妄想03_4

　何の為に生きているのか

　かつて迷いの森に於いて、小さき者がそう尋ねた。
　言葉で問われるまで、誰一人考えた事もなかった。
　考えなくても生きる事は出来るし、考えて答えが見つけられなくても、苦悩するでなければやはり生きる事は出来る。
　それだけといえば些細な事だし、生き死にに関わるかは個人の問題だ。
　いや、重要なのは…他人に答えを求めるものではないということか。
　それでもあえて、小さき者は問う。
　何の為に生きるのか、と。
　誰もが黙す中、真幸はきっぱりと言い切った。

　今は答える事が出来ない。だからこそ生きるんだ

　言葉が成って初めて、皆同じ気持ちであった事に気付いた。
　答えはびっくりするほど単純で、だからこそ……
　そしてまた、生きる理由を見つけられず苦悩する者に出逢い、同じ問いを投げかけられる。

「諸君は何の為に生きている……？」

　一人ひとりが、ここにたどりつくまでに手に入れた答えを誇らしげに叫ぶ。
　彼はこれを認めないか。
　屈辱はいかばかりだろう。
　諦めを手放さない限り、自らの問いに答えを出す事は不可能だと解って。

「お前の答えを…聞かせてくれ」

　いっそ哀れな瞳が、真幸に向けられた。
　これが、かつて僕に恐怖と絶望をもたらした邪神のなれの果てか
　彼の目的は、なりたかったのは。

　彼はただ――

　全ての視線が集中する中、真幸は静かに口を開いた。

「……わたしはずっと知恵遅れだった」

　この一言に、彼の表情がぎくりと強張る。

「はいと答えるだけの頭しか持っていなかった。自分で考える事が――出来ないからだ」

　真幸は、以前男の子が聞かせてくれた言葉をそのまま口に出した。

「……黙れ」
「疑問は、ある日突然私の頭に降ってわいた」

　何故今まで解らなかったのだろう

「私は無視できなかった」

　これほど近くにいたのに。俺を形つくるもう一つの核になったのに

「私は知りたいのだ」

　この言葉にこそ答えは在ったんだ

「黙れ！」

　絶叫が響き渡る。
　怯む事無く、真幸は口を噤みじっと相手を、神取を見つめた。

「俺は…ずっと考えていた。お前の行動には何か理由があるはずだと。とてつもなく大きな何かが隠されていると……」

　苦悩に満ちた眼差しで虚空を睨み、束の間の沈黙の後真幸は続けた。

「お前は僕を殺したかったんじゃない。なりたかったんだ。誰かの影とか操り人形なんかじゃなく、意志を持った一個の人間に！　あの光を憎んだのも……本当は、憎かったんじゃない、ただ妬ましかったんだ！　自分にはないものを持っている事が！　ここにいるみんなの自由な魂が！」

