妄想02_3

「見神、メシ食わないのか？」

　昼食の時間になり、皆それぞれに机を寄せたり学食に買いに行ったりと動き始め賑やかな中、何も持たず教室を出て行こうとする真物を気にして、稲葉がさり気なく声をかけた。

「あ…今日は持ってきてないから、何か買いに行こうかと……」

　返ってきた声のあまりの弱々しさに、稲葉は「無事辿り着けるのか？」と思わずにはいられなかった。
　彼の受け答えはいつも小声で、遠慮がちに返ってくるのだが、今日は特にそれがひどかった。
　見かねて、稲葉は同行する事を申し出た。
　すると案の定、

「大丈夫、先に食べててよ」

　と返ってきたが、とてもそうは見えない。大体、昼間の学食は戦場みたいなもので、自分や上杉でさえ一つ買うのに四苦八苦するというのに、今の真物がいったら…考えただけで血の気が引く。

「いいから遠慮すんな」

　こういう時は強引にでもうんと言わせないと、いつまでも遠慮するばかりで先に進まない。

「ごめん…ありがとう」
「あ、じゃオレ様代わりに行ってくるから、ミカチここで待ってればいいじゃん」

　それまで、傍に立って二人のやりとりを黙って見ていた上杉が、唐突に口を挟んできた。

「え……」
「何がいい？」

　真物が何か言うより早く、上杉はそう聞いた。
　稲葉が、少し驚いた顔で上杉をまじまじと見つめる。
　戸惑い、口を噤んだ真物の態度を気にする事もなく、上杉はいくつか候補を挙げて半ば強引に選ばせた。

「それでいい？　んじゃ決まりね」

　良いとも悪いとも答える間もなく、稲葉を引っ張って上杉は行ってしまった。
　困惑の表情で席につき、真物は小さく俯いた。
　謎だった。
　上杉は自分を嫌っているはずなのに。
　初対面の時、ほんの一瞬、嫌悪の表情が浮かんだのを見た。大概の人間は、自分の態度に似たような反応を示した。そうでない者もいたがそれは極少数で、自分でも、きっと嫌悪するに違いない。無差別に警戒し、拒絶する態度を取るような人間は。
　だから、昨日まで自分をいない者として扱い極力関わらないようにしてきた上杉の、突然の申し出は謎としかいいようがなかった。
　騒々しい教室の中、居心地の悪さを感じながら、真物は二人が戻ってくるまでぼんやりと窓の外を眺め待つ事にした。

「なあオマエ、今日頭あっつくねぇ？」

　階段の踊り場で、先を行く上杉にそう声をかける。

「なーんで？」

　振り返った上杉は、きょとんとした顔でそう言い返した。
　それが演技だということは、稲葉にはすぐ解った。

「ったく、シラジラしいコト言ってんじゃねぇよ。大体オマエ、見神嫌いとか言ってただろ」
「言ったよ。今でもキライだよ、ああいうの。見てるとなんかイライラするし」

　かつての自分と重なる部分が多すぎて癇に障る。

「そういう言い方すんなって」
「マークだってさ、イライラしない？　いっつもなんかおどおどしちゃってさぁ、オレ様？　オレ様が悪いの？　オレ様なんにもしてないじゃんって言いたくなんない？」

　なんで今更、昔の自分に逢わなきゃいけないんだ。

「じゃあ無視してりゃいいだろ。無理に声かけることねぇじゃん、嫌いだってんならさ」

　放っとかれるのは嫌だ。

「自分から声かけといて、そりゃねぇだろ上杉」

　だから、人を放っとくのも嫌なんだ。

「別に見神はさ、オマエが嫌いだからああいう態度取ってるわけじゃねえんだし、そーいうの解ってやれない？」
「んなコト……」
「解ってやれないってんならさぁ、今後一切見神に関わるなよ。嫌な気分になるだけ、オマエが損じゃん」

