晴れる日もある

 

 

 

 

 

 新鮮な海の幸で充分腹を満たした後、二人は車に乗り込み、ぐるりと観光名所を巡った。
 海岸沿いの景勝地で車をおり、散策する。
 朔也は砂の感触を確かめるように一歩ずつ踏みしめた。
 ゆっくり歩きながら、景色の一つひとつ心に刻み込むように見渡した。
 その後ろ姿を見て、連れてきて良かった…男はしみじみと思う。
 またいつか。今度はもっと沢山のものを見せてやりたい。
 この世界には、彼がまだ出会っていない喜びが沢山隠れている。
 それを、二人で見つけ出したい。
 自分らしからぬ考えに男は小さく笑う。
 こんな世界、と恨んでいた癖に。
 無くなっても構わないと、見捨てていた癖に。
 けれど彼を見ていると恨みつらみはすっかり薄れて、ごく普通の幸福というものが頭に思い浮かぶのだ。
 ごく当たり前のことをして、楽しみたいと。
 彼が喜ぶことに全力を傾けたい。
 これまでそういったことから無縁だった者同士、だから、そう思うのかもしれない。
 その時、それまですっかり男の存在を忘れたかのように一人先を歩いていた朔也が、くるりと振り返った。
 まっすぐ向かってくる視線に男は少し首を傾けた。
 朔也は男の傍に歩み寄り、ありがとうと口を開いた。

「今までこんなことをした記憶が、ないから、とても楽しい。ありがとう」

 向かってくる生真面目な声に男は微笑した。

「楽しんでもらえて、何よりだよ」

 嬉しさと、泣きたい気持ちとがないまぜになる、
 朔也はまた向きを変え風景と向き合った。
 男はその後ろ姿に言った。

「君さえよければ、またいくらでも連れてきてあげよう。一緒に、色んなところへ行こう」

 半分は、自分が彼と出かける楽しみを味わいたいからだ。
 すると朔也は肩越しに振り向いた。
 推し量る、あるいは問いかけるような目で、朔也は長いこと男を見続けた、
 真偽のほどを確かめているのだろうか。

「約束するよ」

 男は言った。彼に、嘘など吐かない。
 いつものように、何故そんな事をする、と、言うだろうか。
 しかし朔也は何も言わなかった。
 ただじっと男を見続け、その末に、ふっと目付きを和らげて、小さく頷いた。
 男の胸に喜びがとめどなく広がる。

 

 

 

 宿に向かうまでまだ少し時間があった。
 男は再び賑わう港に戻り、土産物屋に朔也を連れ入った。
 先程目を付けていた干物を宅配で頼み、次いで銘菓や雑貨を見て回る。
 しかし朔也は、それらが並ぶコーナーに足を踏み入れ数歩もしないところで、立ち止まった。
 すぐに気付いて男が振り返る。

「わからないんだ」

 戸惑う声に男はゆっくり頷いた。
 今までこんな事をした記憶がない。先刻朔也が口にした言葉が脳裏を過ぎる。
 自分と同じだと、男は思った。
 自分と同じように、朔也もまた、家族で出かけた記憶がないのだ。
 こんな風に、ごく当たり前の旅行を楽しんだ記憶がない。
 だからどうすればいいかわからない。
 何を買っていいか困ってしまう。
 彼の場合は、要らぬ委縮も混じっていることだろう。

「君が食べたいと思うもので、いいんだよ」

 それでも朔也は動けなかった。
 しばし視線を注いだ後、男はふっと笑った。

「なら、片っ端から味見して、美味いと思ったものを買おうか」

 おいで。
 躊躇する朔也を連れて、男はまず手始めにすぐ近くにあった温泉まんじゅうの試食ケースに手を伸ばした。
 一つを朔也に、一つを自分に。

「食べてごらん」

 朔也はぎくしゃくと頷き、まるで毒見でもするかのような顔で口に入れた。
 男はおかしそうに笑った。
 続いて別のまんじゅうを手に取る。
 朔也が難色を示す甘いものは男の好みで、朔也が興味を示すものは男にはいまひとつだった。
 そうやって端から一つひとつ確かめ、何個目になるかわからない試食を終えたところで、朔也は口を開いた。

