妄想03_4

「いっぱい怪我してるもの」

　男の子の声がした。
　怪我？
　道理で、手も足も胸も痛いはずだ。
　身体も動かせないし、目を開けるのも億劫だし、聞くのと喋るのが精一杯。

「ここでゆっくり治せばいいよ」

　治す？
　じゃあここは病院か。
　それにしても、一体いつ入院なんてしたんだろうか。
　まったく覚えていない。
　何もかもぼんやり霞んで、怪我の後遺症だろうか。

「ここは安全だし」

　安全？
　医療ミスがないとか、そういう事だろうか。

「君も、どこか悪いの？」

　声から、十歳位の男の子に向かって聞いてみる。

「心配だから見にきたの」
「そうか、ありがとう。僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ、いっぱい怪我してる！」

　男の子が泣きそうな声で言う。

「ごめんよ、でも本当に大丈夫。戦えば、怪我の一つや二つ出来るものだし」

　戦う？
　まるで覚えていないが、確かに何かと戦っていた。
　そうかそれで怪我をして、入院したのか。

「じゃあ、僕は……」

　負けたのか？
　腹の底が一気に冷える。

「違うよ、負けてなんかないよ。少しお休みしてるだけ」

　男の子が励ますように言う。
　負けてはいない、心底ほっとする。
　何と戦っていたのか、何故戦っていたのか、まるで思い出せない。

「すごく強いけど、無理しちゃだめだよ」

　男の子が心配そうに言う。
　ちょっと嬉しいけど、強くなんかない。
　それに無理でもしないとあいつには勝てない。
　誰の事かまるで思い出せないが。

「ゆっくり休んで、怪我を治してね」
「ありがとう。僕は見神真物。君は？」
「またあとで来るね」

　男の子は行ってしまった。

「すごく痛い？」

　男の子の声がした。
　悲しむような、おっかながるような声。
　そんなに怪我はひどいんだろうか。
　確かに手も足も胸もひどく痛むが、心配させたくない。

「ちょっと痛いだけ」

　だから強がってみせる。
　まだ身体を動かせないし、目も開かない、聞くのと喋るのが精一杯。
　それでも、ずっと負けたくないと思ってきた。
　だから強がってみせる。　

「また見にきてくれたんだね、ありがとう。僕は大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ、まだ動けない！」

　男の子が泣きそうな声で言う。
　ああ、お見通しか、情けない。

「ごめんよ、でも本当に大丈夫。前より少し楽になった」

　男の子が前に言った、ここは安全だという言葉で、ゆっくり休めた。
　こんなに長い時間、何もなく、何も起こらず、身体を休める事が出来たのは本当に久しぶりだ。
　まるで覚えていないが、以前はもっとずっとひどかった。
　まるで覚えていないが、戦っていたのだから当り前か。

「ごめんなさい……僕のせいで」

　男の子が震える声で言う。
　一体何を謝っているのだろう。
　何が『僕のせい』なんだろう。

「どうして謝るの？」
「僕はただ知りたかっただけなんだ……」
「何を、知りたかったの？」
「考えちゃいけない事…大人は皆そう言うんだ。だから僕はずっと「はい」って答えて、考えないようにしてた」

　子供の言葉が指すものに心が反応する。
　形にすらならなかったが、それは少し嫌な感じがした。

「ごめんなさい……こんなにして」

　男の子は泣いているらしかった。
　こんなに、というのは、この怪我の事を言っているのだろうか。

「ゆっくり休んで、怪我を治してね」

　鼻をぐすぐすさせながら男の子が言う。

「また、あとで来るね」
「あ、待って……」

　男の子は行ってしまった。

「ごめんね」

　男の子の声がした。
　どうしてこの子が謝るのだろう。
　あれからずっと考えたが、戦っていた相手はこんな小さな男の子じゃなかった。
　では誰なのかと言われたら、まるで思い出せないが。

「ねえ、どうして君が謝るの？」

　少し動かせるようになった身体で、声のする方に首を向ける。
　まだ手も足も胸も痛むし、目も開けられないが、少しずつ動けるようになってきた。

「僕のせいだから」
「この怪我の事？」
「うん」
「違うよ、君のせいじゃない。もっと別のものだ」
「ううん、僕のせい……」

　男の子はまた鼻をぐすぐすさせた。
　弱り果てる。
　何を言っているのか、何故謝っているのか、さっぱり解らない。

「こら、男の子が、簡単に泣いたりしない」

　まだ持ち上げる事が出来ない手をずらして、男の子の方に伸ばす。

「僕は大丈夫。こんな怪我、すぐに治る」
「……そうしたら、また戦うの？」
「うん。負けたくないからね。でも君とじゃないよ」
「ひどい事、いっぱいした……」
「だから、それをしたのは君じゃないよ」

