晴れる日もある

 

 

 

 

 

 二人を乗せた車は、順調に幹線道路を走った。
 車の流れはスムーズだ。
 天気も良い。
 夏特有の青さと、遠くにゆったり浮かぶ雲の白さが、目に心地良い。
 助手席に座る朔也は先程からずっと、窓から空を眺めていた。
 いつもは行儀よく座り前を向いたっきりだが、今日は、少し身体を窓の方へ向けて、片手も窓枠に添えている。
 その、どこか遠慮がちながらも抑えきれない様子に、男は思わず微笑んだ。
 途中、小休憩の為に立ち寄ったサービスエリアで、一杯ずつドリンクを買い求めた。男は何度か口を付けたが、朔也は、ホルダーに置いたきり手も伸ばさない。
 すっかり、空の青さに心を奪われている。
 男はもう一度、車に乗り込む際に口にした言葉を繰り返した。

「本当に、今日はいい天気だ」

 朔也は空を見たまま、小さく頷いた。
 振り返ることもない。
 笑顔で相槌を打つこともない。
 見る者によっては、つまらないと言わんばかりの態度に映るだろう。しかし男には、これで充分だった。
 彼は充分、はしゃいでいる。
 朝のことを思い出す。
 いつもよりずっと早くに目を覚まし、朝食の時も後片付けの時も、出発の準備をする時も…何かにつけ、いつもよりずっと感情のこもった目線をよこしてきた。
 つまり、彼はそわそわしていた。
 何度も時計を見るとか、天気予報を確認するとか、そういったことはない。いつもと変わらず少ない口数ながら、よくよく見ればいつもよりほんの少し、落ち着きがなかった。
 残念なことに彼のよこす目線が何を言っているのか、正しく把握するのは難しかったが、そわそわと落ち着きなく煌めいているのだ。それで充分だった。
 彼も自分同様、この泊まりがけの小旅行に気持ちが浮き立っている。それがわかり男はしようもなく嬉しくなった。
 思い出すだけで頬が緩む。
 予定の初期の段階では日帰りだったが、うまい具合に時間が取れ、一泊程度なら可能になった。
 特別な時間をより長く過ごせることに男は喜んだが、朔也も同じように喜んでくれるだろうかと、ふと冷静になる。
 決定した夜、話を持ちかけてみた。
 果たして朔也は喜色を表した。
 心配は杞憂に終わった。
 今度こそ手放しで喜んでよかった。
 言葉にこそしなかったが、朔也もまた、男と過ごす時間が長くなったことを嬉しく思っていた。
 それは強い目線や、ちょっとした態度に表れていた。
 一つ決まると、一つ心配事が生まれる。
 今度は、当日の天気に祈りを捧げる。
 自分でもおかしくなるほど気になって仕方なかった期間を振り返り、男は、祈りを聞き入れてくれた晴天に心の中で感謝する。
 お陰で、朔也の後ろ姿ばかり見ている。
 少し異なる表現方法ではあるけれど、間違いなく喜びはしゃいでいる姿を見るのは、男にとっても喜びだった。
 今日に合わせて買った、白地に紺のボーダーの五分袖のパーカー…肘の傷を隠すのに丁度いい丈…が、彼をより年齢相応に見せている。
 何事も過度に抑えてしまういつもよりずっと、開放的に見えた。
 よく似合い、また可愛らしかった。
 何の不満があるものか。
 男は小さく笑った。
 車は、間もなく目的地に到着する。

 

 

 

 ついたのは都内から車で一時間半ほどの、漁港。
 観光地としても有名なそこは新鮮な海の幸はもちろんのこと、港にある展望施設から富士山をはじめとする名だたる山々が望め、様々な楽しみがある。
 男はまず、件の展望施設に向かった。
 天気の良い今日は、さぞ綺麗に富士が見えることだろう。
 たどり着いてみると結構な高さだった。
 駅前で入手したパンフレットによれば、水門を兼ねたこの展望施設は高さが三十メートル。
 二機のエレベーターが展望台へ運んでくれるが、外の階段でも上へと登れるようになっていた。
 見れば、ちらほらと、階段を登っている人影が見えた。
 男は試しに、朔也に尋ねてみた。}

「挑戦してみるかい?」

 しばし迷うような沈黙の後、朔也は頷いた。
 高さ、三十メートル。マンションで考えれば大体十階建てとなり、中々の健脚を必要とする。
 体力にはそれなりに自信のある男も、ちょっとした覚悟が必要だ。
 展望部分を見上げる朔也の目には、珍しくはっきりとした意志が表れていた。
 登ってやるという気概がそこに見える。
 年相応の男の子の顔、嬉しさが込み上げる。