　言い返そうと口を開くが、何も言えず俯く。

「見神だって、なりたくてああなったわけじゃないんだぜ？」

　歩き出した稲葉の腕を掴み、上杉はためらいながら問い掛けた。

「理由とか、知ってるの……？」

　振り払おうとした矢先の上杉の言葉に、稲葉ははっとなって目を逸らした。
　知ってはいるが、人にべらべらと言いふらすような内容ではないだけに、稲葉は答えるべきか迷った。
　見神の立場になって考えた場合、こういう事は余り人に知られたくない内容ではないだろうか。
　もし仮に言ったとして、上杉の見神に対する考え方が変わる、というなら、言った方がむしろ見神の為になる……？
　誤解も解けて？
　物事を順序立てて考えるのは苦手な作業だったが、稲葉はどうすれば見神にとって一番良いか、そこに重点を置き懸命に答えを探した。
　上杉はお喋りだが、言っていい内容とそうでない内容との判断が付けられないほど愚かではない。
　散々迷った挙げ句、稲葉は正直に告げた。

「中学ン時……親御さんが自殺したんだよ」

　唖然とする上杉が目の端に映る。

「好きな絵も描かなくなって…最近になってやっと、普通に喋るようになったし、絵も描き始めたみたいだけど、当時は――そんなわけだから、見神の事あんま悪く言うの、やめてやれな」

　目を逸らしたまま上杉の肩を軽く叩き、稲葉はその場から立ち去った。
　一人残された上杉は、後悔してもし足りない自分の浅はかさに、思わず悔し涙を浮かべた。
　行き交う生徒が怪訝そうに振り返る。
　上杉は俯いたまま、屋上目指して階段を駆け上がった。

　数人の女子が輪になってバレーボールをしている様を、上杉はぼんやりと眺めていた。
　初夏の日差しは意外に強烈で、誰にも逢わないようにと日陰にしゃがみ込んでいても、汗ばむほどだった。けれど心の中は裏腹に、重苦しく冷え切っていた。
　上杉は鼻をすすった。
　稲葉に言われるまで、全く気付いていなかった。
　あれほど、あれほど自分が嫌っていた行為を、同じ事を、自分がしていたなんて
　死にたくなるくらい嫌だったのに。
　思うだけだって許されない事だ。
　いくら理由を知らなかったからって、自分は……

（信じらんない。サイテーじゃん）

　相手の外見だけで判断して、ただ気に入らないからという理由でその人間を貶めた。
　かつて自分に最低の行為を働いた人種と、何ら変わりないではないか。
　途方に暮れて、上杉は空を仰ぎ見た。
　空は憎らしいほど青く澄み渡り、雲一つない。
　今まで見神にしてきた事を思い出す度に、自分が嫌になっていく。

（そりゃあさ、直接なんかイヤガラセした覚えはないけど……）

　口調は、明らかに相手を見下していた。目付きや態度にも、きっと表れていたはず…見神は、きっと気付いていたはずだ。

　嫌っていた、という事を。

　イジメられてた頃の自分を見せられてるみたいでイライラする。
　こっちは別に何もしてないのに、なんでそんな目で見るのさ。
　いいよ、別に理由は聞かないから。自分はね、どんな性格の人間とも仲良くできるし、差別とかゼッタイしないよ。
　相手によって話し方変えたりとかもしない。
　だって、そんな事されたらどんなに傷付くか自分が一番よく知ってるから。

「うそだ……」

　どんな理由もただのこじつけでしかなくて、結局は自分の事しか考えていなかったんだ。
　散々、辛さ苦しさを味わったはずなのに、人を思いやるどころか――！
　醜い自分を隠すように、上杉は両手で顔を覆った。
　もう、どうしていいか…行動を改めるとかそんな考えにすら辿り着かないほど、混乱していた。
　いや、何も考えられなかった。混乱すら通り越して頭は真っ白にぼやけ、目は、ただ風景を映しているだけ。
　空腹さえも忘れた。思考も停止して、ただ息をしている状態のまま、上杉はずっと座っていた。
　少し経って、唐突に上杉は我に返った。
　遠くに、真物の姿を見たからだ。稲葉の後について日向に移動し、食事を始める彼の姿を目にし、やおら立ち上がる。衝動だった。何するでもなく、ただ立ってじっと食い入るように真物を見つめる。
　やがて、真物の方に向かって歩き出す。何か言うとか、そんな事は思い付きもしなくて、ただ、彼に何か働きかけがしたかった。何でもいい。自分の気持ちのままに。
　何度もためらいが起こり、その度に上杉は足を止めた。だが、引き返す事はしなかった。
　これ以上臆病者にはなりたくない、浮かんだその思いをただ繰り返し、一歩一歩真物に近付く。
　初めに、稲葉が気付いた。
　少し驚いた、問い掛けるような眼差しから上杉は目を逸らした。
　聞かれても答えられない。
　その直後、後方で短い叫びが上がり、反射的に上杉は振り返った。落ちてくるバレーボールを目にし、咄嗟に手で頭を庇う。
　女子の一人が受け損ねたバレーボールは上杉の足元で跳ね、前方のフェンスにぶつかった。
　真物の耳をかすめて。

