繋がりもない赤の他人が、自分に何かしてくれることが、本当に不思議でならなかった。
 朔也には理解しにくいものだった。
 赤の他人と交友関係を結ぶことや、友人になった彼らと気軽に言葉を交わすことから自然に生まれ発展する諸々が、朔也には起こり得なかった。
 親から受けたいわれのない暴力や罵りの言葉に押し潰されて、正しく育つ機会がなかったからだ。
 その頃の彼にとって、世界というものは、恐ろしく冷たい敵のようなものだったのだろう。
 赤の他人。言葉は冷たく突き放すものだが、近付いたからこその発言だと、男はわかった。これまでのように隠して黙り込むのではなく、自分の気持ちを素直にぶつけてくる朔也に勇気付けられる。
 やや置いて男は言った。

「血の繋がりがあっても、上手くいかないことはある。血の繋がりがない赤の他人だから、上手くいくこともある」

 朔也はゆっくりと顔を向けた。
 推し量るように男を見つめ、口を開く。

「鷹久も、奪われる辛さを知っているんだな」
「ああ。あれは――嫌なものだな」

 男は頷き、心情を素直に吐露した。
 朔也はしばし男を見たあと顔を正面に戻し、やや俯いた。
 男はその横顔に、悲しいものが滲んでいるのを見た。
 自分を嘆く悲しさではない。奪われる辛さを知っている男を悲しんでいるのだ。
 本当に、なんて優しい子だろうと、男はいっそ感動さえした。
 この場においても朔也はいたわる気持ちを忘れない。自分のことで精一杯のはずなのに、それでも心を、人に向ける。
 男はそっと呼びかけた。
 その余韻が消える前に、朔也はかすれた声で男の名を呼んだ。
 男はゆっくり頷いて応えた。
 すると朔也はきっとばかりに顔を向けた。

「誰にも、言わない?」

 これから話すことを、誰にも言わないでほしい。

「今まで誰にも、言ったことがない」

 声は震えていた。
 強張った目付きで縋るように見つめられ、男は大きく頷いた。

「約束する。誰にも言ったりしない」
「ほんとうに、信じる?」

 これから言うことを、全部、疑わない?
 朔也は上下、左右とわずかに目を動かして、男の両の目や唇を見た。
 恐らく、嘘が隠れていないか確かめたいのだろう。

「ああ、信じるとも」

 だから男はこう答えた。
 それでも朔也はしばらくの間、男をじっと見つめていた。
 見抜こうとするように観察を続けた。

「俺は子供で、あんたは大人だけど……」

 ほとんど囁くような声で朔也が言う。
 途切れた言葉の先を推測する。
 子供の戯言と思わずに、信じてくれるか――こう言いたいのだろう。
 はっと胸をつかれる。
 彼はことごとく自分をなぞる。忘れたくて隅の方に追いやった様々なものを引っかく。
 男は目を逸らさず、できるだけ瞬きも抑えて、見つめ返した。
 本当に今まで誰にも言ったことがないのは、一種異様ともいえる目の輝きから容易に想像出来た。
 何もかもを見透かすような、突き刺さるような鋭い眼差しに晒され、男は微かに息苦しさを覚えた。
 その一方で、自己抑制の幕が下りていない、力強さに満ちた瞳を、なんて綺麗なのだろうと見惚れる。
 彼が、信じ切ることができないと嘆いたあの日から、大分時間が経った。けれど今日まで特別何かをしてはいなかった。
 初めに交わした約束、嘘はつかないことを忠実に守り、言いたくないことは避けて、ただそれだけで過ごしてきた。
 とにかく、誠実でいようと心がけた。といっても自分自身も深い歪みを抱えている。わかっている、自覚はある。本当の意味での誠実さとは違っているだろうが、彼の前では、できるだけ偽らぬことを胸にとめていた。
 あれから、何が変わっただろうか。
 彼は、話してくれるだろうか。
 男は身動ぎもせず、朔也の目を見続けた。
 朔也の目は、もっと何かを言いたそうにしていた。
 別の何か、約束を、取り付けたがっていた。
 ただの曖昧な勘だが、男にはそう見えた。
 しかしある時不意に、その光が消えた。男は軽い失望に見舞われる。自分はまだそこまでの信頼を、勝ち得ていないのだ。
 朔也は小さく息を吐き出し、それから語り始めた。