　まだ思い出せないが、この男の子じゃない事だけは確かだ。
　あれはもっと恐ろしくて、苦痛と衝撃に満ちている。

「怖くないの？」
「……怖いけど、でも僕は負けたくない。守りたいんだ」

　口にした時、何かがちらりと脳裏を過ぎった。
　まるで覚えていない、思い出せないものが見えた気がした。

「そう……僕は、守りたいんだ」

　強く念じる。

「負けたくない……逃げたくない……」
「頑張ってね」

　男の子が、伸ばした手をぎゅっと握る。

「またあとで来るね」

　男の子は行ってしまった。

「僕のせいだ」

　男の子の声がした。

「君のせいじゃないよ」

　ようやく目が開けられるようになって、男の子を見る。
　そこには想像した通り、およそ子供らしくない、苦悩に満ちた眼差しがあった。

「君のせいじゃないよ」

　もう一度言って、少し楽に動かせるようになった手を伸ばす。

「僕が弱いだけ。君のせいじゃないよ」

　男の子が首を振る。

「すごく強いよ。あんなに怖いものと、戦えるなんて……」
「でも僕は……負けたんだ」
「負けてなんかない、逃げてもいない」
「でも負けたから……ここにいる」

　男の子はより激しく首を振った。
　否定してもらえて、少し嬉しくなる。

「お休みしているだけ。本当に、『僕』は負けてなんかいないよ！」

　自分の事ではない『僕』を表す言い回しに、ぴくりと心が反応する。

「君は……」

　思い出せないものがより近くまで迫る。
　以前も、ここでこんな風に誰かと言葉を交わした気がする。

「だって『僕』は、あいつに勝てる唯一の存在だもの」
「……あいつって、誰？」

　男の子はますます苦悩を深めて俯いた。
　そのまましばらく、口を噤む。

「僕があんなもの、呼んだせいで……」

　男の子の顔をよく見ようと、無理にも起き上がろうとする。
　途端に全身に痛みが走り、まだ動けない事を思い知る。

「無理しちゃだめだよ、きっと『俺』が何とかしてくれる」

　男の子がおろおろと引き止める。

「いやだ、負けたくない……逃げたくない……」

　守りたいんだと、強く思い浮かべる。

「今は無理しないで、ゆっくり休んで」

　お願いだからと男の子が手を握る。
　あたたかい手に励まされ、痛みが引く。

「ありがとう」
「またあとで来るね」

　男の子は行ってしまった。

「まだ起きちゃだめだよ」

　男の子の声がした。
　今にも泣きそうな顔で、おろおろと引き止めようとする。

「ありがとう、でも大分痛みも収まってきた」

　それをやんわり押しやって、身体を起こす。
　まだ手も足も胸も痛むが、動けないほどではない。

「ちゃんと全部治してからじゃないと、あいつに勝てない……」
「それは分かってる。でも……『俺』だけに任せてちゃいけないのも、分かってるんだ」

　男の子が嬉しそうな顔になる。

「思い出してきたの？」

　残念ながらそうじゃない。
　まだほとんどがぼんやり霞んで、もやの中に沈んでいる。
　それでも、戦わなくてはいけない事、負けられない事は覚えている。
　何か守りたいものが、あった事も。

「ごめんなさい……僕のせいで」

　こんなにして、と、男の子は沈んだ顔になる。

「君だけど、君じゃない。それは分かる」

　分かっていると言うと、男の子はひどく苦しそうな顔で口ごもった。
　少しして、男の子が言う。

「もし……」

　頷いて続く言葉を待つが、男の子は俯いたまま中々口を開かなかった。
　言い出すまで、じっと待つ。

「もし『私』が悪魔でも――」

　心のどこかがぎくりとした。
　けれどそれも、分かっている事。
　男の子が、苦悩に満ちた眼差しで上目遣いに見る。

「――許してくれますか？」

　それは誰かの強烈な視線を彷彿とさせた。
　途端に全身に痛みが走る。
　それも分かっている。
　覚えていない、思い出せない事が眼前に迫る。
　男の子に向かって、痛みに軋む手を伸ばす。
　けれど言葉が出ない、何と言ってよいやら分からない。
　散々考えて、答える。