「大丈夫か見神」

　稲葉の声に上杉は目を開いた。見ると、左耳を押さえ俯く真物の姿が目に入る。

「ごめんなさい、大丈夫ですか？」

　慌てて駆け寄る数人の女子に一瞥をくれ、稲葉はもう一度真物に問い掛けた。
　しかし真物は、誰の声も聞こえない様子で背後を振り返り、何かを探すように辺りを見回している。

「どした？」

　呆然とした表情で視線を漂わせる真物を心配して、稲葉は聞いた。

「ピアスが……」

　かすれた声で呟きを漏らし、真物は自分の左耳に手をやった。
　真物の耳から血が流れているのを目にした稲葉は、そこでやっと事情を飲み込んだ。
　ボールが耳をかすめた時、ピアスが外れどこかへ飛んでしまったのだ。

「落ちた、のか？」

　稲葉は思わずそう口走った。その可能性は高い。
　辺りには見つからない。
　稲葉の言葉に、真物は即座に立ち上がりフェンスに足をかけた。

「なっ……！　ちょっと待て！」

　驚いて稲葉は腕を掴んだ。
　驚いたのは、上杉も同じだった。咄嗟に真物の制服を掴み引き止める。

「お、落ち着いてミカチ！」

　思いもよらぬ真物の行動に、やや興奮気味に声をかける。しかし真物は聞き入れず、制服の裾をつかむ上杉の腕に手をかけた。
　離せという意思表示かと思いどきっとなったが、どうやらそうではないようだ。ただ強い力で手首を握るだけの真物に、上杉は恐る恐る顔を見上げた。
　まっすぐ地上を見下ろす、真物の切なげな瞳が目に飛び込んだ。どれほど大事なものだったか思い知る…あまりに痛々しい眼差しが、上杉の胸を突き刺した。
　と、不意に真物の足がずるりと滑り、力を失った身体が上杉にもたれかかった。
　遠巻きに様子を見守っていた女子の間から、短い悲鳴が上がる。

「ミカチ……？」

　驚き、よろけながらも真物を支え、上杉は呼びかけた。

「おい、見神？」

　稲葉が顔を覗き込む。半ば意識を失った蒼白の面に、貧血を起こしたものと推測した稲葉は、軽く頬を叩きながらもう一度呼びかけた。

「だめだ。上杉、保健室へ連れて行こう。オマエ担げるか？」
「え、うん……」

　内心うろたえながらも、上杉は慎重に真物の身体を横たえ、稲葉の助けを借りながら背負った。

（え……なにこれ）

　背中に伝わる感触に、上杉は驚きを隠せなかった。
　痩せ細った身体は布越しでもはっきり感じられ、とても同学年とは思えないほど軽い。それも異常に。

「大丈夫か？」
「あ、オレは平気……」

　思わず振り返って真物の顔を覗き込む。完全に意識を失っているようだ。それなのに、まるで小学生でも背負っているような錯覚を覚える。
　何度も詫びる女子と二言三言言葉を交わし、稲葉は真物の身体がずり落ちないよう背中に手を当てると上杉を促して歩き出した。
　耳元で、呼吸する真物の微かな息遣いが聞こえる。心なしか、真物に掴まれた部分が熱く感じられた。

