ⅲ-1
土曜日
| 恐らくは彼等なりの決め事を作って―例えば必要以上に詮索しない―行動するようにしていたのだろう。 火曜日の朝、真物は足取り重く学校に向かった。 どうしても顔を合わせ辛く、けれど礼は伝っておかなければと苦悩するまでもなく、彼等の方から今までと変りなく（条件を守り）気さくに声をかけてきた。 とても心配そうに。 その途端どうしようもなく涙が溢れそうになった。 彼等が背中の傷をどういう形で納得したのか気がかりだったが、その日から少し行動を変化させた稲葉の様子を見る限りは、どうやら真実とは程遠い推測を抱いているようだった。 けれど彼の推測はあるいは紙一重かもしれない。 そして最も気がかりなのは、神取の名を口にした時の南条の表情。まるで憎んでいるかのような激しさが込められていた。 もしかしたら彼が真っ先に真実に辿り着くのかもしれない。 時折稲葉と言葉を交わす南条を見るにつけ、その思いは深まってゆく。 |
| 午後、真物は中庭に向かった。 静かな空間で一人、スケッチブックを開く。 その様子を、上杉は教室の窓から静かに見下ろしていた。既に帰った生徒の椅子を窓に寄せ、もたれるかかるかたちで。 上杉が借りた席の一つ前には、稲葉が座っていた。 教室にはまだ幾人かの生徒が残り、この後どこへ行こうか、何をしようか、賑やかに言葉を交わしている。 そのざわめきを聞き流しながら、上杉はじっと真物に視線を注いでいた。 「ねー稲葉に上杉ぃ、あんたらもカラオケ行くでしょ？」 「ごめんちゃい、今日はオレ様パス一で」 「オレもいいわ」 綾瀬からの誘いに振り返り、上杉は片手で謝った。 稲葉は上げた手を軽く振った。 「えー、稲葉はともかく、上杉断るとかめっずらしー。じゃあまた今度ねー」 「オレ様の分まで楽しんできてちょーだいね！」 教室を出ていく綾瀬に笑顔で手を振る。そして姿が見えなくなると同時に肩を落とし、また地上に目を戻す。 火曜日から今日まで、正確に言えば背中の傷を見た日から今日まで、彼はひどく怯え、今まで以上に人の視線や声を怖がった。 分かる。 何があったかと聞かれるのが怖いのだ。 よく分かる。 だから自分も、見た者は誰も口に出さないが、それが返って恐怖を煽る。 痛い程よく、分かる。 ああ、くそ 上杉は苛々と床を蹴った。 「ミカチ……誘ったらさ、ピーダイ一緒に行ってくれるかなあ……」 独り言のような上杉の問いかけに、稲葉は軽く首を傾けた。 「霧ちゃん…妹さんの見舞いに行くから、今日は誘っても無理だろうな」 「だよね……」 言葉に上杉は、真物の部屋で見た写真を思い浮かべた。 真物の隣に並んだ、髪の長い女の子。兄と腕を組み、雄大な富士を背にはつらつとした笑顔でピースサインを掲げていた。目の奥が少し熱くなり、 胸がひどく痛くなった。 彼女が、両親の葬儀の夜、事故にあったという事は、真物の口から聞かされていた。それから現在まで、ずっと入院中だという事も。 屋上での昼食に加わる事で、少し警戒心が解かれたのだろう。ほんの僅かとはいえ距離が縮まった事は―話が話だけに本人には申し訳ないが―嬉しかった。 それでもまだまだ稲葉ほど近くはなく、自分自身の壁もあいまって、遠いのが、悔しいのだが。 「じゃさ、今度空いてる日に行こうって言ったら、どうかな」 「うーん……見神、そういうのあんま好まないみたいだけど、オマエが誘えば行くかもな」 「へ？ なんでぇっ？」 思いもよらぬ稲葉の言葉に、上杉は素っ頓狂な声を上げた。 「なんだオマエ、その声、ハハハ！」 「っ！ ……ごほん。なんで？」 「だってこの前、見神のピアス見付けてやったろ？ あれで大分オマエの事見直しただろうし。見神笑ったの見たの、ホント久しぶりだしさ」 「そんな事……」 「ま、とにかく、誘うだけ誘ってみろよ。あんま、強制にならないように気を付けりゃいいだけだよ」 「うん……」 「オレらがさ……」 それまでとは幾分沈んだ声音で、稲葉が呟く。 上杉は目を瞬いた。 「見神の背中の傷見ちまってから、ずっと……元気ねぇからな」 「……うん」 「んだからさ、オマエのその『バカ』で、元気づけてやれよ」 「……バカはないだろぉ、ひでぇよ」 少しかすれた声で笑い、上杉は抗議する。口ではそう言いつつ、託された嬉しさに心を震わす。 