ⅲ-4
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「よお見神、今帰りか？」 稲葉にそう声をかけられ、真物はぎくりとなった。 その驚きと気まずさは、いつもと種類が違っていた。 それは、照れのような奇妙な感覚。 何故なら、隣に家政婦の清がいるからだ。 彼女とは、通りの向こうにある精肉店で偶然出くわした。店を通り過ぎでわずかもしないところで、背後から声をかけられた。 あら、真物さん、と。 しかし突然の呼びかけでも、怖さはなかった。どんなに不意をつかれても、彼女の声にだけは怯えを感じない。 あの男の部屋で、散々惨めな思いをした分、心がほぐれる。 「えっと、ミカチ……」 上杉が、目線と曖昧な指先で清を指す。 真物は幾分戸惑いながら、二人に紹介した。「佐久原清です、よろしく」と笑顔で会釈する彼女を見ていて、またあの奇妙な感覚を味わう。こんな感情は、久しくなかったものだ。 それはまるで…… 「そうだ、もし良かったら、夕食ご一緒にどうかしら？」 思わぬ誘いに、稲葉と上杉は揃って顔を見合わせた。 「あ、はい、あの…今度空いてる時に、あの……」 「そう、いつでも遊びに来てくださいね」 「あ、ハイ」 妙に畏まって応える上杉に、稲葉は思わず吹き出しそうになった。口に出して言ってやろうかと思ったが、さすがにそんな意地悪は気が引けた。 清が二人と言葉を交わす間、真物は自分の内に生じたこの感覚が何なのか突き止めようと考えを巡らせた。けれど結局解らずじまいで、仕方なく諦める。 ところが、もう一軒別の店に寄るからそこまで一緒に行きましょうと清の提案で四人で歩き出した途端、何の前触れもなく頭の中に真実が降って湧いた。 世界を恐怖と絶望に塗り替えたあの男の残酷な眼差しのせいで、物の見方が変わってしまった自分にとって、絶対の守りは親にこそあった。しかしすでにその存在はこの世にない。 憎しみの胤を残して死んでしまった。 それ以後、全ての苦痛を親への憎しみにすりかえて（今となってはもうそれにも疲れてしまったけれど）生きてきたのに、今突然に行き着いた真実は余りにも受け入れ難いものだった。 彼女を自分の親と重ね合わせて見ていたなんて事―― でも間違いない。 そうでなければ、彼女にだけ気を許せる自分の説明がつかない。 驚きはしたが、それほど衝撃的な事でもないのはつまり……本当は親を、信じているから？ （そんなの嘘だ……いや、本当はそうかもしれない……） ただ自分が信じ抜くしかない、余りにも脆い真実だった。 けれどはっきり向かい合った今、まるで始めからなかったかのように親への憎しみは跡形もなく消え去ってゆく。 心の中で、何か流れが変わろうとしていた。 『変えさせるものか』 「じゃあここで失礼しますね」 |