「僕は……僕に出来る事をする」

　男の子は頷き、伸ばした手を両手でぎゅっと握った。

「きっと『僕』なら出来るよ」

　男の子は悲しげに笑った。

「見神、大丈夫か？」

　座り込み、表情を隠すように手で覆い俯いている真物に、稲葉が心配そうに声をかける。

「ああ、平気」

　顔を上げて応える。
　街に異変が起きてからずっと彼は、何かと気にかけ、事あるごとにこうして声をかけてくれた。

「腹減ったろ、何か食おうぜ」

　言うが早いか稲葉は、背負っていた荷物から、以前買い溜めしておいた食糧を取り出して並べた。

「ちょっと！　まさかここで食べる気？」

　すると、正面にある小さな泉の主である妖精のトリッシュが、びっくりした顔で言ってきた。

「大目に見てちょうだいな、トリッシュちゃん！　外は悪魔で一杯だし、表には出られそうにないし、のんびり休憩出来るところっていったらここしかないんだし。ね、一つ分けてあげるから！」

　上杉は両手を合わせ、ご機嫌取りにつとめた。
　トリッシュはため息をつき、それならと一番高そうな品を要求した。
　すかさず上杉は乾パンを差し出し、妖精は甲高い声で喚き散らした。
　トリッシュは上杉に任せ、稲葉は適当に見繕ったいくつかを紅茶のペットボトルと一緒に真物に差し出した。

「ありがとう」
「ちゃんと食っとけよ。園村は何にする？」
「えっと、じゃあ私は……」
「おら、南条に、玲司も、食える時食っとこうぜ」

　面倒見の良い稲葉に感謝しながら、真物は受け取った一つにかじり付いた。シリアルをチョコレートで固めたもので、ざくざくとした歯ごたえが中々小気味良い。
　ゆっくり噛み締めながら、真物は、さりげなく彼等の顔を見回した。
　彼等――稲葉、上杉、南条、城戸、マキ…には、自分は今見神真物として映っているはず。
　まさか別人が装っているとは夢にも思うまいが、しかしあまり自信はない。
　今『僕』は、かつて『俺』がいた場所で、記憶が欠けた状態で眠っている。
　あるきっかけを境に、交替した。
　あるきっかけ…街を襲った異変。
　悪魔と呼ぶべき存在が街にあふれ
　街は計り知れない力によって閉ざされ
　自分と彼等に人知を超えた能力「ペルソナ」が発現した
　それらを引き起こしたのは誰あろう……

　神取鷹久

『僕』を殺す為にあらゆる手を尽くす翳。長い間虐げられ、なのに目的が何なのかまるで解らなかった。
　本当にただ苦しめたいから苦しめるのかと、息も絶え絶えに…目も眩むような恐怖と絶望にひたすら耐え、戦った。
　決して翳に屈しまいと、身も心もぼろぼろにして。
　その結果、『僕』は――。

「いやいやマジで、乾パンマジ美味いから！　トリッシュちゃんも食べてみ！」
「もう、分かったってば！」
「相変わらず、上杉君は面白いなあ」
「おい上杉、それだって大事な食糧なんだから、オマエあんま無駄にすんなよ」
「アイアイサー！」

　真物…否、誰に問われる事もないが名乗るべき名を持つ副人格である真幸は、賑やかに食事を進める彼等をそれとなく見やった。
　皆が皆、神取に対して何らかの思いを抱いている。
　つまるところそれは、怒りと憎しみだ。
　神取はまるで、わざと汚い感情を抱くように仕向けているのではないかと、その言葉その行為がそう思わせる。
　最も卑劣で卑怯なやり方で翳を落とす――南条に、城戸に…そして自分に。
　そうして神取に対する憎しみはますます深まり、もしこれで彼と対峙した時、自分達は何をしでかすか。想像も及ばない。
　ここはデヴァ。ユガ。
　神取のいるところ。
　ここに集まった皆が目指すべき仇がいるところ。
　そう、仇だ。
　ある者は親愛なる半身の為。
　ある者は愛慕する母の為。
　そして俺は、見神真物の為。
　元々一つであったのに分かたれてしまったのは、神取の追求によって本来持っていた感情を、僕がことごとく抑え込んでしまった為だ。
　通常それらは限界を超えた時点で爆発するだろう。
　だが何故か僕はそうはならず、断片であった『俺』は人格を獲得しこうして表面化するまでに至った。
　俺は、生まれながらに持つ使命―僕を脅かす全ての存在から僕を護る―をまっとうする為にだけ存在する。