　吠えるように、真幸は叫んだ。
　そして小さな声で、でも、と続ける。

「なろうと思えばいくらでも変われたのに、どうしてあんたは…そうしなかったんだ……」

　自分を形作った人の魂を責める。積もりに積もった憎悪をぶつけるべき相手なのに、やっと果たしたのに、ただ哀しいだけだった。

「………」
　そう…わかった、わかったよ――

　神取の顔から、すっと表情が消える。
　やがて浮かんだのは、薄気味悪い嘲笑だった。

「言いたい事はそれだけか……」

　神取は口元を歪めたまま首を振り、傍らに従えた一振りの刀を手に取った。たちまち全身から殺気が立ち上る。
　危機を察知して、六人のペルソナが発現する。

「下がれ見神！」

　咄嗟に稲葉が叫ぶ。だが真幸は、戦う意志を突き付ける神取に一歩も退かず更に言葉を続けた。

「僕に自分と同じ絶望を背負わせて、あんたはそれで満足だったか……？」

　もはや言葉で思い止まらせる事は不可能だった。
　それでも真幸は、言わずにいられなかった。

「虫ケラが……いつまでも戯れ言をたれるな」

　すらりと刃を現し、やおら立ち上がる。

「神に対する暴言の数々…許すわけにはいかんな。その愚かさは万死に値する」

　上目遣いにねめつける眼差しに、かつての昏い翳は微塵もなかった。
　あるのは、進むべき道を見出した者のみが見せる潔さだけ。

『……くくく。やはり『私』はそうするか』

　長い事神取の心に居座っていた「彼」が不気味に笑う。

　そうだ…私は――

　神取は背を向けたまま答えた。

『私の言葉に乗せられてあれだけの事をやっても、結局お前はそうするのか…いやまったく面白い』

　長い事心に居座り、しかし貌だけは見せなかった「彼」が、閉ざされた暗闇の向こうから進み出る。

　逃げて、逃げて！

　悲鳴を上げる男の子に大仰な仕草で腕を組み、「彼」は嗤った。

『おチビちゃんはそこで見ておいで』

　そして長い前肢の細い指で軽く弾く。
　男の子がひっくり返る。

『せめて最後に、お前の望みを叶えてやろう！』

　止めろと思う間もなく意識を食われ、「彼」のいた位置に閉じ込められた神取は、ただ呆然と、自分でない自分が喋るのを見ていた。

「楽には死ねんぞ……覚悟は出来ているな」
「――！」

　先程までとは打って変わった禍々しい声に、六人は、神取という人間が消え去り邪神が現れた事を悟った。
　真幸はかたく目を閉じた。乗っ取られた事に深く首を垂れる。
　稲葉ははっと我に返り、武器を握り直した。

「うるせー、このバケモンが！　そりゃこっちのセリフだ！」

　発現した邪神に対抗すべく、六人は、戦う意思を滾らせた。
　それらをあっさり退け、邪神は六人に向かって業火を放った。間を置かず稲妻を落とし、風の刃を繰り出す。
　続けざまに襲い来る凄まじい魔法の乱舞に傷付き、血を流し、六人は倒れる。
　邪神は、額から血を流し倒れ伏す真幸の元に歩み寄ると、片膝をつき、優しく笑いかけた。

「この『私』からの土産を受け取るがいい」

　起き上がろうともがき、真幸は顔を上げ邪神を睨み付けた。
　鋭く射抜く眼差しも意に介さず、邪神は手を伸ばす。

「やめろ！」

　一度は払いのけた真幸だが、二度目はよけきれなかった。
　五指が額に当てられる。

「真幸……この私が、お前に気付いてなかったと思うか？」

　愚か者め…邪神がにんまりと嗤う。
　真幸は必死に抗った。

「やめろ……僕に手を出すな！」
「随分深い場所に隠したものだが……私の声は聞こえるだろう、真物」
「ぐぅっ……」

　意識の奥底まで食い込んでくる声に真物が恐怖する。それはそのまま、痛みとなって真幸を襲った。

「聞くがいい、見神真物」

　邪神は口を開いた。
　語られたのは、両親の死の真相。

　自殺に見せかけ私が殺した

　奈落の奥底からの苦痛と衝撃が、真物に覆い被さる。

「ぐあぁっ！」

　認め難い現実に悲鳴を上げ、苦しみ悶える真物の魂に引きずられ、真幸の全身を激しい痛みが襲う。
　いっそ壮絶な死を与えんとする邪神を、男の子は為す術もなくただ見守った。
　それが『私』…神取鷹久の望みだからだ。
　悲しく俯く。