「鷹久は甘いもの食べる時、本当に綺麗な顔をするな」

 その言葉に男は動きを止めた。

「そうかい?」

 穏やかに見つめてくる眼差しからさりげなく目を逸らし、男は熱くなった頬をごまかそうとした。
 彼のその眼差しは正直苦手だった。嫌いというのではない。恥ずかしいのだ。
 まったく、よく見ている子だ。
 それは、紛れもなく喜びだった。
 さりげなく朔也に視線を戻すと、先ほど試食した菓子のきなこが口の端に少し残っているのが目に入った。
 男はハンカチを取り出し、軽く払ってやった。

「……――!」

 朔也は慌てて口を覆い俯いた。手の下で、ごく小さくありがとうと告げる。
 目尻が心持ち赤く染まっているのを見て、男は微笑んだ。
 時折こうして見え隠れする子供らしさ、可愛さが、本当に好きだ。
 甘い菓子や餅の類には難色を示した朔也だが、購入を決めたのはそれらの菓子類だった。
 男が、喜んで食べていたからというのが理由だ。
 会計の際はっきりそう口にされ、男は嬉しさよりも戸惑いを味わう。
 彼の食べたいものを見つけられなかったことが、正直悲しかった。また悔しくもあった。
 落胆する男に朔也はきっぱりと言った。

「鷹久の綺麗な顔を見ると、俺も、幸せな気持ちになるから」

 瞳が、強く輝いていた。
 そうであるならば、それ以上は何も言うことはない。
 しかし複雑な気持ちだった。
 そのひと言であっという間に心は浮上し、その一方で、次こそは彼だけの幸せを見つけたいと躍起になる。
 何にせよ、今、朔也が良いと思うなら、充分ではないかと男は納得した。
 そう思うとようやく、喜びがじんわりと胸を満たした。
 見ていると、自分も幸せな気持ちになる。
 大した殺し文句ではないか。
 遅れてやってきた笑いを、どうにか飲み込む。

 

 

 

 購入したものは全て宅配に任せ、宿へ向かう為車を停めた駐車場へと戻る。
 駅前の通りは、今し方到着した観光バスからの乗客で込み合っていた。
 更に駅の改札から溢れてくる人の波もあいまって、ちょっとした混雑となった。
 うまくすり抜けたところで、男の胸ポケットから電子音が鳴り響いた。
 男は時刻を確認した。打ち合わせ通りの時間。携帯電話を取り出し、朔也を振り返る。

「少しここで待っていてくれるかい」

 頷いたのを見届け、男は足早に喧騒から離れた。
 そして電話を受け取る。

「……わかった。ありがとう――」

 希望通りの報告に応え、通話を切ろうとした時、誰かが肘の辺りを強く引っ張った。
 男は驚きながら振り返った。
 目の端に朔也が映る。
 彼は時々妙な行動を取るが、分別のない人間ではない。通話を邪魔するような無神経さはない。
 こういう風に引き止めるなんて考えられない。
 つまり、よっぽどのことがあったということだ。
 果たして推測は当たりだった。
 見ると、胸を押さえ苦しげに喘ぐ朔也の姿が目に入った。
 その顔は堪え難い悲しみに染まっていた。

「どうした?」

 ぎょっとして男は呼びかけた。
 耳を澄ますと、今にも消え入りそうな声が男の胸を抉った。

「まって…まって……置いてかないで」

 がたがたと震えながら、朔也はしきりに置いてかないでと繰り返した。
 足に力が入らないらしく、もたれかかってくる身体を男は慌てて抱きとめた。
 そのまま一緒にしゃがみ込む。

「朔也、置いていかないよ。大丈夫、大丈夫だから。朔也?」

 自分の知らぬ世界に入り込んでしまった朔也を呼び戻そうと、男は何度も声をかけた。
 痛むのか、朔也は両手で強く頭を押さえ、何度も置いてかないでと呟いた。
 そして最後に、お母さん、と言った。

 

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