「じゃあ、行ってみようか」

 朔也が小さく頷いたのを受け、男は先に立って階段を登り始めた。
 半分までは順調に足を運んだ朔也だが、そこから段々と重たくなってきたのだろう。ついに休憩をはさんだ。
 先を行く男は気付いて足を止め、振り返った。
 朔也は手すりにつかまって息を整えながら、男の顔を見上げた。
 いつかの、スケート場と同じだと、男は思った。
 今も忠実に守って、熱心に見つめてくる眼差しに応え、男も同じように視線を注いだ。
 いくつか励ましの言葉が頭に浮かんだが、こういう時べらべらと喋りかけられるのは好まないかもしれない。少し迷い、飲み込む。
 彼だって、男なのだ。
 小さな子供にかけるような安易な言葉は、プライドを傷付けるかもしれない。
 匙加減が難しい。
 だから男は、言葉の代わりに目を見合わせた。少し下にずらすと、白いシャツのちょうど襟のところにかかったネックレスの青い飾りが見えた。
 視線の動きで気付いた朔也は、何かを云い含んだ目で男を見つめ、ネックレスの飾りに触れた。
 夏の空を閉じ込めたような、鮮やかなブルー。白い太陽目指して飛翔する…鷹。
 彼はいつも、こまめな手入れを欠かさなかった。入浴や就寝の際は外して、専用の布で丁寧に拭った後、硫化しないよう小袋に入れてしまっていた。
 まさに、彼の宝物の一つ。
 むず痒いほどの幸福を覚える。
 男はもう一度、朔也の目を見た。
 海からの強い風が、汗ばんだ肌に心地良い。
 しばらくして、再開の素振りが見えた。

「よし、行こうか」

 また朔也は頷いた。
 エレベーターならばほんの数十秒ほどで到着する展望部分に、ようやくのことたどり着く。
 内部は、海の方面山の方面と二面がガラス張りになっており、思った通り、どちらの景観も見事だった。
 苦労して手に入れた景色だけに、余計に心に沁みた。
 山の方面は、丁度正面に富士山がそびえていた。
 夏の富士は雪が見えず、不思議なほど青い。
 雪を冠った姿も息を飲むが、こちらはこちらで心に響いた。
 週末ということもあり内部はかなり込み合っていた。たくさんの家族連れやカップルが口々に感想を言い合う中、朔也はたったのひと言も口を開かず、ただまっすぐに富士と向かい合っていた。
 だから男も、すぐ傍に寄り添うだけで、言葉はかけず見守った。
 彼の目の輝きを見れば、何を語っているか、理解できた。
 いつもはしっかり結ばれている唇がすこしほどけている。
 可愛らしさに、男はつい笑ってしまいそうになった。
 感情の起伏が少ないように見えるが、彼はとても感受性が強い。
 他の子らと何ら変わらない。
 ただ少しばかり、顔に表すのが苦手なだけだ。
 恐らく、怖いのだろう。
 普通に笑ったり怒ったりすることもできないほどつらい目に遭い、それで怖くなってしまった。
 それで、過度に抑えるようになってしまった――嘘の笑顔でごまかすほどに。
 これまで朔也の口から語られた、少しずつの情報から、男はそう推測した。
 自分を徹底的に卑下するほどに抑え込まれて、どれほどつらかったことか。
 それでも彼の中にあるものは死んでなどいない。
 だからこうして、誰の心も打つ富士の姿を目にして、彼も同様に感動しているのだ。
 小さく開いていた朔也の口が、ふっと閉じられた。
 幾分落ち着いたのだろう。
 男はいい機会かと、話しかけた。

「富士山を見るのは、初めてかい?」

 朔也は正面を向いたままわずかに頷いた。
 それから男に顔を向けた。

「なんて言っていいか、分からない」

 小さくため息をつく。
 心なしか目が潤んでいるのを見て、男は微笑んだ。

「そうだね……君たち風に言うなら、『すげー』かな?」

 すると朔也は神妙な顔付きになって、それから恐る恐る言葉を繰り出した。

「……すげー」

 至極真面目な顔だ。
 落差がおかしかったが、感動も極まれば表情が追い付かないこともある。
 ぽかんと口を開けたきりになってしまうものだ。
 だからむしろ、その顔とそのひと言は朔也にとてもよく似合っていた。
 男は、その瞬間を目に焼き付けようとじっと視線を注いだ。

 

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