＊

　今日、珍しく父の帰りが早かった。といってももうすぐ日付が変わりそうだが、自分たちが起きている時間に帰ってくる事は滅多にない父としては、早い帰宅だった。
　随分疲れた顔をしていた。
　仕事が忙しいのだろうと思い、邪魔にならないようさり気なく霧子に声をかけ連れ立って二階に上がった。
　それぞれの部屋に戻り三十分ほど過ぎた頃、突然階下で母が何か叫んだのを耳にした。
　何を言っているのかは分からない。けれど、悲鳴のようにも聞こえる母の怒鳴り声はそれから何十分も続き、しまいには泣き声に変わった。
　二人が言い争いをするなど、今まで一度もなかった事だ。

　恐らく始めて耳にする母の激昂した声に、いいようのない不安が生じる。
　そこで唐突に電話が鳴り響いた。
　深夜とも呼べる時間に。

　じっと耳をそばだて、階下の様子をうかがう。
　長い事話していたのか、すぐに済んだのか、電話が鳴り響いた直後から母の声はぴたりと止み、不吉な沈黙が続いた。
　やがて足音を忍ばせて、二人が玄関から外へ……鍵を閉める音。
　数分の後――誰かが部屋の扉をノックした。
　扉を開けると、今にも泣き出しそうなほど怯えきった瞳で霧子が立っていた。

　翌朝、日の出を待ちかねたように、また一本の電話が鳴り響いた。

　薄暗い部屋に案内され、二人の遺体の前で足を止める。
　顔にかけられた白い布が取り払われる。思わず吐き気がこみ上げた。咄嗟に手で押さえたが、間に合わず指の合間から吐瀉物が床に零れ落ちた。

　遺体は両親に間違いなかった。

　霧子を連れてこなくて正解だったと、頭の片隅で思う。

＊

「上杉、まずそこ開けてくれ」

　気を失った真物を抱きかかえ、稲葉は玄関からすぐの扉を顎で示した。
　真物がこのマンションの三階に住んでいる事は知っていたが、中に入った事はない。
　玄関からまっすぐ続く廊下の突き当たりがリビングなのは分かったが、その途中にいくつもある扉のどれが、真物の部屋なのか。
　そこで稲葉はまず一つ目のドアから当たった。

「マーク、ここそうだよね」

　内開きの扉を腕で押し開け、中を覗き込んだ上杉は、真っ先に目に入った机の上のスケッチブックに、そう確信した。

「よし、じゃ上杉、今度はベッドの毛布よけてくれ」
「オッケー」

　心の中でおじゃましますと告げて中に入り、上杉は壁に寄せられたベッドの毛布をめくった。そして、稲葉と一緒に真物の身体を寝かせる。
　その様子を戸口から見ていた南条は、気遣わしげに言った。

「おい、救急車を呼ばなくて、いいのか」
「ああ、いつもの貧血だと思う。多分、家についてホッとしたんだろな。ちょっと熱があるけど……」

　そこで稲葉は、真物が言っていた薬の事を思い出し、心の中で詫びつつ彼の鞄を探った。すぐに、白い小袋が見つかる。

「上杉、オレは着替え見るから、オマエこれちょっと見てくんねえ？」
「あ、うん」
「なんだって？」
「えっとねー……」

　受け取った上杉は、二種類の錠剤と一緒に入っていた紙片を取り出し、読み上げた。

「えっとー、傷の化膿止めと、胃の薬……？」
「傷？　なに？」

　襟元のホックを外していた手を止め、稲葉は紙片を掴んだ。

「ホントだ……でも怪我したなんて、聞いてねぇぜ」

　白い顔でベッドに横たわる真物を一瞥し、稲葉はニットキャップ越しに頭をかいた。それから南条に目を上げる。

「……まいいや。南条、悪いけどコップに水汲んできてくれよ。出て突き当たりのとこな」
「分かった。ところで、保護者に連絡を入れておいた方がいいと思うのだが」
「ああ、そーいやそうだな」
「マーク、知ってんの？」
「知らね。けど探しゃどっかに書いてあんじゃねぇか？　電話んトコとか。その前に着替えさせてやろーぜ。制服のままじゃいくらなんでも苦しいしな」
「貴様にしては随分手際がいいな」

　水を汲みに行きがてら、素直に感心して南条が感想を漏らした。

「うるせーよ」

　照れ隠しにぶっきらぼうに言い返す。簡単な介抱の仕方くらいは、真物と付き合う内に自然と頭に入っていた。それだけ多く保健室に出入りしている証拠で、これで感心されても正直あまり嬉しくない事なのだが。
　シャツを脱がせた時点でひどく汗をかいている事に気付いた稲葉は、下着も替えた方がいいだろうと判断し、上杉に声をかけた。
　上杉は返事をしなかった。
　聞こえていなかった。
　あまり本の詰まっていない書棚の二段目に置かれた、家族四人の笑顔の写真に、心を奪われていたからだ。
　目の奥が、熱く、痛くなる。
　こんな風に笑える人間だったのかと、激しいショックを受ける。それはそのまま涙となって眦に滲んだ。
　真物と、妹の霧子の後ろで笑っている二人に、上杉は恨みがましい視線をぶつける。
　なんで、自殺なんてしたんだよ、と。
　あんたらのせいで、彼は人間不信に陥った。
　勝手な推測に過ぎないが、徹底して他人を遠ざけ、人を信じない時期が自分にもあったから、何となくでも分かる。
　けれど彼は、他人と接する事をやめないでいる。
　警戒心をむき出しにし、時に卑屈な態度を取る事もあるが、何とかして思い留まろうとしている。
　少なくとも自分にはそう見える。
　自分も同じだ。
　本当には、独りぼっちになりたくないから。
　だから自分は――。