（目を覚ましたら、とにかく謝ろう……）

　そう心に決めて、上杉は保健室へと向かった。

「あれ、っかしいな…戸空いてるのに。まあいいや、とりあえずそこのベッドに寝かせようぜ」

　無人の室内を横切り、ベッドの上の毛布を退けて上杉を呼ぶ。二人がかりで真物をベッドに横たえると、稲葉は手際よく襟元を緩め、毛布をかけた。

「夏美センセー呼ばなくて大丈夫かな……」
「多分貧血起こしたんだと思うから、とりあえず寝てれば治ると思うけどな」

　窓のカーテンを閉め、光を遮断する。
　真物の付き添いで何度か保健室を訪れている稲葉は、大抵の用品なら場所を覚えていた。戸棚から消毒液と脱脂綿を取り出すと、半ば血の乾いた真物の耳の治療に取り掛かった。

「うぅ、痛そう……」
「これなぁ。無理に引っ張って外したようなもんだから、引っかき傷みたくなってんな」

　自分の怪我は痛みとか自分自身のものだから解る分大した事はないが、人の怪我や血を見るのは嫌なものだった。

「見神、ちょっと我慢しててな」

　意識がないのは分かっていたが、あえて稲葉はそう声をかけた。
　青白い顔のまま、死んだように横たわる真物の姿を見ているのが辛くて、上杉は顔を背けた。
　そこで、はっと思いが弾ける。

「おい、上杉？」

　何も言わず、突然出ていった上杉に驚いて稲葉は声を上げた。しかし、足音はすぐに遠退き戻ってくる様子はない。訳が分からないと零し、仕方なく稲葉は真物に目を戻し治療を続けた。
　保健室を飛び出した上杉は、一旦屋上に戻り真物の座っていた辺りをもう一度よく探した。
　ほどなくして、午後の授業開始を告げるチャイムが聞こえてきたが、構わず上杉は這いつくばって隈なく見回した。ある程度予想はしていたが、やはりピアスは見付からなかった。
　今度は立ち上がり、フェンスの向こうに目を移した。真下には奇岩が見える。もし、ここから落ちたとするなら、あの植え込みの辺りに落ちているはず。
　上杉は位置を頭に叩き込むと、踵を返し駆け出した。
　一気に階段を駆け降り、中庭に飛び込む。
　既に授業は始まっていた。
　上杉は見付からないように身を低くして中庭の奥まで走り、奇岩の影に隠れるようにしゃがみ込んで慎重に植え込みに足を踏み入れた。そこから屋上を見上げ、先程自分が見下ろした位置と間違いない事を確認すると、地面に顔を近付け銀色の輪を探し始めた。
　だが、どんなに目を凝らしても、それらしいものは見付けられなかった。諦めず、上杉は何度も何度も同じ場所を探した。
　後先考えず飛び降りようとするほど、あのピアスは真物にとって大事なものなのだ。
　どうしても見付けてやりたい
　せめてもの罪滅ぼしに、というわけではなく
　これで帳消しにしてほしい、というわけでもなく
　大事なものを失う哀しさを、これ以上体験してほしくない…哀しそうな顔を見たくないとか…多分そういう事。
　ただその思いで、上杉は懸命にピアスを追った。しかしそれほどの強い思いを以ってしても、見付ける事は出来なかった。
　やがて焦りと、見付けられない自分に対する怒りが、心にふつふつと込み上げてきた。
　情けなくて悔しくて、上杉は泣きたくなった。

　違う、泣きたいのはミカチの方で、自分が泣いてどーすんのさ

　不甲斐ない自分を叱責する。
　上杉は植え込みに座り込むと、半ばやけになって奇岩を振り返った。その目に、真正面に、銀色の輪が映った。
　ピアスは、奇岩のすぐ傍に転がっていた。
　上杉は立ちあがって制服をはたくと、ゆっくりと近付いて手を伸ばした。間近で確認する。
　この形は間違いなく、真物のピアス。