「残る二人も、私がやった事だ」
　誘惑に負けた、憐れな神取鷹久の望みを叶えてやったのだ。

　人の命を何とも思わぬ邪神に、誰も口を開かない。
　言葉の一つも出せなかった。

「……駄目だ」

　頭が割れんばかりの激痛を堪え、真幸は首を振った。
　憎しみに囚われ盲目になった真物が、すぐそこまで迫っている。

　――駄目だ…そうじゃない

　怒り狂う真物を、真幸は必死に食い止める。
　とどめの一撃が真物を襲う。

「全ては『私』が神になる為に」

　神取の貌で邪神が嗤う。

　――怒りや憎しみを武器にしてはいけない！

　真物が、ゆっくりと立ち上がる。
「……そんなものの為に」

　邪神が、いやらしい笑みに唇を歪める。
「そうだ。そんなものの為に、『私』はお前の魂を塗り潰そうとした」

　真物は目を閉じた。
　そんなものの為に、父さんと母さんは。
　霧子は。
　清さんは。

「そんなものの…為に……」

　身体の奥底から激しく込み上げるものがあった。
　長い間翳に囚われ翳に苦しめられてきたからこそ、その背に太陽神が発現する。

「ああ、やはりあれは厄介だ。後は『私』に任せよう」

　ついに覚醒した皇帝の器に肩を竦め、邪神はとっとと逃げを打った。

「――！」

　閉ざされた暗闇から解放されると同時に、神取は真物のペルソナから放たれた力をその身に食らった。
　凄まじい衝撃に吹き飛ばされ、壁に激突する。

　――私の、望みは……

　邪神はその口を大きく裂くと、弱く愚かな男の魂に食らい付き、鋭い歯でもってぶちぶちと噛み千切った。
　苦痛と衝撃に男が叫びを上げる。

『お前の恐怖と絶望も、中々の美味だな』

　好き勝手食い荒らして満足そうに嗤い、邪神は奈落の奥底へと消えていった。
　後に残されたのは、血を吐き倒れる一人の男。
　軋むような全身の痛みを堪え、神取は壁伝いに身を起こそうとした。誰かが近付いてくるのに気付き、ゆっくり顔を上げる。
　そこには、銃を手に立つ真物がいた。
　真物は額から頬に垂れてくる血を鬱陶しげに手で拭うと、無造作に振り払った。

　――私の、望みか……

　心の中で笑い、神取は口元を拭った。

「……今度は、躊躇するな」
「見神、何を……？」

　訝る稲葉の声を聞きながら、真物は、血を吐き無様に這いつくばる男のこめかみに銃を押し付けた。
　ぎょっとなって稲葉が叫ぶ。

「駄目だ見神！　そんな事したら、そいつと同じになっちまう！」
「構わない」

　どうせ自分はもう真っ黒だと、表情一つ変えず真物は言う。
　稲葉は即座に否定した。

「そんな事ねぇよ！　真っ黒な人間に、あんな綺麗な絵が描けるもんか！」

　どこが綺麗なものか…スケッチブックに数えきれないほど描いた顔のない人の群れを思い浮かべ小さく笑う。

「よすんだ見神！　お前は撃たない！」
「撃てる」
「だめだ、撃つんじゃねぇ！」
「ごめん、二人にも因縁があるのは分かってる…でも、ごめん」
「そうじゃねえ！　そんな事を言ってるんじゃ――」

　聞こえぬ様子で、真物は男の頭を壁に押し付ける形で銃を突き付けた。
　憐れな男の魂に触れ、真実が分かった玲司が、南条が、必死に言葉を繰り出す。

「よせ見神！　撃って死ぬのは、お前の方だ！　お前の心だ！」
「もうとっくに死んでる」
「死んでなどない！」

　振り向きもせず答える真物に南条は声を張り上げた。
　白い壁に赤い手の跡を這わせ、神取は真物を見つめた。
　死んでなどない、その通りだと目を見開く。彼は死んでなどいない。まだ…以前と何ら変わらぬ、強い、まっすぐな光がそこにある。
　十二年前のあの夏の日、初めて出会った時と何も変わらない…いっそう澄みきった神聖な光が見える。
　それが、自分を真っ向から射抜いている。
　怯えも委縮も、そこには微塵もなかった。
　あれだけ翳を与えても、あれだけ奪っても――彼には結局何の影響も及ぼさなかった。
　全て無意味だった。
　否、影響はあった。
　ただそれでも、神聖は神聖なままという事。
　より強い力を得て、再び立ち上がった。
　美しさに神取は心が震える思いだった。