「母親が、妹だけ連れて四歳の子供を駅に置き去りにするのは、どうしてだろう」

 しんとした車内に朔也の声が響く。

「父親が、クスリでおかしくなって十歳の子供を犯すのは、どうしてだろう」

 自分のことを語るにはあまりに淡々とした声音が、聞くに堪えない凄惨な内容を綴る。
 さして興味のない新聞記事でも読み上げるような、抑揚がまったくない声。男は背筋が凍える思いだった。

「いつも、どこかしら痛くて泣いてた」

 泣いていると、うるさいと言って殴られた。
 我慢していると、泣くまで殴られた。
 そしてまた罵られ、殴られる。
 非力な子供を襲う心ない暴力。
 男は片手で額を強く押さえた。腹の底で何か熱いものが渦巻き、今にも戻しそうになる。
 顔も知らぬ朔也の父親、母親に、抑えようのない怒りが沸々と湧き上がる。
 朔也は、まだたった十七年ぽっちしか生きてない。
 四歳の頃母親に捨てられ、十歳の頃父親に強姦された。
 ごく普通の、子供らしい生活や成長を奪われ脅かされ、身も心も傷付けられた。
 人間としての尊厳を踏みにじられた。
 尊大で世間知らずで、恐れを知らぬ瑞々しい若芽であるべき年数が、どうしてそんなに惨いことばかりで埋め尽くされていなければならないんだ。
 そんな環境で、彼は生き伸びてきた。
 あらゆるものが、ごく普通のそれとは大きくかけ離れていて、間違っていても、それが朔也にとっては『ごく普通』だったのだ。
 そんな世界で生きなければならない…何の為に生きているのだろう。
 本当に人間が、この世界が嫌になる。
 男は、何もかける言葉がない自分に打ちのめされた。
 奥歯をきつく噛み締める。そうでもしないと、怒りに任せて何を叫ぶかわからない。
 せめてできるのは、苦痛に満ちた世界で必死に生き伸びてきた勇敢な人を、抱きしめることくらいだった。
 朔也は抱き寄せられるまま素直に男の肩に頭を乗せた。
 男は窓の外を見た。この数ヶ月、少しずつではあるが、彼は様々な感情を見せるようになった。自分という他人を信頼し、心を開いてくれたことが純粋に嬉しかった。彼が見せる喜怒哀楽に触れる度、胸にくすぶっていた暗い願望は薄れていった。急速に興味を失ってくのを感じられた。
 朔也と一緒に楽しんだり、悲しんだりすることの方が、重要だったからだ。彼があのどうしようもない怒りに支配され振り回されている時でさえ――その瞬間は彼を宥めるのに必死で考える余裕もないが――大事なものの一つとして胸に刻まれている。
 それらが増え、大きくなるに従って、暗い望みは奥の方に追いやられ、馬鹿げたことのように思えていった。
 しかし今再びそれが胸を過ぎる。
 やはり、こんな世界――人間など。
 心が揺れる。迷う。
 持っていかれそうになる。
 男は眉間にきつくしわを寄せた。
 朔也は遠慮がちに身動ぎ、身体を起こした。
 ゆっくりと目を持ち上げ、男にまっすぐ視線を注ぐ。
 そしてこう呟いた。
 鷹久に出会ったことで、色んなものが変わったと。

「頭のいかれた汚い子供……そんなはずない、自分はそこまで、おかしくなんかない、打ち消そうとした」

 少しぼんやりした顔で朔也は首を振った。

「……でも消えなくて、どうしていいか分からなかった」

 父親が、お前は頭がいかれていると言う。
 頭のいかれた汚い子供だから、お前は母親に捨てられたんだ。
 なら、そうでなければ、良い子にしていれば、母親は戻ってくるかもしれない。
 あれができれば、これができれば…もっと頑張れば、母親は帰ってくるかもしれない。
 そうやってがむしゃらに生きた時期があった。
 周りの人間と接し、話を見聞きするにつれ、世界が広がるにつれ、そんなものはただの幻想だというのが見えてきた。
 やってきたことは全部無駄だった。
 道理で、何をしても認められない訳だ。
 一度も褒められなかったのは、そういうことか。
 何をしたって、母親は帰ってはこない。
 なら、父親の言う通りなってしまえばいい。
 どうせ母親は帰ってこない。
 自分は、頭のいかれた子供だから、母親は戻ってこない。

