妄想03_5

　鉛筆が紙の上を滑る小気味よい音がする度に、白紙に人の姿が浮かび上がる。
　一心不乱に鉛筆を動かし、見神真物は、紙の上に一人の男の顔を描き出していった。
　決して消えない、収まりもしない怒りを、描く全ての線に託そうと、真物はひたすら鉛筆を動かし続けた。
　整った目鼻立ちはしかし女々しさを感じさせず、凛とした、強い意志宿る眼差しが特に印象的だった。
　着込んだ制服の襟元には、三年生を示す学年章がつけられていた。
　街を襲ったあの異変から、間もなく一年が経とうとしていた。
　相変わらず真物は一人中庭で、絵を描き続けた。
　顔が描けない事はもうなかった。
　逆に、好んで人の顔を描くようになった。
　暗く陰鬱な表情、底抜けに明るい表情、笑いを誘う滑稽な表情、様々なものを描く。
　男の顔も、描いてみた。
　鉛筆を動かすと、最期の言葉が脳裏を過ぎった。
　何がありがとうだ、ふざけるな。
　何が済まなかっただ、ふざけるな。
　胸に過ぎるいくつもの想いをぶつけるように、真物は鉛筆をすべらせた。
　そんな荒んだ気持ちで描いたにも関わらず、男の顔はひどく穏やかで、微笑んですらいた。
　紅茶を振る舞ってくれた時の顔。
　手ひどく犯しながら、私を殺せと言ってきた男の顔。
　そして死に際の顔…思えばあの時が初めてではないだろうか、まともに互いの目を見合わせたのは。
　白紙に映し取った死に際の顔はまるで――愛しい恋人を見るような優しい眼差しをしていた。
　それが分かった瞬間、言いようのない怒りが込み上げてきて、力任せにスケッチブックを机に叩き付けた。
　そんな事があるものか、自分は頭がおかしくなったに違いない、こんなのはただの妄想に過ぎないと、激昂する。
　それなのに…破り捨ててしまう事は出来なかった。
　何故だか分からない涙が少し、頬に零れた。
　最期の言葉に、自分は頷いた。
　受け入れた。
　そして男は安らかに逝った。
　安心して、満足しきって、目を閉じた。
　永遠に。

　男の子は消え、真幸は融合した。
　呪いは解かれたのだ。
　長く霧子を苦しめていた病は跡形もなく消え失せ、今ではすっかり色を取り戻している。
　まるで夢から覚めたように。

「ミカチ、そっちいっていい？」

　中庭の扉を開けて、上杉と稲葉がやってきた。
　真物はどうぞと招き、またスケッチブックに目を落とした。
　二人は真物を挟む形でベンチに座った。

「今日は何描いてんの？」
「上杉君」
「え、オレ様？」

　上杉は嬉しげに目を輝かせた。
　そう、と真物はスケッチブックを向けた。

「昼休み、稲葉君達と小競り合いしてた時の」
「え、うわ……すっげ上手いけど、オレ様こんな顔…してた？」
「してた」

　動揺する上杉に肩を竦め、真物はいたずらっ子の顔で笑った。

「！…」

　一瞬、どきりとする。小憎らしい程清々しい笑顔に今更のように上杉は、これが本来の真物なのだと思った。
　移し取られた一瞬に稲葉は声を上げて笑った。

「うわ、すげぇ！　マジ上杉！」
「ちなみに稲葉君はこんなだった」

　一枚めくる。
　今度は上杉が声を上げて笑う。

「そうそう、マークするするこんな顔！」
「おいなんだよもー、見神、オマエ…見過ぎ！」

　一番滑稽な顔を狙って移し取った真物に腕を組み、稲葉は、むすっとふてくされた。
「結構よく描けてるだろ」
「いや、そりゃそうだけどよぉ……」

　そこに何の文句もないけれどと、稲葉は口ごもった。むくれた顔をしてみせながらも、内心嬉しく思っていた。彼とこうして、普通に言葉を交わし、屈託なく笑い合える事を心から喜ぶ。
　あの異変以降、彼の作風は少し変わった。それでも相変わらず彼の作り出す世界は感動的で、自分を引き付けてやまないと稲葉は思った。
　と、中庭の扉を勢いよく開けて南条がやってきた。

「おい上杉！　やはり貴様ここでさぼっていたか！」
「うわ、バレた！」

　上杉は大げさに肩を竦めてみせた。
　放課後、南条と上杉は、担任の高見冴子にちょっとした手伝いを頼まれていたのだ。

「貴様の行動などお見通しだ！」
「えー、南条クンマジストーカー！　オレ様の危機！」
「バカな事をほざく暇に、とっとと来い！」

　首根っこを掴み引きずる勢いで、南条は手招きした。
　そして声の調子を変え、真物に向けて言う。

「済まんな見神、すぐに済ませるから、もう少しだけ待っていてくれ」
「うん、大丈夫」
「うわ～、何かミカチとオレ様の落差激しすぎ！」
「てか南条、オレは？」
「すまんな稲葉、以下同文だ」
「んだよそれ……」
「上杉、さっさとしろ！」
「はいはーいっと！」

