妄想03_4

　一週間ぶりに登校した真物は、以前にも増して人を寄せ付けまいと頑なに心を閉ざし、それまで一度も見せた事のない冷たい表情を浮かべるようになった。
　まるで凍り付いたような瞳が、そこにあった。
　皮肉にも、その冷たさが彼の美しさをよりいっそう引き立て、そこかしこで、彼の憂いある表情に惹かれた女子達がため息をつく。
　以前はまるでいない者のように見向きもしなかったのに、ただ上辺だけで判断する彼等の身勝手さに稲葉は腹立ちを覚えたが、それよりも真物自身が心配でならなかった。
　しかし、徹底して接触を避け言葉を拒まれてはそれ以上の干渉は望めず、離れた場所からただ見守るだけしかなかった。何とも歯痒くてならない。
　体育祭が間近に迫り、生徒達が活気付いてきている中たった一人だけ、影のようにひっそりと振る舞っているから尚更、美しさと冷たさが際立った。

　放課後、徐々に生徒達が帰って行く様をぼんやりと眺めている稲葉の隣に横向きで腰を下ろし、上杉は独り言のように話し始めた。

「ミカチ帰っちゃったね……」

　ＨＲが終わった途端教室を出て行った生徒に紛れて、真物も姿を消していた。

「………」
「なんかもう、声もかけられないってか…まさか妹さんまで……なんてねぇ」

　今それを喋るなと目で制し、稲葉はスプレー缶を一本取り出すと、意味もなくカラカラと振った。
　清さんが助かったという報せは、登校してすぐ彼の口から語られた。
　それはそれで、二人はほっと胸を撫で下ろした。
　けれど二人は、それ以外にも真物を襲った悲劇があった事を知っている。
　彼が休んで四日過ぎた放課後、担任の冴子が職員室に呼び出し理由を言って聞かせたのだ。
　特に親しい二人だからと、秘密厳守で。
　冴子が言って聞かせた話の内容は、二人にとって正に衝撃だった。

『……これは、とにかく私達三人と見神だけのものだからね。上杉、あんた普段お喋りだけど、言っていい事と悪い事の判断はつけられる人間だって信じてるよ。頼むね』

　真物が、万が一にも過ちを侵さないように注意してほしいと頼まれた。

「あんなひどい事言われて…その上そんな……」

　背もたれに肘を掛け、上杉はうなだれた。
　稲葉は舌打ちするように唇を歪め、もう一本スプレー缶を取り出すと今度はキャップを取って噴射口を確かめた。
　苛立ち紛れに忙しなく缶を振り、しまう。
　どうして、どうしてこんなにも彼ばかりが不幸な目に逢うのだろう
　稲葉はやるせなくなった。
　自分達の力でどうにかしてやれる事ではないだけに、腹立たしいほどの切なさが降り積もる。
　自分の事のように考えるにつけ、稲葉は混乱していった。

『母さんが死んだらアンタのせいだからね！』

　見神のせいじゃないだろ、そんなの！

　けれどそれが、母親が事故にあって気が動転しての暴言だったのだと、今思えば理解出来る。真物も、それに気付いているはずだ。しかし彼の性格は、それで気が楽になるほど無責任には出来ていないだろうし、彼が苦しむのはそれだけに止まらないのだ。
　自分で自分を責める苦しみは、どんなに辛いか自分には解らない。うまくすり抜けて、時に他人のせいにして過ごしてきた自分には。
　そんな自分に彼を励ます資格は何一つない。力になりたいと思う気持ちは嘘ではないのに。

「なんで…ミカチばっかあんな目に……」

　震える声で呟き、上杉はゆっくりと顔を上げ、薄曇りの空を見上げた。
　何か手助け出来ないものかと思い悩んでも、逃げてばっかりの自分に助言なんか出来るはずがない。
　たまらなく悔しかった。

　清が入院している病棟の五階でエレベーターを降りた真物は、そこで急に怖くなり、足を止めた。
　すぐ正面にはナースセンターがあり、そこへ行って持ってきた物を預ければいいだけなのだが、どうしても動けなかった。
　持ってきたのは見舞いの品。以前清が目をきらきらさせながら言った、大好物の和菓子。
　もし本人に制限があって今は食べられなくても、せめて家族の口に入ってくれれば…買った時は淡く思ったのだが、いざ渡す段階になって、自分はこんな事をしてはいけない人間なのだという気持ちが強く込み上げてきて、一歩も動けなくなってしまったのだ。
　由美の言葉が脳裏を過ぎり、胸を刺す。
　蘇る言葉がもう一つ。