「やった……」

　思わず呟く。

「上杉！」

　直後、鋭い声で名前を呼ばれ上杉はびっくりして目を上げた。見ると、中庭の入り口に強い顔で立つ南条の姿が目に入った。

「あ、南条」
「貴様は…ここで何をしている！」

　間の抜けた顔でこちらを見る上杉に、南条は呆れた声で問い詰めた。

「あ、えと探し物……」

　驚きの余韻を残したまま、素直に答える。

「今が授業中だという事を解っているのか？」
「ああ……そっか」

　ようやく状況を飲み込んだらしい上杉に、南条はますます呆れて言葉を失った。
　たまたまクラスの人間が、中庭にいる上杉に気付き教師に告げたところ、すぐに連れてくるよう言い、その役にたまたま、南条が選ばれたのだ。
　放っておくのも気が引けると来てみれば…南条は額に手を当て、とにかく教室に戻れと上杉に言い放ちさっさとその場から立ち去った。
　去り際物凄い剣幕で怒鳴られた上杉だが、探し物が見付かり気持ちが高揚していたせいで、ほんのわずかも心に響かなかった。
　ピアスは、かなり高い所から落ちた割には傷一つついていなかった。恐らく、土の上に落ちたのが幸いしたのだろう。上杉は普段使わない方のポケットにピアスをしまうと、急いで保健室に向かった。

「あ…っちゃー」

　ベッドサイドに椅子を寄せて座り、上杉が戻るのを待っていた稲葉の耳に、始業のチャイムが鳴り響いた。

「授業始まっちゃったよ」

　まいったな、という気持ちも込めて呟く。
　その時、真物の口から低い呻きが漏れた。

「みかみ？　大丈夫か？」

　そっと呼びかける。うっすらと目を開き、声のした方に首を傾げる真物に、もう一度呼びかける。

「！…」

　急に目を見開き、真物は飛び起きた。
　驚いて稲葉が手を差し伸べる。
　案の定、目眩を起こし、真物は頭を押さえて前のめりに深くうな垂れた。

「う……」

　痛みを訴える声に、稲葉は慎重に様子を見守った。

「急に起きたりすっから」
「………」
「どした？　吐きそうか？」

　声にならない声で何かを呟く真物に、稲葉は聞き返した。

「ゆびわが……」
「え……？」

　聞き間違いかと思い、耳を寄せる。

「探さないと……ゆびわがなくなったら…真物が悲しむ……」

　かすれた声で囁く言葉のほとんどは聞き取れなかったが、いつも聞く声とはどこか違うように思え、稲葉は顔を覗き込んだ。

「見神？」

　呼び掛けに応えて向けられた強い瞳は、今まで一度も見た事がない…ある種の鋭さを秘めていた。
　稲葉は一瞬、どきっとなった。
　まるで別人のように、纏った雰囲気そのものが違って見える。
　ついつい、まじまじと眺めてしまう。
　こめかみの辺りを押さえ、眉を寄せる辛そうな表情に、稲葉はそれどころではないと気持ちを切り替え重ねて声をかけた。

「ひどく痛むか？」
「すぐ治まる……」

　返ってきた声が思ったよりしっかりしていたので、稲葉はとりあえずその言葉を鵜呑みする事にした。
　が、靴を履いて立ち上がったまではよかったが、中々歩き出せないでいる真物に考えを撤回する。

「やっぱまだ休んでた方がいいって」

　悔しそうに歯噛みし、しかし自由にならない身体では何する手立てもない。素直に稲葉の言葉に従いベッドに腰を下ろし、頭痛が治まるのを待った。
　しばらくそうしていると、突然保健室の戸が開き上杉が姿を現した。

「おいー、どこ行ってたんだよ」

　少し、責めるような口調で稲葉は言った。

「ミカチ…大丈夫？」

　そんな稲葉には目もくれず、ベッドに座る真物に真っ先に声をかける。
　軽く目を閉じて、二度、三度と頷く様子にほっと胸を撫で下ろし、上杉は傍に近寄ってポケットの中のものを差し出した。