「上杉、おいって！」
「え…はい！」

　はっとなって振り返る。

「だから、着替えさせるの手伝ってくれって」
「ああ、はいはい」

　そこのチェストから何でもいいからシャツを出せと指示され、上杉は慌てて向かった。
　稲葉は正面から真物を抱き起こして自分にもたれされると、シャツを脱がし、急かすように手を伸ばした。
「悪い悪い、はいこれ――！」
　適当なものを探し出し、渡そうと顔を上げた直後、上杉はそこに信じ難い光景を目にした。

＊

　何もかもめちゃくちゃだった。
　あの電話は誰から？
　母は何故怒鳴り、父は何をしたんだ？
　何故二人は置き去りにされたの？
　どうして、自殺なんか……
　霧子はすっかり錯乱して、外に飛び出したところを車にはねられてしまった。
　立て続けに起こる事はないだろう？
　僕が一体何をしたというの――

　少なくとも、生きていけるだけの援助を受ける代りの、という事だけは理解出来る。
　けれど納得出来ない。
　そんなに僕の罪は重いのか？
　他の誰も助けてくれないから誰かの助けがないと一人で生きて行くには未熟だからなのに頼れる人はみな目を逸らしてそんなにどうでもいい存在だった何故……
　もうやめてくれ――

＊

「なにコレ……」

　上杉は声を震わせ、恐る恐る真物の背中に顔を近付けた。
　そこには、痛々しいふた筋の傷が縦横に走っていた。
　普通に生活していたのではまずありえない傷跡。
　真物の肩越しに見下ろし、稲葉は絶句する。
　南条はコップを机に置くと、眉をひそめた。

「……故意につけられたものと考えて、まず間違いないだろう。鞭のような細いもの…か？」

　その言葉を聞いて、上杉はぞっとなった。

　まさかミカチ……

「ひでぇ。どういう事だよ……！」

　南条の推測に腹を立て、稲葉は顔をしかめた。

「他にいくつか引っ掻き傷も見られるが、これは自分でやったものか？　いやあるいは……」
「ねえ……それってさぁ」

　南条の言葉を引き継ぎ、上杉はぼそりと漏らした。

　イジメなの？

「……その可能性は高いな」

　南条がため息まじりに頷く。

「んなバカな！　ほとんどいつも見神といっしょにいるけど、そんなトコ今まで一度も目にした事ないぜ？」

　真物の身体に障らぬよう声を抑え、稲葉は首を振った。

「学校の中でとは限らんし、他校の生徒かもしれん。あるいは…いや、これはいくらなんでもありえんだろうが……」
「なんだよ？」

　途中で言いかけて止める南条を睨み付け、稲葉は答えを強要した。
　思いがけず大きな声を出してしまっていた。
　それが真物の意識を呼び覚ます。

「う……」

　小さく呻いて、真物はうっすらと目を開いた。

「あ、わりぃ見神！」

　下着も着せていないのを思い出し、稲葉は慌てて服を着せた。
　その時――

　かんどり……

　辛うじて聞こえるほどかすかな声で、真物は唇を震わせた。

「……なに？」

　南条は我が耳を疑った。

「おい見神、何故貴様があの男の名前を？」

　半ば意識のない真物の肩を揺すり、南条は問い質した。

「お、おいおい南条？」

　異様な迫力に圧されて呆気に取られた稲葉だが、すぐに気を取り直して南条の手を振り払った。

「やめろって。相手は病人なんだぜ？」
「い…いなばくん……？」
「お、大丈夫か見神」

　しきりに瞬きを繰り返し、苦しそうに息をつく真物の肩を支え、稲葉は様子を見守った。

「ちょうどいい、見神。貴様に聞きたい事がある」
「……え」

　虚ろな眼差しで真物は目を上げた。

「ちょ、よせって南条」
「すぐに済む。貴様は黙っていろ稲葉」

　腕で真物をかばう稲葉と、冷たい目で見下ろす南条との睨み合いに、上杉は何とも声をかけられずただおろおろと成り行きを見守った。

「貴様、神取とはどういう関係なんだ？」
「！…」

　ほとんど表情は変わらなかったが、ひどく怯えているのは誰の目にも明らかだった。
　言葉に詰まり、真物はただじっと南条を凝視していた。

「どういうって、知らね――」
「貴様には聞いていない」

　代りに答えようとする稲葉が何を言おうというのかわからず、真物はぎょっとなった。
　南条は更に続けた。

「それからもう一つ。貴様のその背中の傷は、一体誰につけられたものだ？」
「あ……」

　答えられるはずがなかった。顔を上げたまま、真物は自分が寝巻を着ている事を指先で感じ取る、稲葉が着替えさせてくれたものだろう。
　その時に見られたのだ。
　この高熱の原因になった傷跡を。
　真物は瞬きも出来ぬ程竦み上がった。

「いい加減にしろよ南条？　それじゃオマエ、ただの苛めだぜ」

　稲葉はベッドから下り、真物の前に立ちふさがると、押し殺した声で凄味を利かせた。
　その通りだ、と上杉は心の中で叫んだ。
　自分が言えない事をたやすくやってのける稲葉が、羨ましくてならなかった。と同時に、今もって克服出来ていないいじけた心に更に慙愧の念が降り注ぐ。

「む……済まん」

　思うところがあるのか、南条はさっきまでの勢いが嘘のように声を抑え、素直に非を詫びた。
　その時、音もなく玄関の扉を開き一人の男が入ってきた事に、誰も気付かなかった。

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