「………」

　足元から冷えていく思いに震え上がり、真物はエレベーターに向き直った。

「あ、見神君！」

　帰る事を決意した時、背後から声をかけられぎくりとなる。
　由美の声だ。
　真物は身を固くした。

「見神君、この前はごめんね……ごめんなさい！」

　なじられるとばかり思っていた耳に、そんな言葉が飛び込む。
　真物はぎくしゃくと振り向いた。
　小走りに駆け寄って、由美は心底済まなそうに頭を下げた。

「この前は、気が動転してひどい事言っちゃって、私……本当にごめんなさいね」
「……いえ、そんな」

　真物は囁くように言った。許された嬉しさに胸が詰まる。目頭が熱くなる。

「母さん、足を骨折しただけで、他は何の異常もないの」

　足の骨折という不自由な怪我の度合いに胸を痛めるが、それ以外は何の異常もないという言葉にほっと胸を撫で下ろす。

「私も姉さんも母さんも、見神君の事、すごく心配しててね、だから、お見舞いに来てもらえて本当に嬉しい」
「！…」

　清が自分を心配しているという言葉を聞いた途端真物は、彼女の元気な顔を見たいという気持ちが猛烈に込み上げてくるのを感じた。

「僕の方こそ、ずっとお見舞いに来られなくて……」
「ううん、私があんなバカな事言ったのが悪いんだもの。本当に、ごめんなさい。来てくれてありがとう。母さん、病院て退屈なのねーって何度も零してたところだから、見神君の顔見たらきっと喜ぶわ」

　そう言って由美はにっこり笑った。
　そこで再び、一つの言葉が蘇る。
　途端に真物は息も出来ぬ程竦み上がる。すぐさま欲求を打ち消す。

「あの……」

　真物は、手に下げていた見舞いの品、ちいさな紙の手提げ袋に入った和菓子を差し出して言った。

「今日は、時間があまりなくて……これを預けに来ただけなんです」

　ナースステーションに預けて帰ろうと思っていたところだと、付け加える。

「ああ、そうなの……これ、母さんの大好物ね！」
「はい、前に清さん、これが好きだって言ってたから」
「そうなの！　もうね、会う人会う人に言うのよ。そして上手い事乗せて、買わせちゃうの。見神君も引っかかっちゃったわね」
「……そうみたいです」
「ありがとう、わざわざ買ってきてくれるなんて、母さんきっと喜ぶわ」
「また今度……ちゃんとお見舞いに来ます。本当にごめんなさい」

　そう嘘を吐き、真物は頭を下げた。
　いつでも来てねという由美にもう一度頭を下げ、やってきたエレベーターに乗り込む。
　笑顔で手を振り見送ってくれる彼女の顔が、まともに見られない。

　玄関の鍵を閉め、真物はキッチンに向かった。帰り道寄ったストアで買った食品を乱雑に取り出し、夕飯の支度に取りかかる。
　作れる物の範囲はまだまだ狭いが、ひと通りは清から習い、覚えた。
　彼女の作ってくれる味に慣れ、それ以外は食べても戻してしまう真物にとって、それはまさに……。
　覚えておいて本当に良かったと、まな板に向かいながら真物は思う。
　これで、何も食えずひもじい思いをする事はまず、ない。

（助かって本当に…良かった……）

　考えるだに恐ろしい紙一重の結果を免れた事に、真物は心から感謝した。
　けれど――

『まるで君が不幸を招いているようだ……』

「っ……！」

　何度となく甦る言葉が、またも耳の奥でこだまする。聞こえた途端胸がずきんと痛み、真物は苦悶の表情で目を閉じた。胸を押さえて何度も喘ぎ、じっと耐える。零れそうになる涙を必死に噛み殺す。

　不幸を招く

　そうかもしれない。
　だから霧子は自殺を図った。
　だから清さんは事故にあった。
　次は、もしや……？
　二人の顔が思い浮かぶ。
　離れよう。
　自分が傍に居なければ安全かもしれない。
　それくらいしか思い付かないから、そう心に決めて、彼等の言葉を拒絶した。
　優しさも思いやりも、全部踏みにじるようなやり方しか出来ない無力な自分が心底憎かった。
　けれどもうどうでもいい。
　今度こそ、いない者のように振る舞おう。
　今更…けれどそれで不幸を招かずに済むなら、いい。

　――奴に従うというのか？
（違う…僕はただ守りたいだけだ）
　――ならそんな風にしてはいけない
（……守りたいんだ）
　――でもそれは……

　川底からの声を無視する。
　間違った方法なのは解っている。けれど、それでも……彼等を守れるなら、自分はそれでいい。
　疲れ果て、休息を欲しがる心から目を背け、真物は歩き続けようとする。
　玄関の扉が、音もなく開かれる。そこに姿を現した翳のような人物の誘い…惨めな気分にさせられるだけの行為を、真物は恐怖と絶望もろとも受け入れた。

　――そんな…それだけは駄目だ！

　引き止める叫びが虚しく響く。
　強い光を宿した瞳が、闇に沈み弱っていく。
　這い寄る混沌はにやりと嗤った。