「あっ……」

　目にした途端、真物の顔に笑みが広がるのを見て、上杉は思わず泣きたくなるくらい嬉しくなった。

「ああ、そっかなーるほどね」

　稲葉は頷いた。
　真物の嬉しそうな顔を見るのは、随分久しぶりのような気がする。

「ありがとう……」

　そう言って真っ直ぐ向けられる真物の目と視線が合い、上杉ははっとなった。
　初めて真っ向から見る真物の眼差しは、今まで知らなかったのが悔やまれるほど凛とした美しさを秘めていた。
　中心に強い光を宿した濃い色の瞳…目を逸らす事は、罪のように思えた。
　真物は、受け取ったピアスを大事そうに手の中に握ると、額に押し当てた。

「本当にありがとう」

　深い感謝の響きに、上杉ははっと息を飲んだ。
　生じたのは、紛れもなく罪悪感だった。
　自分のしていた事は――

　第一印象は最悪だった

　昔の自分を見てるみたいで無性に腹が立ったり
　近寄りたくないと思っているのに何故か話し掛けてしまったり
　予想通りの反応に本当は苛立っているのに何でもないふりして話し続けたり

　今でも触れば痛いのに、なんで傷に触ってしまうんだろう

　昔の自分を

『いつも誰かに助けを求めてたよ』

　見てるみたいで

『誰か一人でもいいから味方が欲しいよ』

　イライラする

『誰も自分の気持ちなんかわかりっこない』

　だからこそ、自分は他の人間のように彼をいない者として扱ってはいけない

　それなのに自分のしていた事は

「見神、大丈夫か？」

　稲葉の声に、上杉ははっと我に返った。見ると、こめかみの辺りを押さえ俯く真物の辛そうな顔が目に入った。
「授業終わったら迎えに来てやるから、それまで寝てろな。帰り、途中まで送ってやるよ」
「………」
「ちゃんとノート取っといてやるから、ゆっくり休んでろよ」

　申し訳なさそうに顔を顰める真物に、稲葉は笑みを見せて言った。

「ほら、早く横になれって。な？」

　毛布を持って急かす。

「うん…ありがとう」
「じゃな、夏美センセーには言っとくから、ちゃんと寝てんだぞ」

　稲葉はもう一度念を押し、ベッドの周りのカーテンを閉めた。そして何か言いたげに突っ立っている上杉を目で促し、連れ立って保健室を出ていった。
　扉を閉めたところで、上杉が小さな声で言った。

「オレ様…ちゃんとあやまろうと――」
「あぁ解ってるよ…って、バカ！　何泣いてんだよ！」

　何気なくかすめ見た上杉の、潤んだ目に驚いて稲葉は素っ頓狂な声を上げた。直後、慌てて口を押さえる。
　鼻をすすって、上杉は言った。

「わかってる…泣いて済むようなコトじゃないってわかってるよ、でもさ、あんまり悔しくてさ、自分があんまりバカで……」
「そんな事ないって。見神の事解ってやれたんだから、それでいいじゃん。な？　別に面と向かって謝ったりしなくてもいいから、普通に接してりゃ大丈夫だから、もういいから泣くなって！」

　そう言って稲葉は励ますように上杉の肩を軽く叩いた。見栄えよく装って、上辺だけで喋る時もあるけれど、本当に大事な部分まで解らない程中身のない人間ではないから、だから心底憎めないし、そこが好きな所でもある。
　散々堪えてついに零れた涙を急いで拭い、上杉は上を向いて瞬きを何度も繰り返した。

「でも、ミカチはどう思うかな……」
「うーん……そりゃ、最初は変に思うかもしれねぇけど、要は気持ちよ、気持ち。ごちゃごちゃ言わずにぶっかってきゃいいんだよ」
「ほんとにぃ？　ほんとにそれでいぃい？」
「んー、まぁ確かにな、今までのオマエの態度とか、目に付く時あったけど……」
「……だよな」
「いいから聞けって。確かにあったけど、過ぎちまったことはもうどうしようもねえじゃん？　だからさ、これからはそうしなきゃいいだけのコトなんだからよ、もうそんな、いつまでも引きずんな。な！」

　励ます稲葉の言葉に無言で頷きながら、上杉は後について歩き出した。

　やってみなければ解らない、困難な問題に立ち向かうだけの強さが欲しかった。