「頭のいかれた汚い子供は……」

 そこで不意に言葉が途切れる。
 朔也は痙攣めいた震えを放ち、絞り出すように言った。

「金を貰って、誰とでも良くないことをする」

 男は喉の奥から込み上げてくる苦いものを必死に飲み込んだ。
 朔也は喘ぎ喘ぎ続けた。
 でも、ただ身を差し出しただけでは、きっと誰も受け取らない。
 誰にも見てもらえない。
 何か気を引くことをしなければ。
 それが良くないことなのはわかっている。
 矛盾しているのはわかっている。
 けれどこうでもしなければ誰も自分を見てくれない。

「でも鷹久は」

 ひどい事をしなくても、見てくれた。
 そして何度も好きだと言ってくれた。

「そうしたら少しずつ、薄れていった」

 ああ、俺はそんなに自分を責めなくてもいいんだ。

「自分だけじゃどうしても上手くいかなかったことが、鷹久のおかげで少しずつ、変わっていった」

 自分だけじゃ、どこにもどうやっても進めなかった。

「変わりたくて、変われなくて、もうどうしようもなかった……ただ一日一日を、生きるだけで精一杯だった」

 そんなもの、とても生きているなんて言えない。

「それを、鷹久の言葉が」

 言葉の一つひとつが、自分を変えてくれた。
 良くないことと知りつつやめられず、自分が何をしたいのかも、わからなくなっていた。
 そんな毎日を、変えてくれた。
 一度沁み付いた嫌なものは、二度と取れないと思っていた。

「そんなこと、ないんだな」

 朔也は、膝に乗せた手に目を落とした。
 それから男を見た。

「時々、どうしようもなく寂しくなるんだ」

 今にも崩れそうにかすれた声が、男の胸を抉る。
 なくなったもの。手に入らなかったもの。自分に欠けている多くのもの。
 それらのことを考えると、ほんとうに寂しくなる。
 そんな時、自分でいることが嫌になる。
 自分でいることがつらくて、嫌で、何もかも投げ出したくなる。
 朔也の語るものは、男にも覚えのある感覚だった。無意識に顔をしかめる。

「でも」

 朔也は左耳のピアスに触れた。それから胸元の飾りを確かめる。

「鷹久は、俺が何をしてきたか、何をするか、全部知ってるのに、それでも」

 変わらずに好きだという言葉をくれる。
 だから――

「鷹久がいれば、世界はまわる」

 目を閉じ、朔也は胸に刻むように言葉を綴った。
 そのひと言は男の身体の隅々まで行きわたった。
 男は震える唇で息を吸った。
 そして、わかった。
 自分が本当に欲しかったものはなんだったのか。
 自分が今まで欲していたものは間違いだった。
 欲しかったのは、このたったのひと言だったのだ。
 誰か一人に、心から思われること。
 誰か一人を、心底大切に思うこと。
 たった、これだけでよかったのだ。

「朔也、話してくれてありがとう。よく頑張ったな」

 男は再び朔也の身体を抱き寄せようとした。
 しかし朔也は腕でそれを遮った。
 どうして、と顔を見る。
 同時に朔也はぼろぼろと涙を零した。
 彼が泣くところを見るのは初めてだ。
 思わずぎょっとする。
 恐らく、今まで溜め込んでいたものを一気に吐き出し、感情がせきを切ったのだろう。
 朔也は隠すように片手で顔を覆った。
 男はぶるぶると震える手をそっとよけさせ、黙ってハンカチで拭ってやった。
 朔也はされるがままいた。
 泣きながら男を見据え、言う。

「お、俺のこと……嫌わない?」
「……は?」
「こんな話聞いて、俺のこと……」しゃくり上げながら、朔也は言った「き、嫌わない?」
「なぜ君を嫌う?」
「だって、俺は――」

 母親に捨てられた。
 父親に強姦された。
 頭がいかれてるからそうされた。
 汚い子供だからそうなった。
 そんなどうしようもない人間を、嫌わない?
 気持ち悪いと思わない?

