晴れる日もある
その日は、朝からずっと空の様子が気になって仕方なかった。 早朝は薄日が射していたが、昼に近付くにつれ次第に雲が厚くなり、空気も少し湿っぽくなってきた。 雨の日は、気持ちが落ち着かない。 雨の匂い・暗い空それから…… 最後の授業が始まる前に、とうとう雨は降り出した。 予報通りの降雨に教室内がわずかにざわめく。 それまでじっと空を見つめていた日下部朔也は、地面に落ちる雨粒を追うように目を伏せ、机の上に乗せていた両手をきつく握り締めた。 雨の日は気持ちが落ち着かない。 不安や恐怖よりもっと不鮮明で曖昧なのに、そんなものよりもずっと強烈な威圧感を抱かせるから。 息が苦しくなる。 自分の存在が希薄になったように思え、いてもたってもいられない。 誰でも良いから、早くこの身体を。 違う。 他の誰でもない。 あの人でなきゃ意味がない。 嗚呼…… そんな事は口が裂けても言えない。 考えることも、してはいけない。 あの人が、お母さんのようにいなくなってしまったら、もう二度と生きていけないから。 |
一人で暮らすには少し広すぎる部屋。 時に人の訪れはあっても、また一人になる。 その事を、寂しいと感じるようになったのはごく最近のことだ。 おそらくはそれ以前にも似た感覚はあったのだろうが、本人がそれを「寂しい」と自覚していなければ、違う。 そして一度自覚したものは、二度と以前の状態には戻せない。 今の状況は、朔也にとってあまりいいものではなかった。 一人の人間に固執し、片時もその存在が頭から離れない状況は、自分自身がいかに頼りないものであるか思い知らされるだけ。 もしその人がいなくなったら もしその人が自分を見てくれなくなったら もう誰も、自分の名前を呼んでくれる人はいなくなってしまうのだ。 その事を思うと、身体中が痛くなって、胸がつぶれそうなほど苦しくなる。 嗚呼…どうしてあの時、名乗ってしまったのだろう。 ただ通り過ぎるだけでよかったのに。 ただひと時だけでよかったのに。 どうしてあの人は名乗ったりしたのだろう。 どうして、この胸の中に特別な存在を植え付けたりしたのだろう。 これさえなければ、こんなに苦しまなくて済むのに。 憎しみが、生まれる。 |
暗く沈んだ目で窓の外を恨めしそうに眺める。 傍目にはきっと、何の感情も表れていない顔に映るだろう。 両目には自己抑制の幕が下りて、心の中ではこんなに悲しんで苦しんでいるのさえ、他人には伝わらない。 否、伝えない。 他人との関わりなんていらない。 いらないのに。 窓辺に立ったまま向きをかえ、ダイニングテーブルの上に置かれたコップを目に映す。 コップは水で満たされ、中には、名も知らぬ小さな紫色の花が一輪、コップの縁に寄りかかっていた。 帰り道、マンションの花壇で見つけた。 雨に打たれて尚天を仰ぎ、小さいながらも精一杯咲いている様に、強く心をひかれた。 本来は雑草だからと無造作に引っこ抜かれゴミのように扱われるのを免れ、細く頼りない茎を伸ばし、葉を広げ、ようやく花を咲かせた。 名も知らぬ、小さな紫色の花。 それでもよく見れば可憐で愛らしく、誇らしげに咲いている。 雨に打たれるくらい、なんでもないと言わんばかりに。 この花は、自分よりずっと強い。 高潔な存在に手を触れようとした時、来訪を告げるチャイムの音が鳴り響いた。 もう何度となくその音を聞き、こんな時間に訪れる人物はたった一人しかいないと分かりきっているのに、どうしてか胸が激しく高鳴った。 まるで、恋人の到着を待ち焦がれていた少女のようだった。 |
チャイムを鳴らし、少し待ってから、合鍵を取り出す。 そもそも自分は貸し手で、居ても居なくても出入りしていいとの借り手の許可は得ているのだから、わざわざチャイムを鳴らす必要はないのだが、性分なのかつい押してしまう。 本当は、所在の有無を確かめる為かもしれない。 内ポケットから合鍵を取り出し、いざ鍵を開けようとした時、扉の向こうで音がした。 扉が少しだけ開かれる。入れという合図だ。 もう一度傘のしずくを振り払い、玄関に入る。ふと振り返ると、リビングの方に歩き去る後ろ姿が目に入った。 いつものことだが、素っ気無い態度には少々の寂しさを感じる。 雨が降っていて大変だったでしょうとか、わざわざ来てくれて嬉しいなんて、まさかそんな事を言って欲しいわけではないし、望むだけ無駄だし、そんな事は百も承知しているのだが、つい…ベッドの中での態度とそれ以外とを、比べてしまう。 なんてオロカナコトを―― 小さく肩を竦めて、持っていたハンカチで肩と裾のしずくを拭う。 ようやく部屋に上がれると目を上げると、ついさっきまでリビングにあった姿がどこにも見当たらない。