（だから俺は、神取を……）

　見神真物を助ける為に、心を汚染し尽くそうとする翳を、神取を、退けなければならない。
　そこで唐突に閃く。

　神取の目的とはもしや……

　辿り付いた推測に驚愕する。
　だから奴のペルソナはあれほどまでに禍禍しいものになった。
　だとしたら…いや、待て。本当にそうか？
　本当にこの理由で神取は僕を封じ込めたかったのか？

　真実はもっと、別にところに在るのかもしれない――

　喉に詰まるシリアルをペットボトルの紅茶で流し込み、表情を隠すように手で覆って俯く。

「どっか、具合でも悪いのか？」

　ついさっきまで上杉と賑やかに言葉の応酬をしていた稲葉が、気付いて隣に座り声をかける。

「いや、大丈夫」

　真幸は顔を上げ、小さく笑って首を振った。
　すると、まっすぐ向かってくる視線が一旦外され、また元に戻り、なあ、と声が出された。
　その、少し低い声に、真幸はぎくりとなった。

「なあ、オマエ……見神だけど、見神じゃないだろ」

　耳にした言葉に、息の詰まる思いを味わう。
　城戸と、マキが、驚いた顔をしている。
　それに対して南条と上杉は何かを含んだ表情をしている。どうやら以前から分かっていたようだ。
　真幸は目を伏せた。

「イゴールによれば、貴様のペルソナは皇帝だそうだが、貴様は今まで一度も皇帝を発動させた事がない。龍神と、魔獣だけだ」
「園村みたいに、別の世界の見神かとも思ったけど、その割にゃ話もちゃんと通じるし、けどやっぱどっか違うし。まあ敵じゃない事だけは、分かるんだけどよ」

　南条の言葉をついで稲葉が言い、再び、オマエ誰だ、と問われる。
　束の間口を噤み、意を決して告げる。

「……俺は…真物じゃない」

　信じられないという顔と、やっぱりという顔とが並ぶ。真幸は続けた。

「俺は、見神真物を護る為に生まれた人格だ」
「……神取から、護る為か」

　南条は静かに言った。
　頷く真幸。

「では、やはり……背中の傷は、奴が」

　怒りに顔を歪め、南条は吐き捨てるように言った。
　真幸は口を閉ざす事で肯定の代わりとした。
　南条の顔付きがますます険しくなる。

「なんでだよ！　なんでそんなひでぇ事！」

　稲葉は声を荒げた。

「奴は、お前たち兄妹の親代わりになる条件に、何を要求したんだ」

　真幸は、射抜く鋭さで南条を見据えた。

「恐怖と絶望」

　紡がれた言葉の衝撃に誰もが沈黙する。
　しばらくして、南条は尋ねた。

「本物の見神は、今、どうしているんだ？」
「……意識の底で、眠ってる」

　己の不甲斐なさを恥じる顔で俯き、真幸は言った。

「奴から霧子を守る為に戦って、戦って、もうこれ以上進めなくなっても、それでも真物は戦おうとした。自分を壊してでも、霧子を守ろうとした。皆といる時間を守ろうとした。でももう……一歩も進めないほど、傷付いてしまった。だから、無理にでも眠らせた」

　だから、と真幸は続ける。

「俺は神取を追っている」
　見神真物を取り戻す為に

「……ミカチ」

　今にも泣きそうな声で、上杉はひっそりと呟いた。
　そうか、と、南条が静かに言う。
　真幸は呻くように言った。

「今まで、言わずにいて……悪かった」
「そんな顔すんなって。見神じゃないけど、オマエやっぱ見神だわ」

　稲葉は明るく言って肩を叩いた。

「頑固で、遠慮の塊で。何でも一人でしょい込もうとするとこなんか、特にな」
「まったく、水臭い男だ」

　南条がぐいと肩を掴む。

「一人で出来る事など、たかが知れてる。だから俺も協力しよう」
「俺も力を貸すぜ」

　城戸はすっと拳を差し出した。

「足りねぇ分は、俺がやってやる」

　申し出を見回し、真幸は目を閉じた。ありがとうと、小さく頷く。
　その様子を上杉は黙って見つめていた。
　いつも真物が見せていた、思い詰めたような無表情は、そのせいだったのだ。
　かつて感じた事のない、本当に人を殺してしまうところまで行き着く怒りがふつふつと込み上げてくる。

「本当にありがとう」

　紡ぎ出された深い感謝の響きに、上杉は小さく目を見開いた。