「思わない」男はきっぱりと首を振った「それは、君にはどうしようもない事だった。彼らが間違った事をした。それは君には関係ない。君は何一つ悪くない。君がいけないから、起こった訳じゃない。わかるね?」

 言いながら男は、話をする前に朔也が見せたあの視線、あのいかにも何か言いたげな目付きは、これのことを指していたのではとおぼろげに思った。
 誰にも言わないでほしいことの他に、嫌わないでほしい、と、言おうとしていたのではないか。
 同じ目をしていたから、そう思った。

「君が悪い事なんて、何もない。だから私は、君を嫌わない。嫌う理由がない」
「でも俺は……」心底悔しそうに顔を歪め俯く「良くないことを、した」

 胸の内に凝る毒に喉を引き攣らせ、朔也は喘いだ。
 男は息を詰めた。
 朔也と初めて出会った交差点でのあの一瞬が、脳裏に蘇る。途端に胸がずしんと重くなる。
 今にも顔に出そうになるのを苦労して抑え込み、男は口を開いた。

「……確かに良くなかった。しかし、一度も間違わない人間など、いないんだよ。私だって、そうだ。過ちに気付いて、二度としなければそれでいいんだ。そして君は、それがわかっている」

 生きているなら、いくらでもやり直しが利く。
 取り返しのつかないものじゃない。
 男は意識して明るく言った。
 考え込むように朔也は口を噤んだ。
 涙は止まらなかった。
 やがて首を振り出した。
 始めは小さく、次第に何かを振り払うように大きく。

「……何度もあんたを、殴ろうとした。あんたは悪くないのに。悪いのは、俺…なのに」
「いいや、君は自分の身を守ったに過ぎない。君は悪くない」

 男はじっと朔也を見つめた。彼が抱える不必要な罪悪感を何とかして拭い取ろうと、言葉を重ねる。
 殴られるのは、正直遠慮したいが、まだそうはないっていない。なっていないのだから、起こっていないに等しい。それに、彼の中にそのことを悔いる気持ちがあるだけで、それだけで充分だった。
 誰だってどうしようもなく腹が立つことはある。
 その上彼は怖さにも苛まれるのだ。過去に起こったひどい事の為に。それらから身を守る為に、戦っているだけに過ぎない。
 本当はこんなことがしたい訳じゃないと、別の道を模索している。よくわかっている。
 変える為に死に物狂いで努力し、確実に前に進んでいる。
 そんな人を、どうして責めたりするものか。
 朔也は腕を突っ張らせ、男を遠ざけようとした。
 それでいて手は服を掴み、しっかり握り込んでいる。
 それが彼の本当の気持ちだと、男は思った。
 零れ続ける涙を拭ってやる。

「俺のこと、嫌わない……?」
「嫌うものか!」

 朔也に対してというより、自分に対して、男はきっぱりと言った。
 嫌いになどなるものか。
 それどころかよりいっそう、朔也に惹かれた。
 彼は想像した通り、想像を超える壮絶な人生を生き伸びてきた。
 虐げられても打ちのめされても生きる為の戦いをやめず、乗り越えようと必死に考え、自分の中で折り合いをつけようともがき続けた。時に間違った選択をして苦しむことがあっても諦めず、一つの強いものを求めて生き伸びてきた。
 一度徹底的に破壊されたのに、元に戻そうと努力した。
 自然に身に着くものすら、朔也には遠く、困難なものだったに違いない。
 それでも彼はどうにか、獲得した。
 もちろん元の形と比べれば随分いびつだろう。
 それでも彼は、再び自分を作り上げたのだ。
 生きることを選んだのだ。
 そんな強い魂を持った人間を、どうして嫌うものか。
 自分よりもずっと勇気がある。
 そんな人が自分を愛してくれる…どうして嫌いになるだろう。

「嫌いになど、なるわけない」

 朔也は思いの他強い力で服を握り込んでいた。
 男はそれを外そうとした。抱き寄せたかったからだ。
 すると朔也はより強く握りしめた。
 何気なく顔を見ると、怯えたように引き攣っていた。
 息遣いもかなり荒い。それは、泣いているせいだけではなかった。込み上げる恐怖からくるもののようだった。
 男はすぐさま声をかけた。

「大丈夫だ朔也、痛いことなんて何もしない。ひどいことはしないから」

 そう言っても朔也は手を離そうとしなかった。激しく首を振り立て、しきりに目で訴えかけた。
 信じてもらおうと、男は他の言葉を必死に探した。
 その時。置いていかないで…心細さに満ちた声が、鮮明に蘇る。
 男ははっと息を飲む。
 もしかしたら彼は、この手を離した途端自分が彼を突き放して、行ってしまう、そんな恐怖に囚われているのかもしれない。