探しながらリビングに入ると、洗面所のほうから、タオルを手に戻ってきた。 「ありがとう」 突き出された手からタオルを受け取り、目を合わせた時、まるで挑むように睨み付ける険しさに気付き、ぎくりとなった。 なにか、あったのだろうか。 彼はいつだって、不安定だった。雨の日は特にそれが強くなる。 けれど、それとは微妙に違う。 違う気がする。 「……どうした?」 すぐには、答えなかった。 「別に」 答えを待って見つめていると、長く人の視界にとどまっているのが苦痛なのか、ぷいとそっぽを向く。そしてそのまま、足早にダイニングテーブルに近づき、不機嫌そうに腰をおろした。 そこで初めて、テーブルに花が生けられているのに気付いた。 これは、今日に限った行為ではなかった。 彼は時折、帰り道に見つけた小さな花を摘んでは、ああしてぼんやりと眺めている。 そしてそういう時だけは、穏やかな顔になる。 ……思い違いかもしれないが。 そもそも彼の顔に、感情らしい感情が表れるのはベッドの中くらいのもので、それ以外はいつだって自己抑制の幕を下ろし、自分というものを曝そうとしない。 どうしてなのか理由はもう分かっているけれど、せめて自分の前では隠さないで欲しいと思うのは無理な望みだろうか。 |
「紅茶をいただいてもいいかな」 テーブルの傍まで歩き、彼に尋ねる。 分かる程度に頷くのを見て、キッチンに向かった。 最初に、そういう決まりを設けた。 来客扱いされるのは嫌だが、だからといって我が物顔で振る舞うのも気がひけるので、自分の事は自分ですると。 彼がそれまで生活を送っていた場所では、相手の命じるままに動くのが当たり前になっていた。 だから、始めの頃はこの決まりごとに馴染めず、ひどく戸惑いを見せた。 最近はようやくそれにも慣れて、落ち着きを見せるようになった。それでも、大抵は自分がやると申し出るのだが。 それを無理に拒むと、少しばかり恐ろしいことになる。幾度か失敗を経て、彼の申し出には素直に従うようになった。 背後の気配に注意を払いながら、戸棚の四角い缶に手を伸ばす。 湯が沸くまでの間、座って待っていようと振り返った時、数歩離れたところに朔也が立っていた。 まったく気付いていなかったので、目にするやあからさまに驚く。 何を含んでいるのかまるで分からない瞳に見据えられ動けないでいると、やおら手が伸びて、手を握られる。 行為の時以外で、彼が触れてくるのは、これがはじめてだった。 まるで、こちらの存在を確かめているようだった。 それほど彼の手には力が込められていた。 力強く握ることで、何かを訴えようとしていた。 それを正しく把握する事は無理かもしれないが、少しだけでもわかる気が、した。 少しでも動いたら、穏やかに漂っているこの空気がたちまち崩れ去ってしまいそうで、息さえもひそめてじっと動かずにいた。 本当は、すぐにでも抱きしめてもっとはっきりと彼の熱を感じたかったが、そんなおろかな真似はすまいと自身を戒める。 手の甲に感じる彼のぬくもりは、抱き合う時の激しさと比べるにはあまりにも儚く、頼りない満ち引きではあったが、だからこそ守らねばならないと思う。 恐る恐る、目を上げる。 盗み見た彼の表情は、何故か少し驚いていた。 何かを伝いかけて開いた唇は、しかし言葉をつむぐことなく閉じられる。 何かが期待外れで、何かに予想を裏切られ、何かしらの安堵感を得ている。 嗚呼、この子は私にどうしてもらいたいと思っているのだろう。 もっともっと、彼の心がわかったなら。 どうしようもなく泣きたい気持ちになった。 不意に息苦しさを感じ、無意識に息を止めていたことに気付く。 慌てた身体がすぐさま呼吸をし、そのわずかな動きと同時に、彼の手が私の手の上から離れていった。 しまったと、目を上げることさえ出来ない私に、かすかな声が届く。 「ありがとう」 同時に暖かいものが唇に触れ、彼の内側から来る熱が、 冷静な部分を欲望に塗り替える。 寝室に向かうまでこらえきれず、絶頂を求めてその場に朔也を組み敷いた。 |
鋭い悲鳴と同時に、彼の身体から力が失せる。 行為の間中ずっと背中にあった手はぱたりと床に落ち、そこでようやく私は冷静さを取り戻した。 床に落ちた手のひらに目をやり、瞼の閉じられた顔に目をやり、最後に、小さく開かれた唇に目を向ける。 『ありがとう』 彼は確かに、そう言った。 感謝の言葉は、私のいったいどこに向けられたのだろう。 どうして、私と彼の間にはこんなに隔たりがあるのだろう。 私はいつだって…… ……… 嗚呼…朔也 お前が望んでくれるなら、私はなんだってすると誓う。 だからどうか…… 気を失った朔也を胸に抱きしめる。 |
長いこと、嗚咽は止まらなかった。 |