晴れる日もある
子供の悲鳴と、泣き叫ぶ声そして――大人の怒鳴り声が、常に絶える事のない家だった。 その家に母親はいなかった。 もちろん、妻という存在も欠落していた。 半年ほど前、生まれたばかりの赤ん坊を連れて出て行った。 残されたのは今年四歳になる男の子と、父親になるには未熟な大人だけ。 当初母親は、男の子も連れて行こうとした。 しかしどういうわけか、男の子は駅の構内に一人置き去りにされた。 すぐ戻るからここで待っているようにという、母親の言葉をしっかり守り、行き交う人々の不審そうな視線にさらされながらもその場を動こうとしなかった。 けれど、母親は戻る事はなかった。 まだ生まれたばかりの妹を連れて、どこかへ行ってしまった。 長い事、保護者の姿もなく一人立ち尽くす子供に気付いた駅員が尋ねても、何も答えることは出来ない。 不安や恐怖といった言葉で言い表せる感情よりももっと深いものに、押しつぶされそうになっていたからだ。 子供にとって母親は神の別名でもある。 その存在が、自分から遠ざかってしまったのだ。 世界は急速に色を変える。 子供はしばらくの間、養護施設に入れられた。 身元が判明したのは、駅で保護されてから一ヵ月後の事だった。 子供は、父親の元にかえされた。 一ヶ月もの間、捜索願を出さなかった父親の元に。 施設に迎えに来た父親は、子供が記憶しているその顔とははるかにかけ離れていた。 アルコールに依存し、仕事にもろくに行く事がなかった。 当然、日々の暮らしも惨めなものだった。 一日に三度食事がとれる日は、ほとんどなかった。 そして暴力が絶える事も。 彼女が出て行った原因は全て自分にあるというのに男はそれを棚に上げ思い付くありとあらゆる汚い言葉で彼女を罵った意味が分からなくとも子供はそこに含まれる悪意をしっかりと汲み取りそして暴力にさらされた。 アルコールだけでは飽き足らず、男がついに薬に手を出した時、子供は更なる悲劇に見舞われる。 ようやく十になったばかりの頃。 |
ひもじい思いをしながら部屋の隅にうずくまっていると、玄関の方で大きな音がした。 父親が帰ってきたのだ。 子供は、反射的に飛び起きてわが身をかばった。 出掛けに、散々殴られて腫れ上がった頬は、見るからに痛々しかった。 唇は切れ、滲んだ血が口元で固まっている。 顔だけではない。服に隠れた部分にも、多数の傷や痣が残っていた。 殴られ、蹴られて出来た痕。 みな、実の親にされたものだ。 聞くに堪えない罵りの言葉を吐きかけられながら。 『なんであいつはお前みたいなのをオレに押し付けてったんだよ。お前の面倒なんか誰が見るかよ。ええ? なんとか言えよ。ったくお前の顔見てるとむかつくんだよ! このくそガキが! お前みたいな頭のいかれた汚いくそガキ、いらねぇよ。くそったれ。まゆを返せよ! ああもう面倒くせぇ。お前なんかとっとといなくなれよ! おい、聞いてんのかよ!』 子供にとって、今は父親との生活が世界の全てだった。 親から与えられるもの、教えられるものが全てだった。 たとえ、それが本当は間違いであっても、子供にはそれのみが真実だった。 だから、自分の事を卑下し貶めても、その哀しい事実は変えようがなかった。 大人の圧倒的な力に傷付き、殺されそうになりながらも、 子供は必死に生き延びていた。 泣き叫んだり、抵抗するのは相手の怒りを煽るだけだという事を覚えた。 だからといって全く声を上げないことも、同じく相手の怒りを買う。 子供は、本当に泣き叫んでしまいそうになる自分を必死に抑え、父親の反応を窺いながら暴力に耐えた。 靴を脱いで部屋に上がってきた父親に、身をかたくする。 けれど今日は、いつもと少し様子が違って見えた。 酒に酔っているからだろうか。 とろんとした目付きでこちらを見つめている。 口元には薄笑いを浮かべ、おぼつかない足取りで近付いてくる。 「こっちこいよ、朔也」 狭い部屋の中央にどっかと座り、手招きで呼び寄せる。 自分を傷付ける人間の傍になど近寄りたいはずもないが、従わなければ嫌というほど殴られる。 朔也は恐る恐る立ち上がり、父親の傍に歩み寄った。 意識は朦朧としているのに、なぜか酒のにおいはしなかった。 本能が、危険な状態である事を告げる。 けれど幼い朔也は、この状況から逃れる術を知らない。 然るべき機関に保護され、安全を保障される立場にあることを知らない。 「今朝は殴ったりして悪かったな。痛かったろ?」 無理矢理膝の上に座らせると、父親はそう言って朔也の頭を撫でた。 母親が出て行ってから、一度も、頭を撫でられた事はない。 こんな風に、優しく言葉をかけられた事も。 いつもと様子の違う父親に怯え、朔也は全身を強張らせた。 頭の奥の方で、誰かが「逃げろ」と叫ぶ。 出来ない、身体が動かない…… 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―― 恐怖は限界を超え、朔也は無我夢中で腕を振り回した。 運良く父親の顎にぶつかり、ひるんだ隙をついて逃げ出そうとするが、後ろから足を掴まれ引きずり戻される。 「――……!」 声も出せなかった。 圧倒的な力の差を思い知らされる。 背中を膝で押さえ付けられ、骨が折れてしまいそうな痛みに朔也は呻き声をもらした。 無意識に、両手が頭をかばう。 しかし、殴られる事はなかった。 その代わりに起こった出来事は、幼い朔也には理解できない。 抵抗できないでいる朔也の服を全部脱がすと、父親は自分のものを取り出し、朔也に握らせた。 そしてそのまま、自慰を始めたのだ。 恐怖に顔を引き攣らせて泣きじゃくる朔也の声にさらに興奮し、勃起したものを朔也の尻に押し付ける。 父親のものが自分の中に入ってきた時、あまりの痛さに朔也は火がついたように泣き叫んだ。 自分の身に何が起こったのか、幼い朔也に正しく理解できようはずもない。 繰り返し言われ続けた言葉とこの行為とが、結び付く。 自分が悪い子だから 頭のいかれた、汚い子だから だから父さんはこんな事をする 頭上から、父親の恍惚とした声が聞こえる。 それはひどく遠くからにも感じられた。 母親の名前を、呼んでいた。 父親は、薬による幻覚に酔い痴れていた。 気が済むまで、朔也は蹂躙され続けた。 朔也の中で、何かが歪み、破壊される。 大きな、大きな音を立てて。 |
朔也ははっとなって目を覚まし、自分が今どこにいるのか必死なって暗闇に目を凝らした。 |