「朔也、おいで」

 手はそのままに、男はもう一度呼びかけた。
 今度は素直に腕に収まった。服を掴んだまま、倒れ込むようにもたれかかってきた。
 男は一回しっかりと抱きしめてやった。
 朔也は腕の中で泣き続けた。
 声をはばからず、まさに子供のままでわんわんと泣きじゃくった。
 そして何度も名を呼び、嫌わないでと訴えた。
 すっかり自制心を失っていた。
 心細さに満ちた声が男の胸を叩く。
 腕の中にいるのは十七歳の少年ではなく、もっと幼い、本当にただの男の子のように思えた。
 母親に捨てられ、父親に犯された過去を話し、当時のつらさがぶりかえったから涙を流しているのではない。つらさももちろんあるだろう、そしてそれ以上に朔也の心を占めるのは、恐れるものは、話をしたことで男に嫌われる、そのことだった。
 それがわかり、男は朔也が訴える度、心を込めて嫌うものかと背中をさすってやった。
 頭や肩や腕に触れて、自分たちがここにいることを確かにする。

「好きだよ朔也。君が、好きだよ」

 それ以外の言葉は浮かんでこなかった。
 それ以外の言葉は、口にする必要がなかった。
 彼の話を聞いて、本当に胸が悪くなった。
 胸が潰れそうに痛んだ。
 頭の整理がつけられない。
 何から考えてよいやら混乱する。
 聞かなければよかった、などという後悔はなかった。頭はずきずきと痛み最悪の気分だったが、どこかほっとしてもいた。
 真実がわかり、自分の中だけの推測にもう怯えなくていいという安心感があるからだろう。
 ああ、頭が痛い。
 そんな嵐のように滅茶苦茶に荒れた中、嬉しさが過ぎる。
 彼には悪いと思いながらも、喜ぶことを止められなかった。
 彼の中にある激しい感情に初めて触れた。
 自分に嫌われることが一番恐ろしいこと、そう訴える朔也が愛しくてたまらない。
 自分と同じだったことが嬉しくてたまらない。
 いや、自分よりもずっと勇敢だ。
 自分はこの頃、こんな風に戦ってなどいなかった。ほとんどを諦めて、そんな自分に心底うんざりしていた。それをごまかすように憎む誰かを憎むことしか、していなかった。
 自分とは大違いだ。
 ひたすら、朔也への敬意が溢れる。
 男は小さく息を吐いた。
 話の内容に胸がむかむかして、腹が立って、どうしようもない。
 けれどそれ以上に、嬉しかった。
 こんなに勇気のある人が、自分をここまで思ってくれることが、この上ない喜びとなって男を満たす。
 彼はどれくらい泣いていただろうか。
 激しかった泣き声は段々と弱まっていった。引き攣った息遣いも次第に収まり、最後に朔也は、いつもするように息を啜り、ゆっくり吐き出した。

「鷹久……」

 熱い声を漏らして、朔也はしがみついた。
 居心地のいい場所を探すように頬をすり寄せ、もたれる。
 時折思い出したように、身体が痙攣めいた震えを放つ。
 男はしっかりとその背を抱き、慈しみを込めて撫でさすった。

「少しは落ち着いたかい?」

 朔也は小さく顎を引いた。
 泣きに泣いた彼の身体はすっかり熱く、汗ばんでいた。
 ふと気が付くと、胸の辺りが冷たくなっていた。涙が染み込んだようだ。
 構わない。あとで着替えればいい。
 今はまだこうして、彼を抱きしめていたい。
 男は目を瞑り、もう一度、朔也の言葉を噛み締めた。
 自分がいれば、世界はまわる。
 彼にとっての世界は、苦痛だらけの戦う相手だった。
 自分で選択できるものは数えるほどもなく、常に押し付けられるばかりだった。
 それでも一つ、強いものを見つけた。
 そのたった一つで、世界は全く違う姿となる。
 生きてゆく価値のある、素晴らしいものになる。
 男は再び窓の外を見た。
 明るい、夏の夕暮れがそこには広がっている。
 何の変哲もない風景だったが、世界の見え方がまるで違った。
 目に映るものを見渡して、そうか、と理解する。
 自分も一つ、強いものを見つけた。
 朔也こそが、自分をこの呪いから解き放つ鍵になるのだと理解する。
 朔也の話を聞き終えて見る世界は、まるで見え方が違った。
 彼こそが鍵を握っているからだ。
 彼こそが、自分をこの暗い呪いの檻から解放する鍵そのものだからだ。
 男は、心を奮い立たせた。

 

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