晴れる日もある

 

 

 

 

 

 帰りはエレベーターを使った。
 外に出たところで、男は何故行きは階段を選んだのか、訊いてみた。

「少しは体力ついたのを、証明したかったんだ」

 鷹久のお陰だから。
 返ってきた答えは喜びよりも驚きを男にもたらした。
 彼にも、そんな風に考え、示そうとする気持ちがあったのだ。
 滅多に喋らないからといって、何も考えていない訳ではないのだ。むしろ人一倍、物事に取り組んでいる。
 どこかで彼を見くびっていたことに気付かされ、男は恥じ入る。
 あらためて、引き寄せられる。
 彼という人間に惹き付けられる。

「いや、それは君が頑張ったからだよ」

 やっと、男の中に嬉しさがじわじわと湧き出す。
 朔也は小さく首を振った。

「でも、まだ」

 本当は、休まず行きたかった。
 落胆の声を聞いて男は、やはりあの時下手に声をかけなくてよかったと思った。
 そして同時に、普段は中々聞けない彼の心情に触れられたことに喜ぶ。遠出して、気分が変わったからこそ得られたものを、心から喜ぶ。
「君はまだ、これからだよ。これからいくらでも伸びるさ。ゆっくり、体力をつけていけばいい」
 途中で休んでも、諦めなかった。それが重要なんだ。
 そう声をかけても、朔也のがっかりしたような悔しがるような眼差しは回復しなかった。
 男はあえて、それ以上は何も言わなかった。
 そこから先は、彼が、自分で考え納得するままに任せることにした。
 朔也の中に自分を誰かと比較し省みる心が生じたのは、男と出会ったことがきっかけだった。
 それ以前は全てが、何もかもが、どうでもよいことだった。
 考えても、どうにもならないことだらけだったからだ。
 男と出会ったことで、それが良くても嫌なことでも、色々なものに目を向け考えるようになった。

「そろそろお昼だね。どこに入ろうか」

 気分を変えようと男はパンフレットを取り出し、朔也に手渡した。
 選択を委ねた。
 今までは男が選び、朔也はそれを受け取るだけだったが、今日はそうしない。
 朔也にも半分負担してもらう。
 そのことに対するいくらかの不安はあった。
 朔也は自分に対する好意に不慣れで、選択を任されることにひどく怯えを示す。
 許容を越えると、卑下するばかりの心からくる、少しばかり恐ろしいことに繋がる。
 それが起こるのではないか…気がかりな部分はあったが、そういった時期は過ぎて、もう充分関係は築けたと思ったからだ。
 まだまだ足りないものはいくつもあるが、お互いをある程度理解し合えたはず。
 それは、勝手な思い込みではないはず。
 朔也はパンフレットを受け取り、じっと男を見つめた。それから紙面に目を落とした。
 朔也の視線には敵意や怒りは含まれていなかった。どちらかといえば、困っていた。
 それはそうだろう。男は思った。
 これまでは、大人の理不尽な押し付けに、徹底的に抑え込まれてきたのだ。
 それをしたのが彼の父親か、母親か、詳しくはわからない。本当の細かい部分まではわかっていないが、彼もまたそういった苦しみを味わったことだけは間違いない。
 だから今急に、お前の意見を出せ、自由にしろ…そう言われても途方に暮れてしまう。パンフレットを受け取り、混乱してしまわず懸命に考えてくれただけで上出来だ。
 覚えのある苦しさをこれ以上彼に負わせない為に、男は選択肢を持ち出した。
 やはり漁港に来たのだから、寿司屋に入ろうか。
 あるいは、少し変化をつけて洋食の店に行こうか。
 すると、強張った眼差しからふっと力が抜けたのがわかった。

「鷹久は、どっちがいい?」
「そうだね」男は言葉を続けながら、朔也の目線を注意深く見守った「やっぱりここは、寿司を食べるのが一番だろうね」
「俺も、そっちがいい」

 答えた時見えたものは、ただ相手の意見に合わせればいいというものではなく、同じ意見になってほっとしている表情だった。
 少しずつでも自分を表すこと、引き出せたことに男もほっとする。
 あらかじめ目星を付けておいた店まで、そぞろ歩きしながら目指す。
 その短い道中には、沢山の土産物屋がひしめきあっていた。店先で自慢の干物を炙り、煙で観光客を手招きしている。
 後で見ていこうかと持ちかけると、朔也は頷いて言った。

「鷹久は、何が好きだ?」

 まさかそう尋ねられると思っていなかった男は、軽く目を瞬いた。ごく普通の会話の始まり。けれど彼とは中々難しいもの。胸の内側で驚き、喜ぶ。
 不審に思われないよう抑えて、どれも甲乙つけがたいと答える。

「強いて言うなら、鯵の干物が一番かな」

 答えと同時に朔也はそっぽを向いた。
 いや、店の方へ目をやった。
 立ち止まって探し、また男に目を向ける。

「じゃあ、それを買ってく」

 答えに男は目を細めた。じっくりと嬉しさを噛み締める。

「そういう君の好きなのはどれだい?」

 答えはなかった。
 恐らくはそうだろうと思っていた。
 彼にも少なからず好みはある。
 しかし自分の意思を主張することが、どうしても怖いのだ。

「では、セットになっている物を買って、食べ比べてみるといい。どれもそれぞれ味が違うからね。君の好みは、どれになるだろう」

 そう言うと朔也は上目遣いになって男を見た。
 そして少し経ってから、頷くような仕草をした。

「そうする」

 戸惑いから許容への揺れ動きだとわかり、男はまた嬉しくなった。
 自分の意思を自由に表していい、そういった空気をいつも作ってきたつもりだが、受け入れてもらうのは中々難しかった。覚えがあるだけに、朔也の躊躇もよくわかる。
 かたい顔付きのまま何も言わない、ただ唯々諾々と従うだけ。それから、ほんのわずか頷くようになった。それから…そんなもどかしい、歯痒い時期を経てようやくここまできた。まだぎこちなさは残っているが、ようやく、自分の意見を口に出してもそう怖がらなくなった。
 これまでの数ヶ月を思い出し、男は静かにため息をついた。

 

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