約束だけでも取り付けておこうと、上杉は立ち上がった。 稲葉を伴い中庭に向かうと、丁度出てくる真物と鉢合わせになった。 「あ…ねえねえミカチ――」 声をかけてから、上杉はしまったと内心舌打ちした。 中庭を出たという事は、霧子の見舞いに行こうとしているという事。きっと、一秒でも早く向かいたいに違いない。それを邪魔してしまった事に、声をかけてから気付く。 呼びかけ、不自然に言葉を詰まらせた上杉に、真物は視線を強張らせた。もしや、ついに背中の傷に言及されるのかと、首筋の冷える思いを味わう。 この一週間、ずっとそれを恐れていた。身震いを堪え、何か言うのを待つ。 杞憂に終わる。 よかったら来週の空いている日にでも、一緒にピースダイナーに寄らないかという誘いの言葉を耳にし、真物は、過剰に強張らせていた肩から力を抜いた。彼等はそういう人達だったと、己を恥じる。 「なんとマークのおごりで！」 「おい、ちょ…上杉！ あんま調子乗ってっとゴーグルにシリ描くぞ！」 「いや～ん、まーくんこわーい！」 「まーくん言うなっ！」 「きゃー、ミカチ助けて～」 ぽんぽん小気味よく言い合う二人の様子に、真物は小さく笑った。同時に胸が重くなる。 こんなに優しい人達の誘いを断らなければいけないのかと思うと、たまらなく切なかった。 何の為に苦しんでいるのか、もうほとんど解らなくなっているのに。 |
| ジョイ通りにあるファーストフード店ピースダイナーに、稲葉と上杉が訪れてから、小一時間が経とうとしていた。 その間話していたのは主に上杉で、主に他愛のない内容ばかりで、それに稲葉が合わせて相槌を打ち、たまに笑って、たまに険悪になって、時間は過ぎた。 そして何度目かの大笑いの後、上杉ははあとため息をついた。 「……んで？ 本題は？」 これまでの付き合いで心得た稲葉が、さり気なく促す。 心遣いに泣きそうに笑って、上杉はしばし口を噤んだ。 「あー……マークさ、オレ様が加わる前は、ミカチとどんな話してたの？」 「あーん？ まあ主に、絵の事だな」 「……ああ、共通の趣味だっけ」 「最近何描いてるーとか、どんな画材買ったーとかな」 その一点に関しては特別思い入れのある稲葉は、真物の絵のどこに惹かれたか、どういうところが目を引くか、熱く語り始めた。 「とにかく、あの世界は惚れるね。すっげぇソウル感じんだよ」 長々と説明を続け、稲葉はそこで一旦言葉を切った。 「って、なんだよその顔……」 「いや…マークの説明すっごい分かりやすかったから、意外だなーと思って……」 感心した顔で上杉は言った。途中聞きなれない言葉がいくつも出てきたが、その都度稲葉は「これはこういうものだ」「これはこうするものだ」と端的に付け加え、説明を続けた。それは非常に分かりやすく、すっと頭に入ってきた。 「んだよ、悪かったな他がバカでよ」 「そんな事ないよ！ ホント、すっごく面白かった。まーくんすごいっす」 「……やめろって」 照れながらも、稲葉は満更でもない顔をしてみせた。それだけ真物の描く絵が好きなのだと付け加える。 「んで、本題は？」 いい加減話せと、稲葉が促す。 上杉がようやく言いたい事に触れたのは、それからまた小一時間ほど無駄話をした後だった。 「あの……こないださ、月曜日の日……ミカチの家で、南条がヤな聞き方したじゃん……」 上杉は、手にしたジュースのカップを右に左に傾けながら、ぽつりぽつりと言った。 稲葉はあえて何も言わない事で先を促した。 「あれさぁ、ホントはさ…オレも止めに入りたかったんだよ……」 でも意気地無しでさ がっかりすると肩を落とし、上杉はいびつに笑った。 「じゃあ、次、やれよ」 「………」 「グズグズ言ったら、後はやるだけだろ」 「ああ……うん」 上杉は何度も頷いた。 単純で、乱暴で、沁み込んでくる励ましに束の間目を閉じる。 「うん……」 それからしばし押し黙る。 そして唐突に稲葉を見やり、立ち上がる。 「マーク、カジノ行こう、カジノ！」 「へ…？ オレ今、あんま金ねえし……」 「オゴるオゴる。さ、行こ！」 言うが早いか上杉は荷物を引っ掴むと、戸惑う稲葉も気にせず歩き出した。 何をやっても、これっぽっちも上手くいかないみっともない自分から逃げるように早足で。 |