「死んでなんかねーよ……見神、死んでなんかない」

　悔しそうに稲葉が言う。脳裏に蘇るのは、真物が描いた絵を見た時の感動。
　あんな世界を描ける人間が、どうして真っ黒なものか。
　引き止める一切の言葉を振り払い、真物は両手で銃を構え、神取の眉間に押し付けた。
　見守る五人は息を飲む。

「………」

　憎しみは絶える事無く煮えたぎり、怒りは凄まじい勢いで渦巻いていた。しかし二つがとめどなく心に湧いても、真物は、引き金を引けずにいた。

「……そんなのミカチじゃない」

　上杉の声が聞こえた時、初めて真物は瞳を揺らした。

「ミカチは…霧子ちゃんの為に、一生懸命頑張ってきたんでしょ……」

　悲しげに上杉が叫ぶ。

「そんなのミカチじゃないよお！」

　真物が引き金を引けずにいたのはそれだった。
　霧子の白が思い留まらせていた。
　霧子を守る為に、命がけで戦ってきた自分の中の白い部分が、思い留まらせていた。
　負けたくない、逃げたくない。
　守りたいんだ。
　怒りと憎しみが心をどす黒く染めても、そこにまだ白い部分があった。
　間違いなく。
　だから、引き金が引けない。

「見神――銃を下ろせ！」
「頼む、見神！」
「そんな奴の為に、死ぬ事ねーんだ！」

　それを知っている仲間たちの声が、真物を白い側に連れ戻そうとする。
　撃てない理由はもう一つあった。
　意識の奥底で会った、男の子。
　邪神の誘惑に負けたもう一人の自分を嘆き、わびて、何度も励ましてくれた男の子。
　あの子の存在が、引き金を引けないもう一つの理由だった。

　自分を苦しめたのはこの男だが、自分を助けようとしたのもまた……

　見えないが、存在は感じる男の子に、真物は奥歯を噛み締めた。
　胸に、様々な思いが去来する。
　ちくしょう…小さく呟く。

　真物は銃を構えたまま、男を真正面から見据えた。
　男もまたじっと真物を見た。

　もし私が悪魔でも……許してくれますか。
　僕は、僕に出来る事をする。

　――だから僕は、撃たない

　真幸の静かな声がした。
　真物は俯き、力の失せた手をゆっくり下ろした。

「だから…僕は……」
「……見神」

　静かに呼びかけ、南条は慎重に銃を掴んだ。
　抵抗せず、真物は銃を渡した。

「っ……！」

　その時、再び神取が咳込み血を吐き出した。
　血だまりの中に倒れそうになる身体を、真物は咄嗟に支えた。

「！…」

　神取が驚く。
　驚いたのは真物も同じだった。たった今まで、命を奪おうと銃を向けた相手を、同じ手で助けた自分に、激しく動揺する。
　強張り揺れる瞳を見て、神取は呆れる。そして思い知る。　
　妹と同じ目にあわせてやるべき相手をも助け、気遣う事が出来るからこそ、あれになる器を備えているのだと。

「っ……」

　怒りに似た何かを真っ赤に燃やした瞳で見ながらも、真物は、死にかけた男をそっと床に横たえてやった。
　呆れ果て神取はいっそ笑った。
　こんな馬鹿な事があるものか…こんなものは自分の妄想に過ぎない。そうやって笑うが、何度瞬きしても、自分を見下ろす力強いまっすぐな瞳は間違いなくそこにあった。

　こんな人間がいてたまるものか――！

　魂に刻み込むようにじっと凝視する。

　――私の望みは……

　十二年間続いていた悪夢が終わる。
　ようやく呪いが解かれる。

「………」

　自分に注がれる心地良い光に向けて手を差し伸べ、神取鷹久は言った。