　じゃあまた後でと手を上げ、上杉は小走りに駆けていった。
　しばし見送り、真物はまたスケッチブックに目を落とした。
　稲葉は、真物がいつものように描き上げた印の年月日を書き込むまで、ただ静かに隣に座っていた。
　そして、横目にさりげなくそれを見届けてから、口を開く。
「なあ見神、ちょっと…聞いていいか」
　稲葉にしてはもったいぶった言い回しに、真物はいくらかの覚悟を秘めて見やった。
　あの時さ、と稲葉が続ける。

「よく……撃たなかったな」

　真物は視線をよそへずらし、口を開いた。

「……皆が、引き止めてくれたお陰だよ」
「けど、決めたのは見神だし」
「理由は……色々あるんだ」

　俯いて考え込み、真物は荷物からもう一つのスケッチブックを取り出した。
　黒い表紙のそれに、稲葉は小さく目を見開いた。存在は知っているが、彼はこれを、人前で絶対に開かない。何度か、さりげなく隠された事がある。もちろん強引に見せろと食い込む気はないし、中身について詮索するつもりもない。
　どうしても見せられないものの一つや二つ、誰にだってある。自分にも。
　それを見せようとする真物に、いささか緊張する。

「あの時、僕が見たものを……見てもらっていいかな」

　稲葉は厳かに頷いた。

「ちょっと、他の人には見せられなくて……でも稲葉君も絵を描くから、分かると思う」

　真物は、心を決めるまでしばしためらった後、あるページを開いた。そして、これを、と男の死に際の顔を差し出す。

「！…」
「どう、見える？」
「こいつは……」

　真物の言わんとするところを受け取った稲葉は、驚愕の面で隣を見やった。
　真物は正面を見やった。驚く顔を視界の端に映し、ぽつりと言う。

「こんな風に見られたら、撃てないよね」

　まったく、困る…小さく笑う。

「これが本当でも、僕の単なる思い込みでも…どちらにしてもさ」

　まだ少し呆けている稲葉の手からスケッチブックを取り、しまう。

「こんな目をされたら……撃てない」

　どこか寂しそうに真物は言った。
　稲葉は何か云いかけて口を噤んだ。
　しばらくして、言いたい事がやっとまとまる。

「オマエは……見神はどうなんだよ」
「どう、って？」
「どう思ってるのかって事」
「憎いよ」

　唇を歪め、真物は即座に吐き捨てた。あの男が自分に何を与え、何を奪ったか…彼等に言えない分を眼差しに込めて、鋭くスケッチブックを刺す。

「これを描いてる間も、描き上げた時も、腹が立ってしょうがなかった」

　怒りを堪えて目を閉じ、でも、と苦く笑う。

「出来上がったのはあんなでさ。自分でも何だかよく……分かんないや」

　稲葉は真物の顔を見やり、目を落としてスケッチブックを見やり、少し考えて、言った。

「そりゃ……憎いよな。絶対許せない…分かる」

　稲葉の共感に感謝を込めて頷き、真物は小さな動作で見やった。
「そういう気持ちは、無理に抑えなくていいと思うぜ。あって当り前だと思うし」
「………」
「でもオマエは、撃たなかった。それも……それで、いいんじゃないか」
「……うん」

　考えて分からなければ感覚で受け取れと、稲葉らしい説き伏せに、真物はそうだねと笑った。

「ヘンな話しちゃって、ごめんね。聞いてくれてありがとう」
「いや、オレでよきゃいつでも、いくらでも聞くぜ」

　だから、何かあったら遠慮せず言えよと頼もしい笑顔に、真物はもう一度礼を言った。
　そこへ、賑やかに上杉と南条が現れる。

「お待たせミカチ！」
「待たせて済まんな、見神」
「ううん、ちょうど描き終わったから」
「だからオレはって……」

　無視するなよと、腰に手を当て呆れ顔になる稲葉に宥めるように笑いかけ、真物は荷物を肩にかけた。そして、二人の元へ行く間に口を開く。

「こんなもの描いちゃってさ……一生分呪われたなって感じだよね。でも、それもいいかなとも思ってるんだ」

　そう言って笑う真物を、稲葉は心底驚いた顔で見やった。

「い……いいのか？」
「うん、もう開き直る事にした。一生分かけて、答えを出していくよ」
「そっか……やっぱ、見神はすげぇな」
「ただのヤケクソだよ」
「なになに、何の話？」
「見神はすげえなって言ってたんだよ」
「ああ、そりゃもう！　だってミカチだし！」

　自分の事のように胸を張り、上杉は笑った。
　稲葉はそんなお調子者に呆れ笑いで真物を見やり、真物は、ありがとうと目配せした。

「さあでは皆さん、いざピースダイナーへ！」

　上杉は先頭に立って昇降口の扉を開いた。

「なんと南条クンのおごりで！」
「貴様…上杉！」
「ぼっちゃまがケチケチしないの、なんちて、でひゃひゃ！」
「その呼び方をするなと……！」
「きゃー、ミカチ助けて～」

　上杉が真物の背中に隠れる。
　稲葉がやれやれと肩を竦める。
　南条は怒り、真物は笑う。
　土曜日の午後は風もなく、日差しは穏やかだった。
　四人はひとかたまりになって、賑やかに言葉を交わしながら、のんびりと道を進んだ。